手のひらに愛
「あと3つだね」
君は透明の瓶からラムネを1つ取り出して、手のひらに乗せて僕に見せた。淡いブルーのまんまるのラムネが小さく転がる。
それからその手をすっと持ち上げて、君はラムネを自分の口に優しく入れた。ラムネのあまさを味わうように目を閉じて口元をゆっくり動かす。ラムネが溶けてなくなるまでのほんの一瞬の時間。窓から射し込むキラキラした太陽の光が君の長い髪を包み込む。
これでラムネはあと2つ。
あの日、君はラムネの瓶と一緒に僕のところにやってきた。カラフルなラムネが入った瓶を大事そうに抱えて。このラムネがなくなるまで一緒に過ごしていいかと僕に尋ね、それからときどき僕の部屋に来るようになった。
一緒にテレビを見たり本を読んだり、くっついたりして時間を過ごした。君はちょっと独占欲が強くてね、「私だけだよ」って繰り返し確かめるように僕に言った。そんな君のあまえた瞳がとても色っぽくて、僕は君だけに夢中になった。
君が持ってきたラムネの瓶にはいっぱいラムネが入っていて、僕たちの時間はまだまだ続くと思っていた。ラムネの数を数えたことはない。だってたくさんだったし、君は週に1回くらいしか来ないからラムネはずっとなくならない気がしてた。
僕たちは1年近く、一緒に過ごした。
君は僕に会いに来るたびにラムネを1つ食べる。そしていつも同じ表情をして口のなかでラムネを転がす。しあわせそうな、その微笑みを見ると君を抱きしめたくなる衝動に駆られたよ。
何個目だったかな。
君がラムネを口に入れてすぐに僕に口づけしたのは。僕の口のなかは一瞬であまくなって、とろけそうな気持ちになった。「今日は帰したくない」って言ったら君はうれしそうに笑ってくれた。
君が僕のかわいい恋人になったのがいつからだったのか、「付き合おう」って言葉を交わしたわけじゃないからよく分からないけど、君はいつのまにか僕のなかで一番大切な人になってしまった。
でもね、君は来るたびに必ずラムネを食べるからラムネは確かに減っていったんだ。数えたことのなかったラムネはとても少なくなったから数えなくても一目で数が分かるくらいになった。
それにさ、君がおいしそうにラムネを食べるから、ちょっとちょうだいって何個かもらったこともあったよね。ラムネはおいしかったよ。僕は二人の時間を食べてることに気づかずにラムネのあまさを味わってた。
あと5つくらいから君は毎回、残りの数を言うようになった。だけど君の表情はまったく変わらず、寂しさも不安も何も見えなかった。
あと2つ、そしてあと1つとなったその日、君は言った。
「これで最後だね」
手のひらにピンクのラムネを乗せて僕を見上げた君はやっぱり落ち着いていて、これで終わりなんて嘘だと思った。
「最後の1つはあなたにあげる」
僕の手のひらにラムネがコロンと転がる。
僕は急に不安が押し寄せた。冗談だよね? この最後のラムネを食べたら君は僕たちの関係を終わりにするの? そんな遠い約束を僕は守りたくないよ。
僕はラムネを食べるのを躊躇した。
君が僕をじっと見つめる。そして君はさらりと言った。なにも特別でもないように、ラムネはただのおやつだよって空気を出してさ。
「ほら、あまいよ。食べていいよ」
僕はね、君がこの部屋に来るから部屋を丁寧に掃除するようになったんだ。カーテンだって洗濯したさ。シーツも枕カバーも新調して、いつ君が来ても気持ちよく過ごせるようにっていろんなものを整えた。
君がラムネを食べたあとに僕の横でくつろいでくれるのが本当にうれしかった。僕にあまえてくれる君がかわいくて仕方なかった。いつも一緒だと思っていた。終わりは来ないと思っていた。それなのにラムネはあと1つになったなんて、嫌だよ。
だから駄々っ子のように僕は小さな声でつぶやいた。
「ラムネ、食べたくない」
まさかこれだけ一緒にいたのに、本当にラムネがなくなったら終わりだなんて信じてないよ。だけどさ、怖いんだ。君がもし最初の約束どおりラムネと一緒にいなくなったらと思うと怖い。
君はラムネを乗せた僕の手を両手でそっと包み込んで、小さく笑った。君は何も言わないけど僕には分かるよ。君はきっと本当にもう二度とこの部屋には来ないんだろう。僕は君がこんなに大好きなのに、君は去っていく。
僕たちは終わるんだね。
最後の1つのラムネを僕は口に放り込んだ。涙と一緒に飲み込んだ。
君は言う。
「ありがとう。ずっと大好きだったよ」
僕は君を静かに抱きしめて、柔らかい長い髪を何度も撫でた。僕の腕のなかでじっと動かない君が愛しくて愛しくて、どうにもならないのにな。
君がいなくなったあと、僕はラムネを買いに出かけた。いっぱいラムネが詰まった瓶をまたリビングに置くために。
あぁそうか、あと2つのときにそうしておけばよかったんだ。最後の1つになる前に、ラムネをたくさんに増やしておけばよかったんだね。
僕はバカだな。
君を失って初めて気付くなんて。
だけど恋ってそんなもの。
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