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「もしさ、私が離婚したら、あなたどうする?」
「じゃぁ、僕と結婚しようか」

そうなんだ、翔は私が離婚したら私と結婚するんだ。

「じゃぁさ、私が離婚しなかったら、この先、私たちどうなるの?」
「どうもならないさ」

そうか、翔は私が離婚しなくても、このままなんだ。

「でもさ」
「うん」
「君が離婚して、僕と結婚したら、僕たちの何が変わるの?」
「んー、形かな。私たちの形」
「形? どんな?」
「夫とか妻とかになるから対外的に私たちが認められるってことかな」
「ふうん」
「なんかさ」
「うん」
「形って重いの? 軽いの? それ、しんどい?」
「うーん、翔にはちょっと重くてしんどいかもね」
「へぇ」
「うん」
「まぁ、君が離婚してから考えようか」

あまくないきな粉に砂糖を入れて、あまいきな粉を作った。

あまいな。

でも、おいしい。


***


「あのさ」
「うん」
「なんかさぁ」
「うん、なに?」
「夫から離婚届渡されたんだ」
「あー」

あー、って言うんだ。翔らしい。

「どう思う?」
「んー、君は離婚したいの?」
「したいこともないけど、したくないこともない」
「わかりにくいね」

わかりにくいね。私自身もわからない。

「君が離婚したら結婚しようって言ってたっけ?」
「まー、そうだったよね。離婚してから考えようってあなた言ってたね」
「あー」

まー、と言って、あー、なんだ、私たち。ゆるいな。

「でもさ」
「うん」
「夫とか妻の形って、ちょっと重くてしんどいんだよね?」
「うん、翔にはね、たぶん」
「ふぅん」
「うん」
「まぁ、君が離婚届出してから考えようか」

トーストにかけた蜂蜜が指に垂れた。

薄い黄色のとろりとした蜂蜜。

翔が笑いながら私の指を舐めた。

「あまいね」

私も舐めた。

あまいな。

でもやっぱり、おいしい。


***


「離婚、したの?」
「あー、それねぇ、しなかった」
「どうして?」
「うーん、翔が私と結婚するの重くてしんどいだろうと思って」
「あー」

翔はソファーに転がりながら私のほうを向いて、ちょっと笑った。かわいい。

「私と結婚したかった?」
「んー、どうかな」
「なんかさぁ、君を僕だけのものにするのって、ちょっと違うよね」

私を翔だけのものにするのはなんかちょっと違うのか。

翔の言うことはいつもよくわからないけど、わからないのがなんとなくね、心地いい。

バレンタインで翔がもらってきたチョコを1つつまんで、口に入れた。

翔が寄ってきて私の唇についたココアパウダーを舐めた。

「あまいね」

私は目をつむって口の中でとろけるチョコを堪能した。

あまいな。

でもチョコってどうしてこんなにおいしいんだろう。


***


あまい気持ちをくれる翔が出ていった。

夫との関係は別にどうでもいいとなんとなく思っていたときに翔と出会って、なんとなく付き合いが始まった。

私が夫には黙って小さなアパートの1室を借りて、気が向いたらそこに行った。翔はそこがまるで自分の部屋のように毎日そこにいて、たまにバイトに出かけてまた帰ってきた。

翔は気まぐれで、気分が乗らない日はソファーに寝転がったままバイト先に「休みます」と電話をする。よく休むわりにはクビにならないゆるいバイト先をうまく見つけているのが翔らしい。

私がその部屋に行くと、ソファーの上から優しい笑顔で「あぁ、いらっしゃい」って言う。家賃だって名義だって私だから、ここはあなたが「いらっしゃい」って言う場所じゃないんだよってちょっと思うけど、そういうのは私もあんまりどっちでもいい。

どうせここのお金は夫のお金なのか私のお金なのかわからないところから適当に出ていて、それは夫も特に気づかない金額で、だからこの部屋の存在理由だとか住人が誰だとかなんて興味ある人はどこにもいない。

あぁ、でも夫が私に離婚届を渡してきた理由ってなんだったんだろうと思うと、もしかしたらこの部屋がバレてたのかも。

「離婚、別にしたくないんだけど」

って離婚届を手渡し返したら

「わかった」

ってスッと受け取って丁寧にたたんでスーツの胸ポケットにしまったときの夫の顔はどうだったのかな。

いつもと変わらないきちんとした表情で、何も変わらない歩き方で玄関で靴を履いて出かけていった。後ろ姿に寂しさも悲しさも憤りも何も感じなかったから、私もいつものゴミ出しがひとつ終わったくらいの気持ちで、食べかけていたクロワッサンを手にとってまた食べた。

翔は私の気だるい気分をなんとなく包み込むように抱きしめてくれる男だった。ゆるくてあまくて、いつも何を考えて生きているのかわからないような男だったから、ある日、ふといなくなったときにも特に驚きはなかった。

結婚は重くてしんどいのかって聞いたり、君を僕だけのものにするってなんか違うよねって言ったり、私のやんわりした要求をやんわりとかわしながら、いつもあまく微笑んでいた。

翔がいなくなったらこの部屋の空気が変わるのかと思ったけど、ここに漂うものは何も変わらず、翔がいたころのままにふんわりとしていた。翔がたまに水をやっていた、ソファーのそばの観葉植物も静かに穏やかにそこにある。

私はあんまり泣かないんだけど、ちょっとだけ涙がでたみたい。

どうしてだろ。

私って寂しいのかな。

離婚届を渡されたとき、もしかしたらあのときに私は泣きたかったのかな。「君はもういらないよ」って無言で語る紙を渡されたときにね。

でもそういうのもよくわからなくて、よくわからないから、よくわからない翔が必要だったのかもしれない。

もう翔はいないけど、この部屋はこのまま。

私は何度もここに来て、翔に優しく包まれたベッドで一人、静かに眠る。

「あぁ、いらっしゃい」って翔がまた言ってくれるかもしれないなって、たぶんちょっと期待しながらドアを開け、たぶんちょっと絶望してドアを閉め、ベッドにもぐって静かに眠る。ここはよく眠れる。

でもなんとなく、なんとなくだけど、もう少し時間が経ったころに、「ただいま」って翔がドアを開けてこの部屋に入ってくる気がしてるんだ。

だってここは翔の部屋だから。

朝、起きて、あまいマカロンを半分だけ口に入れた。

あれ、あまくない。

あー、そうか、しょっぱいんだね。涙が思ったよりもたくさん落ちている。


***


久しぶりにこの部屋のドアを開いた。

しばらくは翔が戻ってくる気がしてときどき部屋の空気を入れ替えに来たり、たまにここのベッドで眠ったりしていた。ここはよく眠れたから。だけど日が経つうちに、この部屋から翔の匂いも空気も少しずつ消えていったから、なんとなく来るのをやめた。

今日は翔がいなくなってからちょうど1年になる。翔はどこに行ったんだろう。よくわからない翔を必要としていた自分もどこに行ったんだろう。あの日、この部屋で泣いて以来、私は一度も泣いていない。

もうこの部屋は解約しようと思って不動産屋との手続きを終えた。今日がこの部屋に来る最後の日になる。窓を開けて、新鮮な空気と日の光を入れた。

ソファーのそばの観葉植物はほとんど枯れていた。あまい笑顔の翔の横顔を明るく見せていた緑はもう色あせている。葉を触ると湿り気が足りなくて苦しそうだった。

私はソファーにゆっくり腰掛けて、体を横たえた。テレビが目の前にあって、こうしていつも翔はテレビを見ていたんだなと思って画面を見つめると、そこに小さな紙の端が見えた。テレビとテレビ台の隙間に斜めに差し込まれている白い紙。

私は立ち上がってテレビに近づいて紙をそっと取った。

紙には言葉が書かれている。とても短い言葉。

「ねぇ、離婚した?」

その瞬間、強い風が窓から吹き込んできた。私の手から紙が舞うように飛んで静かに床に落ちた。

翔は私に離婚してほしかったのかな。翔は一度も自分の気持ちを私には見せなかったし、私も見せなかった。たぶん二人とも、自分の気持ちなんてわからないふりをしていた。私たちの関係はどこまでもゆるくてどこまでもあまかった。

「私はね、離婚したんだよ」

そういえば私はそのことも翔に伝えたかったんだ。

「じゃあね」

一呼吸置いてからそう言って窓を閉めて、玄関ドアに向かう。ドアを開けるとまた風が吹き込んできた。今日は風が強い日だね。乱れた長い髪を手でゆっくりかきあげた。

リビングまで流れた風があの小さな紙を揺らす。

私は振り向かずにドアを閉める。

紙の裏に書かれた携帯番号に、風だけが気づいた。


3346文字

#短編小説 #翔 #恋

※再掲載作品ですが、最終話を書き加えて一本にまとめました。



お気持ち嬉しいです。ありがとうございます✨