数のクオリア(序)
ある日。
目が覚めると、あなたはいつもとは違う世界にいることが分かった。パラレルワールド、というやつだろうか。まさかこんなことが自分に起こるなんてなぁ、と他人事のように呟く。その暢気な声音からは、深刻さなど微塵も感じることが出来ない。
一見、元いた世界と何ら変わるところがないようだ。呼吸も出来るし、物理法則も同じ。勿論、日本語も通じる。じゃあ何故違う世界に来たことが分かったんだよ、というツッコミは野暮だ。そういうものだと、納得してもらう他ない。というより納得してもらわないと、話が進まない。いいね?
閑話休題。
あなたが今いる世界には、たった一つ、あるものが存在しない。それは、数の概念だ。奇妙なことに、あなた以外のすべての人間が、誰一人として数の概念をもっていないのだ。
突然、頭の中に声がこだまする。
元いた世界に帰りたければ、この世界の中の誰でもいいから、そいつに1の概念を理解させ給え。
余裕じゃないか、そんなこと。
あなたは思わず笑ってしまう。
小学一年生だって、10まで数えられるぞ。
別に元の世界に帰る必要など無いが、人に何かを教えるのは好きだ。それに、偉そうに語りかけてきたあの謎の声の主に、目に物見せてやりたいし。
という訳で、あなたは教える相手を見つけることにする。今日は平日で、今は朝の7時30分だ。通勤ラッシュ真っ只中ということもあり、探すのに苦労はしないだろう。取敢えず駅に向かうことにした。
目隠ししても歩けるくらいに見慣れたその駅は、いつも通り大勢の人が行き交っていた。スーツ姿のサラリーマン、朝練に行くと思しき体操服を着た高校生の集団、ピカピカの制服を着た若い駅員。年齢も性別もバラバラなはずなのに、どこか共通したものを感じる。何というか、皆生き急いでいるみたいだ。何をそんなに焦ってるんだろう。そんなんじゃ疲れちゃうよ。自分のペースで、気楽に歩こうよ。
忙しそうに足を運ぶその中に、一人だけ暇そうにぼんやりしている人影を見つける。眼鏡を掛けた線の細い、ひょろ長の男性だ。恐らく年齢は二十歳前後。大学生だろうか。ベンチに腰掛け、虚空を見つめている。昼行灯という言葉が、あなたの頭に浮かんだ。
彼でいいか。ポケーっとしてるけど。
あなたは足早に彼に近づき、声を掛けた。
「すみません」
(続く?)
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