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自己犠牲的な存在を描き続ける―劇団桟敷童子『海猫街』から『阿呆ノ記』へ


Ⅰ 桟敷童子の演劇空間

 桟敷童子の芝居が上演されるのは、いつだって倉庫みたいな劇場だ。お隣の人とは肘がくっつきそうで、前の人とも数十センチしか離れていない。近いのは、他のお客さんとの距離だけではない。舞台との距離も、役者さんとの距離もだ。ほんの数メートル先で役者の身体がエネルギッシュに躍動するのを目のあたりにし、物語の世界に没入することができる。それが桟敷童子の何よりの魅力だ。

すみだパークシアター倉の客席(倉のインスタグラムより)

Ⅱ ルネサンスを体験する―『海猫街』

 私が初めて桟敷童子を観たのは、2006年の『海猫街』だ。日露戦争後、北九州の貧しい漁村で、石炭が出ることがわかる。海女の勇魚(イサナ)はアルビノで、村で差別されている存在だ。彼女は、村が豊かになり弟が通う学校ができるならと、石炭を採るために、命の危険を顧みずに海に飛び込む。他の人々に代わって自己犠牲を払うことで、彼女の評価は一気にマイナスからプラスへと転じる。名前通り、勇気を持った魚のような勇魚を全身で演じる、板垣桃子の姿に心打たれたのを覚えている。

左が、板垣桃子演じる勇魚(劇団桟敷童子ホームページより)

 『海猫街』を観終えて、劇場に仕立てた倉庫から出ると、劇場に入ったときの自分とは違う自分になったような気がした。少し元気をなくしていたのが、役者さんたちのパワーあふれる演技のせいか、自分じしんもパワーアップしたように感じられた。暗くて狭い、どこか胎内のような演劇空間を体験することで、私はもう一度生まれ直し、ルネサンスしたのかもしれない。

 それから、桟敷童子のお芝居の虜になり、足繁く公演に足を運んだ。それがコロナをきっかけに、お客さん同士や舞台との近さが心配の種となり、桟敷童子のお芝居を観ることからしばらく離れていた。行こうと思いつつ、チケットを買わずぐずぐずしていたら、行こうと思っていた回が満席御礼で観られなかったこともある。

Ⅲ バリエーションとしての『阿呆ノ記』

 1 場所

 6月10日、おそらく5年ぶりに、すみだパークシアター倉(そう)に赴き、音無美紀子を客演に迎えた『阿呆ノ記』を観た。コロナ前と違っていたのは、当日券を買ったお客さんの座席を作るために、詰めて座らされることはないところ、だろうか。

 『阿呆ノ記』の設定は、18年前に観た『海猫街』のバリエーションといえる。
 『海猫街』は、日露戦争後の北九州の漁村が舞台で、海で貝類を取ることを生業とする海女が登場した。『阿呆ノ記』は昭和初期の北九州の山村が舞台で、山で獣を狩ることを生業とする猟師が登場する。

 2 筋書き

 『海猫街』で、海女の勇魚は、村に学校ができるならと、潮の流れが早い場所に石炭を採るために飛び込む。しかし、政府の目的は学校を作ることなどではなく、軍港建設だった。自然から恵みを受けて生きていた海女たちは、結果として、海の自然を破壊し、日本の軍国主義を推し進めるためのコマとして利用されてしまう。

 『阿呆ノ記』で、猟をしてもなかなか獲物が取れず、生活が苦しくなった村の男たちは、山を切り崩して鉄道建設をするための工員の募集に乗る。自然から恵みを受けて生きていた猟師たちが、山の自然や生き物を破壊し、日本の軍国主義推進のためのコマになってしまうという皮肉がある。 

『阿呆の記』の猟師たち(ステージナタリーより)

 3 登場人物 


 『海猫街』で、村人に代わって死の危険を冒して海に飛び込むのが、海女でアルビノの勇魚だ。村は海賊の末裔と海女からなり、海女は差別されている存在だ。勇魚は、その海女の中でもアルビノであるということで、さらなる差別を受けている。彼女は、海に飛び込むことで、差別される存在から神のごとく崇められる存在へと転じる。彼女は、海の守り神である白鯨と同一視されもする。

 『阿呆ノ記』の舞台は阿呆村だが、村にある寺で、生贄専門に育てられた子供たちが、阿呆丸だ。彼らは村人に代わって自己犠牲を払うことを求められている。そして、阿呆丸という命名からもわかるように、村人から差別されている。
 阿呆村という名から、村が差別されていることがわかるが、その村の中でさらなる差別を受けているのが、阿呆丸なのだ。
 3人の女の子は、阿呆丸として、生贄になるために育てられたが、お役目を果たす前に、明治政府が生贄を殺人罪として禁止したために、行き場を失う。昭和初期、年老いた彼女たちは、半ば精霊のようになって、山に住んでおり、山の守り神と同一視される。

3人の老女(ステージナタリーより)

 霊的な存在である3人の老女という設定は、シェイクスピアの『マクベス』に登場する、3人の魔女がヒントとなっているのだろう。3人の老女は、村人たちの営みを見守り、村の女頭目である伊織(音無美紀子)に、自分のお役目果たせ、とささやく。伊織とその家族は、3人を慮って、球根で作ったまんじゅうを山中のあちこちに置くのだ。

Ⅳ 演者が変われば舞台も変わる

 こんなふうに整理してみると、桟敷童子の脚本の骨組みは、私が最初に観たときから基本的に変わっていない、ということがおわかりいただけると思う。これは、東憲司が毎回脚本を手がけている以上、当然ともいえる。ただ、同工異曲だからといって、つまらない、という訳ではない。

 『海猫街』は2014年の再演も観たが、同じ脚本であっても、演じる役者が違うことでまた違った雰囲気を楽しむことができた。私はやっぱり、初演の板垣桃子の勇魚がよかったと思ったけれど。

 今回の『阿呆ノ記』だと、女の頭目が登場することで、ジェンダーの固定概念が揺らぐ。この女頭目を、音無美紀子がしゃんとした立ち姿で説得力をもって演じており、彼女の立ち居振る舞いから目が離せなかった。音無美紀子が客演するということで、東は彼女に当て書きし、花を持たせるようにしたのだろうが、その期待に十分応える演技だったと思う。

村の女頭目を演じる音無美紀子(ステージナタリーより)

 脚本の基本的な骨組みは同じでも、演者や主役の性別を変えることで、舞台は全く違った輝きを放つのだ。

Ⅴ 自己犠牲的な存在を描き続ける

 『海猫街』と『阿呆ノ記』の骨組みの類似性を考える中で、疑問に思ったことがある。東は二作品とも、共同体の他のメンバーに代わって自己犠牲を払う存在を描いているけれど、なぜなんだろう、と。

 『阿呆ノ記』に関していうと、明治政府になって生贄が禁止されて、阿呆丸は死ぬ必要がなくなる。けれど、今度は男たちを戦争に駆り出すという形で、国家のための生贄が求められる。村の猟師たちは徴兵され、一人また一人と消えてゆく。

 そうか、脚本の東は、自己犠牲を払う存在を、他人に無償の愛を捧げる存在としてプラスにとらえている訳ではないのだ。国家のエゴイズムのために犠牲を払わされる存在を描くことで、命を犠牲にすることを強いる戦争が二度とあってはならない、というプロテストを行っているのだ。遅まきながら、そう気がついた。

 と書いてはみたものの、自己犠牲的な存在を描くのは、社会的な問題提起をするためだけではない気もする。
 桟敷童子の第2回公演のタイトルは、『汚れなき悪戯』である。タイトルは、同名のスペイン映画から来ている。映画は、聖人になった、イエス・キリストのごとき少年の一生を描いている。だから、東が描く自己犠牲的な存在のモデルは、イエス・キリストなのではないかと思う。映画がイエス的存在を描いたことにインスパイアされ、イエス的な存在を批評的な距離を持って描くのが、東の作品世界の特徴といえるのではないか。

 いつか、東に聞いてみたい気もする。あなたが自己犠牲的な存在を描き続けるのは、なぜですか、と。

『汚れなき悪戯』(1955)で、キリスト像にパンを手渡すマルセリーノ
東憲司(1964〜)(劇団桟敷童子ホームページより)

 劇団桟敷童子『阿呆ノ記』は、2024年6月16日まで、すみだパークシアター倉で上演中です。ただ、チケットは既に売り切れているようです。
 劇団公演としては、12月15〜24日に、同じくすみだパークシアター倉で、新作公演『荒野に咲け』があるそうです。

 今回は触れませんでしたが、毎回、舞台に仕掛けがあり、水が噴き出したり、舞台が揺れたりします。今回はどんな仕掛けかな、とわくわくします。


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