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現象学(超越論的主観性)という考え方、モノローグからダイアローグへ「常識」を疑う革新者(イノベーター)


「常識とは18歳までに身につけた
偏見のコレクションでしかない。」

「重要なのは疑問を持ち続けること、
知的好奇心は、
それ自体に存在意義があるものだ」

「失敗したことのない人間というのは、
挑戦をしたことのない人間である」

「真実とは経験というテストの結果、
得られるものである」

「何かを学ぶためには、
自分で体験する以上にいい方法はない」

これは、
相対性理論で有名な物理学者
「アルベルト・アインシュタイン」氏が
残した代表的な言葉です。


考えてみれば
「常識」とは、ある時代に、
ある空間で、大多数が正しいと
信じていることの集合体に過ぎない、
とくに反省することなく
世間一般の人が共通に持っている
当たり前の知識や判断力のこと。


大部分の人が成人になる頃には、
経験を通して実際に身につけている
知識に基づく判断力ですが、
絶対的でも普遍的でもなく
それぞれの社会には
それぞれの常識があり、
(社会が違えば、常識も違う)
その常識はまた、
時代とともに変わっていく、


つまり、
自分にとっての「常識」が
相手にとっても「常識」とは限らない。
すなわち、
この世界の中で「絶対」と
いえることはほとんどありません。


私たちは物事のとらえ方が
あっという間に古くなる時代に
生きています。
少し歴史を振り返ってみると
江戸時代末期、1853年に
アメリカ合衆国から黒船が来航し、
日本に開国を迫ったとき、


面倒なことが起こった
と思うぐらいで、
ほとんどの人はこれまでと
変わらない日常が続くと
思ったことでしょう。


遠い外国からきた人や
国全体のことなんて、
自分の生きる世界とは
まったく関係ない、
あるいは、
日常の生活だけで精一杯で、
そんなこと考えたくもない
と思うのは当然のこと。


ところが実際は、
ここからわずか15年で
江戸幕府は消えてなくなって
しまったのです。
そして
1868年から明治時代が始まり、
人々の生活する環境もガラリと
変わってしまいました。


現代はこのときよりも
さらに激動の時代といえますし、
こうした世界の動きの中で、
どんどん「新常識」が
生まれてきます。
現代に生きる私たちは、
その都度、自分の中の
「旧常識」を上書きして
いかなければなりません。


たとえば、
「自分らしさ」に「気づく」
という作業を通して、
そこに映った自分を
客観視することで、
その経験に投影されている
「モノの見方、考え方」に
気づきます。
つまり、今までそこに
あったものが明確になる
ということです。


霧の向こうに在ることは
わかっていても、
それが何か明確ではなかった
何らかのものが霧の向こうから
次第に姿を現す、”現れる”
というイメージで、
新たな意味を創り出すという
ことではなく、
今まで在ったものが明確に
意識されるという意味です。


現象学の目的は
私たちの目の前にあらわれる現象が、
一体どういう構造のもとで
成立しているのかを解明することです。
つまり、
現象をどう理解するかによって、
現象学はさまざまな意味をもちます。


それに先立って、
捨てていただきたい
ひとつの先入観があります。
あらゆる先入見を排し、
意識に直接現われたもの、
直観されたものに対し、
内在としての「絶対性」を
認める点にあります。


わかりやすくいうと
目の前にある
「机」や「コップ」などの
物について考える場合、
それらが客観的に
実在するかどうかは
決してわからないので、
実在するという先入見を捨ててみる、
この場合「机」や「コップ」が
意識に現われていること、
それらが見えていること自体は
絶対に確かなことだと
わかると思います。


このように、ふだん私たちは、
事物の実在性を素朴に確信しています。
この確信がなぜ成り立っているのか、
その条件を取り出す作業のことを、
ドイツ出身の哲学者
「エトムント・フッサール」氏は、
「超越論的還元」と呼んでいます。


まずはじめに
世界(事物)があって、
その情報が電磁波(光線)や
空気の振動(音波)などの媒体を通って、
眼(視覚)などの感覚器官に入ってきて、
光が受けて得た情報を脳に送り、
現象が成立するという観念です。



太陽の光がリンゴに当たって、
そのリンゴから反射する光が
眼(視覚)に入ってきて
網膜に表象を生じさせることで
私たちはりんごの色を認識して
いるわけですが、


多くの人々は、
現象は世界や事物の方から
自分に向かってやってくるという
世界観をもっています。
しかし、フッサールは
これを完全に反転させます。
まず、自分の眼前にありありと
現れている生きた直接体験が
最初にあって、
その直接体験から事後的に
太陽やリンゴや光などの
世界の事物は構成され
現象として生み出される、
というのです。


このことは
実在的なものでなくても
同じことがいえます。
たとえば
「不安」や「自由」などの
ような抽象概念についても、
そこに客観的な意味(真理)が
あるという先入見を捨ててみます。


すると「不安」や「自由」の
客観的な意味ではなく、
意識に直接現われた(直観された)
意味を考えることで、
その本質を抽出することが
可能になり、
そしてこの直観された本質は、
さらに普遍的なものへと
練り上げることが可能であり、
この作業のことを
フッサールは「形相的還元」
または「本質直観」と呼んでいます。


このように、現象学は、
意識に現前するものについては、
実在的な「物」であれ、
非実在的な「概念」であれ、
内在としての絶対性を認めることを
出発点としています。


どちらの場合にも本質直観が
成り立つのですが、
具体的な「物の本質直観」は、
その実在性への確信成立が
問題になるのに対し、
抽象的な「概念の本質直観」は、
さまざまな抽象概念の普遍的な本質を
意図的に取り出すことが目的となります。


つまり、
直観によって与えられたものは、
与えられたとおりのままに
受け取る必要があります。


今、目の前にリンゴが見えている、
このリンゴが幻想であるのか実在するのか、
それは答えの出ない問題ですが、
リンゴの像が原的に与えられ、
直観されているということ、
「リンゴが見えている」
ということだけは確かです。
そしてこれが
「リンゴがある」という認識の
正当性の源泉だということ
だと思います。


もちろん、フッサールが
ここで「認識」といっているのは、
意識の外部との一致を要求するような
客観的認識などではなく、
確信成立の条件だと解さねばならず、
ここを読み損なうと、
現象学を形而上学と同一視してしまい、
直観による客観的認識のことだと
誤解してしまうことになります。


客観的世界の実在性を確信させ、
目の前の世界に現実感を与えているのは、
個的直観と本質直観だけではなく、
他者の振る舞い、言動もまた、
客観的世界の実在性を確信させ、
世界に現実感を与えていることは
明らかです。


たとえば、誰か他の人に
「あなたはこのリンゴが見える?」
と聞いてみれば、
相手の人は
「あたり前じゃないですか」と
目の前のリンゴを指さすに
違いありません。



しかし、逆に相手の人が
「リンゴなんてどこにあるの?」
などと言い始めたなら、
あるいは、あたかもリンゴがそこに
無いかのように振る舞い始めたとしたら、
知覚や本質の直観から
リンゴの実在性を確信していたとしても、
その確信はたちまち疑わしいものになり、
リンゴの実在性は
大きく揺らいでしまうでしょう。


つまり、リンゴを見ている
自分の感覚が疑わしいのなら、
他者を見ている自分の感覚も
当然疑わしいことになります。
では、自分にとって
他者が実在しているという
確信はどこからくるのでしょうか。


他者はリンゴと違って
自分と同じ姿で言葉を喋り、
自分が感情に応じて
さまざまな表情になるように、
相手の表情も変化に富んでいます。


もし、自分の身体が自分の意識の
自由な意志に応じて変化するように、
相手の身体も相手の意識に応じて
変化しているなら、
相手が自分と同じような主観を
持っている存在であり、
自分と同じ世界を見ていることは
間違いない、と確信できるはず、


すなわち、もし、
自分と相手が同一の世界にいるなら、
自分にとって「ここ」にあるリンゴも、
相手にとっては「そこ」にあるのだと
考えることができ、
そして、
相手がそれをリンゴとして扱うことで、
自分はリンゴの実在性をはっきりと
確信することになるのではないかと
思うのです。


分子生物学者の福岡先生の著書
「生物と無生物のあいだ」によると、
生物は、肉体に備わった新陳代謝
というメカニズムを通して、
食料や飲み物を体の一部として
またはエネルギーとして取り入れ、
老廃物を排出し、その体を維持し、
成長や活動を続けることが
できると示しています。


生物の特長を「動的平衡」と
たとえるなら、
”動的”とはいうまでもなく
静的の反対で、
「動いている」「変化している」
ことを意味します。


一方、”平衡”とは
たとえば「平衡状態」などの
言葉が示すように
「つり合っている」「安定している」
という意味です。
したがって
『動的平衡』とは、
「変化して、安定している」
「動いていて、動かない」という、
相反する2つの言葉でできています。


つまり、
生物は新陳代謝を行う中で、
一方で細胞を再生し、
一方でそれを壊す。
そのようにして時間の流れの中で
生命は平衡状態を維持しています。


この生命の特徴「動的平衡」を
福岡先生は「砂の城」にたとえて
説明しています。
その城は「渚に作った砂の城」です。
渚には波が寄せてくる。
波は「砂の城」の一部を崩し去る。
しかし、次の波で砂が供給され、
城は元の形を保つ。


実態として
そこに存在するのではなく、
波が創り出す動的な何か、
時間の流れの中で変化しながら
平衡を保つ、
「砂の城」は”生命”だと
先生は述べています。


”両極化”が進む
不確実性の時代においては、
能動的に「自己変革」を続けられる
企業だけ(人だけ)が生き残る
といわれています。


既存の価値観が揺らぎ、
未来が”モヤ”に包まれたままの
ポストコロナの世界において、
多くの企業が(多くの人が)
自らの将来に向けたビジョンを
描きあぐね、持続性を確保する
新たな方法を問い始めています。


「生命体は
自らを”壊す”ことで進化する」
新たな創造や再構築のためは、
まず自分を壊すことが
非常に大切になってくるのでは
ないかと思っています。


そうした変わり続ける常識に
対応していくためには、
時代に合わせて自分の中の
常識をアップデートしていく
必要があるように思うのです。


「重いほうが速い」
という考え方は、
紀元前のギリシアの哲学者
「アリストテレス」氏も
書物に残していますが、
アリストテレスは、
大きな石は小さな石よりも
速く落下すると考えました。
つまり、重いものは軽いものより
速く落ちるということです。


今では誰でもこの考えが
誤っていることを知っていますが、

”物体の落下する速さは
その重さに比例する、
つまり、2倍重いものは
2倍の速さで落下する”という

”間違った概念”を
人類が完全に払拭するのに、
2000年近い年月が必要だった
のです。
今から2300年以上前のことですから、
こうした考えは当然のことと
信じられていたわけですが、
さらにそれから2000年近くも
この間違いは支持され続けました。


この”誤った伝統”に
真っ向から挑戦したのが、
イタリアの自然哲学者、
天文学者、数学者の
「ガリレオ・ガリレイ」氏です。


ガリレオは、
アリストテレスの理論を信じ込み、
その応用で済ませていた学問に、
従来のアリストテレス的な考え方や
宗教的な考え方に縛られることなく、
「自分の目で観察して確かめる」
自らの思考と実験によって
自然現象を数学的な手法を用いて
理解しようと努めました。


彼は実験や観察を重視し、
自分の正しい考えを証明するには
実験するしかないと結論づけました。


この伝統的な見解に
反論するためにガリレオは
思考実験を行ったわけですが、
むしろ、現実の実験よりも、
想像上の「思考実験」によって
「物体は重さにかかわらず、
同時に地面に到達する」と
結論したのです。


”思考実験”という言葉を
初めて使った
オーストラリアの物理学者
「エルンスト・マッハ」氏にかぎらず、
ガリレオやニュートン、
アインシュタインなどの
物理学者たちは思考実験を
しばしば使っています。
自分が直面している状況を理解し、
それにどう対処するか、
考えをめぐらせるために
行われるものです。


「我惟う、故に我在り」で
有名なフランスの哲学者
「ルネ・デカルト」氏は、
”真理を探究する際には
疑えるだけ疑え”といいました。


革新者(イノベーター)とは、
社会課題を見据えながら常識を疑い、
新しい切り口を見いだし、
埋もれている潜在価値を引き出して、
それを事業として創造し、
やり切り(納得)、進化させ、
最終的に社会に驚きや感動を生み出す人、
つまり、
「パイオニア人、先駆者、開拓者」
といわれる人たちです。
この定義の中に革新者のエッセンスが
詰まっていると思います。


イノベーター理論においては、
革新者(イノベーター)の注目を
集めることに成功しても、
必ずしも商品が万人受けするとは
限らないといわれます。
技術の進歩(イノベーション)は
どんなに便利であっても
一気に広まることはありません。
それは人それぞれ状況や価値観が
違うからです。


その広まり方(普及)のしかたを
理論化したのが
「イノベーター理論」です。
新しい製品が市場に普及していく中で、
製品を採用する消費者を早い順に
5つの層に分類した理論は、
1962年にスタンフォード大学の
社会学者である、
「エベレット・M・ロジャース」教授の
「イノベーションの普及」で
提唱されました。


5つの層は製品の採用が早い順から、
「イノベーター(革新者)」
「アーリーアダプター(初期採用者)」
「アーリーマジョリティー(前期追随者)」
「レイトマジョリティ(後期追随者)」
「ラガード(遅滞者)」
と定義されています。


イノベーター(革新者)は、
もっとも早く製品を採用する層で、
全体の割合の「2.5%」を占めます。

アーリーアダプター(初期採用者)は、
新しい製品に興味があり、
積極的に製品を採用してくれる層で、
全体の割合の「13.5%」を占めます。

アーリーマジョリティー
(前期追随者)は、
新しい製品に関心はありますが、
採用するのにやや慎重な層で、
全体の割合の「34%」を占めます。

レイトマジョリティー
(後期追随者)は、
新しい製品に対して消極的な層で、
全体の割合の「34%」を占めます。

ラガード(遅滞者)は、
新製品には興味を示さず
変化の好まない層で、
全体の割合における
最後の「16%」を占めます。

その中でもイノベーターと
アーリーアダプターを合わせた
消費者の全体の「16%」と
次の層であるアーリーアダプターの間が
キャズム(溝)と呼ばれており、
このキャズムを超えられるかどうかが、
製品の普及の分岐点とされています。


大切なのは挫折した経験を
どう活かすかだと思うのです。
挫折と思わないというのも一つですし、
挫折を前向きにとらえるのも一つです。
挑戦すると見える景色が
変わってくることでしょう。


革新者(イノベーター)」とは、
これまで他者があまり注目しなかった
資源に注目し、
私たちが通常マイナスだと
思っているものから、
プラスの潜在価値を引っ張り出し、
満足することなく事業モデルを
バージョンアップし続ける
「クリエイティブ」ではなく、
「クリエイティビティ
(哲学者であり数学者)」
ではないかと思っています。



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