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日本最古の仏像。長野県飯田市。グーグルマップをゆく #69

 グーグルマップ上を適当にタップして、ピンがたった町を空想歴史散策する、グーグルマップをゆく。今回は、長野県飯田市。

 長野県は明治までの長い間、信濃国(しなのこく)と呼ばれた。古くは「科野国」と記され、和銅6年(713年)に元明天皇によって発令された「諸国郡郷名著好字令」により、「信濃」と改名されたものである。

「諸国郡郷名著好字令」とは、地名を漢字2文字にして、良い意味の漢字を当てろというものであった。「信濃」がどう良い意味を持つかはわからないが、「科野」よりはよく見えるのは慣れのせいだろうか。

 まだ、科野国と呼ばれていた頃、国府は現在の上田市に置かれ、大和国国より国司が派遣された。ある年、国司が大和国の難波宮に上がる際、1人の男がお供として同行した。男は護衛程度のお供であり、貧乏で金もないので国司が大和国で公務に出ている間は特にやることもなく、時間を持て余した。

 難波宮には、洪水や高潮の際に海に排水するための堀が作られており、これを難波の堀江と言った。信濃国では見られない景色がもの珍しく、堀を歩いていると、何やら人のようなものが浮かんでいた。

 「人が溺れている!」と一瞬思ったが、次の瞬間、それが仏像であることを確認した。と思うやいなや、仏像が堀から飛び出て男の背中におぶさった。驚いて振り払おうも、どうにもこうにも仏像が背中から離れない。

 着物を上から重ねて仏像を隠したが、科野へ帰る際、国司がそれを見つけて「何を背負っている?」と尋ねた。男は正直に事情を話すと「家に持ち帰って祀れば、何かよいこともあるだろう」と言って、それきり仏像のことには触れず、出発した。

 家に帰ると仏像は我が家に帰ったかのように、するりと背中から滑り落ちた。男はどうしたものかと悩んだが、とりあえずきれいに拭いてやった。さて、どこに祀ろうかと考えたが、貧乏ゆえに祀れるようなまともなものもなく、唯一あった臼の上に置いておくことにした。

 それ以来、不思議なことが次々と起こり、男の人生は何をしてもうまくようになった。「この仏像が来てから縁起がよいことばかり起きる」とありがたがり、お堂を立ててやるまでになった。近所の人が男の話を聞きつけて、お堂にお参りにくるようになり、いつしか坐光寺と呼ばれるようになった。

 坐光寺は、元々男の家があった現在の飯田市にあったが長野市に移され、男の名前であった本田善光から取って善光寺と呼ばれている。

 坐光寺は元善光寺の改められ、現在も飯田市ある。善光寺だけでは片詣りとされ、多くの人が参拝に訪れている。

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