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秀吉の一夜城。福岡県嘉麻市。グーグルマップをゆく #68

 グーグルマップ上を適当にタップし、ピンがたった町を空想歴史散策する、グーグルマップをゆく。今回は福岡県嘉麻市。

 市街地から南下したところに大隈というところがあり、ここに益富城跡がる。益富城は、戦後期ん九州筑前国に勢力を張った秋月氏の支城である。

 天正15年(1587年)、豊臣秀吉は九州平定に出る。その際、当時の秋月家の当主であった際に秋月種実は、講和の使いと称して家臣・恵利暢堯を秀吉の許へ遣わした。敵情を探らせためである。

 秋月種実は、九州の覇者である大友氏に反旗を翻して追い詰めた男である。「豊臣何某がナンボのものよ」という自信があったに違いない。秀吉の元から戻った恵利暢堯は、秀吉の軍事力を目の当たりにして「勝ち目がない」と悟り、「秀吉に従った方がよい」と進言した。

 種実も予期せぬ報告に耳を疑った。「我は大友も恐れぬ秋月種実ぞ!」と怒りが込み上げたに違いない。恵利暢堯を罵り、意見を聞き入れようともしなかった。とはいえ、種実とともに大友と戦ってきた恵利暢堯である。種実が怒ることも想定しての進言ったに違いなく。妻子とともに腹を切って秀吉との戦を止めようとした。

 その甲斐なく、種実は秀吉と戦うこととなったが、あっけなく負けた。益富城に籠もっていた秋月種実は益富城を自ら壊して本拠地である古処山城に逃れた。秀吉は崩れた益富城に行き、近所の農民などを集めて障子やふすままどを使って城を修復したように見せかけ、農民たちに松明を持たせてあちこちに立たせた。

 翌朝、種実は益富城の様子を見て驚いた。城が修復され、一体に篝火が見え、秀吉軍で溢れていると勘違いをした。素直に負けを認めて秀吉に降った。

 この時の種実の心境はいかがなものであっただろうか。城が修復されて秀吉軍が押し寄せたことに負けを認めたわけではないだろう。大友氏を追い詰めたとはいえ、種実はまだまだ地方で中世の闘い方をしていたはずである。古い戦の型に囚われていたところに、秀吉の斬新な戦法に器の違いを悟ったに違いない。恵利暢堯の顔も思い浮かんだはずである。いや、浮かんでいて欲しいと思うのは私の願いである。

 その後、秀吉は大隅の人々に自らが着ていた陣羽織と佩刀を与え、永代貢税を免除しました。陣羽織は国の重要文化財として、現在も嘉麻市に受け継がれている。

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