徳川慶喜邸の庭を作った男。静岡県静岡市。グーグルマップをゆく㊾
グーグルマップの上を適当にタップして、ピンが立った町を空想歴史散策する、グーグルマップをゆく。今回は静岡県静岡市。
庭師は「えらい仕事が来たな」と、思ったかどうかはわからない。しかし、東京にも職人はたくさんいるはずであるが、京都からわざわざ呼びつけるということは、まだまだ世間の目が気になったのだろう。
大政奉還を終えた徳川慶喜のために、家臣であった渋沢栄一が駿府に屋敷を用意し、京都から6代目植治・庭師の小川治兵衛を呼んで庭園を作らせた。
京都には坪庭文化がある。坪庭とは、町屋の居住空間の中に小さな庭を作り、生活の中に四季や自然の美しさを感じられるような世界をほどこすもので、時代の移り変わる大きな節目の中心で疲れた慶喜が1人の時間を有意義に過ごせるようにという渋沢の心遣いだったのかもしれない。
現在も料亭「浮月楼」として、静岡市葵区にこの屋敷と庭園は残っている。慶喜はここに20年住み、その後、迎賓館として伊藤博文などに愛された歴史的建築物と庭園である。
庭の面積は2100坪もあり、坪庭のレベルを遥かに超えてた大庭園である。それを手掛けた6代目植治・庭師の小川治兵衛について、詳しいことがよくわからない。初代小川治兵衛は、侍から庭師になった人で、庭師で成功して名字帯刀を許された。6代目の時点で100年以上続く庭師の家系であり、現在も続いている。
特に6代目の娘婿である7代目小川治兵衛は、近代日本庭園の先駆者と呼ばれ、山縣有朋邸の「無鄰庵」を始めとして、様々な名庭を手掛けた人である。
とは言え、渋沢栄一からお声がかかるということは、6代目小川治兵衛も名前が通った人であったのだろう。渋沢に呼ばれたのは明治2年である。明治といってもまだまだ江戸期と変わらず、北の大地では戊辰戦争が続いており、ようやく終わりを迎えようとしていた頃である。渋沢も人選には相当気を遣っただろう。
ともあれ、6代目小川治兵衛が名庭を完成させたのは事実である。詳しいことはわからないものの、浮月楼が現代まで引き継がれ、7代目小川治兵衛を娘婿として迎えて7代目に指名したことを考えれば、間違いなくかなり優秀な人物だったことは間違いない。
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