織田家の礎を築いた男。愛知県稲沢市。グーグルマップをゆく #59
グーグルマップ上を適当にタップして、ピンが立った町を空想歴史散策する、グーグルマップをゆく。今回は、愛知県稲沢市。
一見すると愛知県の西に位置し、あまり耳をすることのない地名であるが、中世紀、この地に織田信定という武将が勝幡上という居城を構える。信定は、尾張国の守護代であった斯波氏の家臣、織田大和守家(清洲織田氏)に仕える清洲三奉行の1つで、織田氏の中でも分家であり、末端の支流であったと言える。
織田信定
織田家の分家であるものの、次第に勢力を拡大し、美濃の斎藤氏や駿河の今川氏と抗争するまでに成長する。信定の領地は尾張の津島や熱田というところで、これが信定の勢力を拡大していく足がかりとなった。津島や熱田は商港で、交易が盛んであり、その利益によって領地を発展させ、勢力を拡大したのである。
織田家の系譜
織田家は元々、越前国(現・福井県)織田庄劔神社の祠官であったと言われている。日本海側の土地は、九州、出雲、北陸と古代より大陸との交易が盛んであり、海運によって発展したとも言える。
信定もそれを引き継いでいたのではないだろうか。もしくは代々海を抑えることを言われてきたのかもしれない。ともかく、これによっって勢力を拡大した信定は、勝幡城を築城する。ここで生まれたのが、信定の孫にあたる織田信長である。
信長に引き継がれたもの
織田信長という人は、海外に広い視野を持った人であった。それは、津島や熱田での交易を見て育ち、信定や父・信秀から港を抑えることの重要性を教わっていたのではないだろうか。
織田信長が、天下統一に向けて近江を抑えたのも、琵琶湖の重要性を知ってのことであった。このことも織田家の長い歴史を見れば必然的な動きだったと納得できる。
秀吉が引き継いだもの
海を抑えることの重要性は豊臣秀吉にも引き継がれた。信長のやっていたことをよく見ていたのであろう。秀吉は瀬戸内海の海賊を抑え、天下統一後、海賊停止令を発して海賊を弱体化させる。これをつまり、海を完全に掌握するためのものであったことは言うまでもない。
古代、越前での大陸との交易の様子が、後々の時代まで繋がっていると考えるとロマンがある話である。
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