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菅原道真と長岡天満宮。京都府長岡京市。リアルグーグルマップをゆく。

 今日はリアルグーグルマップをゆくということで、長岡京市。京都府の南に位置する町で、平安京以前に都が遷都されたという歴史を持つ。

 JR長岡京駅から西にまっすぐ延びる道路は、長岡天満宮へと繋がっている。少し小高くなった丘にそびえ立つ鳥居はこの町のシンボルと言っても良い。

 遠い昔、この神社は「見返り神社」とも「開田天満宮」(かいでんてんまんぐう)とも呼ばれていた。歴史が古く、古代より稲作が盛んな地域であり、紀元前より農業豊作を祈る神として天神が祀られていたと考えられている。古代、天神とは天を司る神、すなわち雨を降らして農業の豊作をもたらす神ことであった。

 「見返り神社」の由来はよくわからないが、開田天満宮については、現在も長岡京市に開田(かいでん)という地名が残っており、ここは元々開田荘という荘園であったところで、ここから名前をとったのだろう。

 平安期、菅原道真が左遷されて京から太宰府に赴く際、開田天満宮に立ち寄り、「我が魂、長くこの地にとどまるべし」と言ったという。当時、太宰府に赴くのは長岡京市の隣町である山崎から船で淀川を下って瀬戸内海から向うという水路、もしくは西国街道を南下したと考えられており、その前に開田神社に立ち寄ったとされている。

 太宰府には、中小路菅原宗則、西小路菅原祐仲、東小路菅原祐房が随行したと書き記されており、彼らは道真の死後、長岡京に戻り、道真の魂がここにとどまっているとして自分達もこの地にとどまった。彼らの子孫は今でも長岡京で生活をしておられる。

 江戸期まで開田天満宮と称されていたが、江戸の中期ごろ、菅原道真を祀って「長岡天満宮」と称した。つまり、長岡天満宮という名前はごく最近呼ばれ始めたものとも言える。

 道真の死後、落雷がおこり、それが道真の怨念による復讐だとされた。それが農業の神であった天神、雷神と結びつき、道真が祀られるようになり、いつしか学問の神として讃えられている。

 長岡天満宮も地域の人に愛され、多くの人でにぎわいを見せている。左遷も怨念も人生いろいろ、今は多くの人に愛されているということで良しとしよう。とは、ならないだろうか。

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