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八郎潟の夜叉。秋田県南秋田郡。グーグルマップをゆく #64

 グーグルマップ上を適当にタップして、ピンが立った町を空想歴史散策する、グーグルマップをゆく。今回は友人にタップしてもらってピンが立った、秋田県南秋田郡。

 南秋田郡には八郎潟という干潟があり、私が小学生だった頃に使用していた国語の教科書に「八郎」という八郎潟をテーマにした物語が載っており、女性が秋田弁で朗読したテープを授業で聞き、それを真似て朗読した記憶が蘇って、訪れたことはないものの、非常に懐かしい気持ちになった。

 この辺りを拠点としていた豪族に大河兼任(おおかわかねとう)という人物がいる。奥州藤原氏第四代当主・藤原泰衡に仕えた。奥州藤原氏といえば、源義経をかくまったことで源頼朝に討伐されてしまう。

 大河兼任は藤原泰衡亡き後、仇を討つと鎌倉幕府に反旗を翻す。この男に奥州藤原残党たちは集まった。当時の主従関係というのは、我々が思うほどに固い絆が結ばれていたわけはない。

 集まった兵たちは、亡き主人の仇を討ちたいというよりも、これからの自分達の行く末を考えた結果、大きな権力に立ち向かおうとする過激な男にカリスマ性を感じてただ流されたのだろう。7000もの兵が集まった。

 兼任は義経と称したり、義仲の嫡男・朝日冠者と称たりして鎌倉方を撹乱しながら鎌倉に進軍する。こうした作戦が、その後に各地で義経伝説を多く産んだ原因かもしれない。

 鎌倉に向けて進軍するも北方津軽にも鎌倉方の軍がいたため、7000の兵を北に進軍することを決め、この時、冬であったため八郎潟が凍っており、その上を進んだ。普段、自らが歩いている時はなんともない氷上であったため、軍も進むことができると考えたのだろう。しかし、7000もの兵の数である。八郎潟を覆う氷はその重みに耐え切れるはずもなく、氷はあっけなく割れ、5000もの兵が湖の底に沈んだ。

 兼任は難を免れ、進軍して鎌倉方の軍を破って進撃した。しかし、途中大打撃を受けて敗走を余儀なくされ、現在の秋田、宮城を転々とするも源義経ゆかりの栗原寺にて、数十人の木こりに囲まれて斧で惨殺される。これが大河兼任の乱である。

 その後、八郎潟では不思議なことが次々と起こり始める。毎夜人魂が浮遊するようになり、ここを通る人には災いが起こるようになり、ついには夜叉が出るとも噂されるようになる。

 八郎潟が干拓され、陸地になってからは不思議なことを起こらなくなったという。人々はこの辺りのことを「夜叉ふくろ」と呼ぶようになり、現在の「夜叉袋」という地名となる。

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