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養父という不思議な地名。兵庫県養父市。グーグルマップをゆく⑫

 グーグルマップ上を適当にタップして、ピンが立った町を空想旅行する「グーグルマップをゆく」。今回は兵庫県養父市。

 普通に読むと「ようふ」と呼んでしまうが、「やぶ」と読むらしい。兵庫県の北部の但馬地方に位置する。地図上で見ると姫路市の真上に位置するこの町は、歴史上重要な位置にあったに違いない。

 京都から山陰地方に抜ける際、古代より京都から山口まで続く山陰道が主要な道であり、国道9号線はこれを継承したものである。9号線は養父市も通っている。

 古代、中国地方の出雲族と中央王権の大和政権とは拮抗状態で、出雲族が攻め入る時には山陰道からやってきた。実際、京都府亀岡市あたりまで出雲族の支配下であったという話もあり、亀岡市にある出雲大神宮はその時の名残という見解もある。

 戦国期においても山陰道を抑えておくことは重要で、養父市のあたりももちろん重要であったはずだ。と、そんなことを思って調べていると、「八木城跡」というものが出てきた。八木氏という一族が代々城主を務めていたらしく、どうやら歴史は古いらしい。しかしながら、確かな史料はないらしくよくわからない。

 戦国期、織田信長と中国地方の覇者である毛利氏との激突において、中間地点にあたるこの地が重要になったようだ。つまり、この土地を先に押さえた方が勝つ。といった具合だ。案の定、織田軍の最前線と毛利軍の最前線が八木城あたりで激突した。当時の城主は八木豊信と言い、毛利氏に属して奮闘した。しかし、途中織田軍に寝返る。

 後に羽柴秀吉の元で因幡攻めに参戦するも戦況の悪化とともに行方不明となり、その後の消息は不明である。勝手な想像をするならば、呑気に暮らしていた田舎城主が、時代の波に飲み込まれて、したくもない戦に巻き込まれ、権力の駒にされてしまったという具合だろう。誰も知らぬ土地で名前を変えて百姓でもして余生を過ごしたのかもしれない。

 八木城はその後、豊臣政権下で別所重宗という人物が城主となる。関ヶ原の戦いの後、廃城となり、現在は城址だけが残っている。

 ところで、養父という不思議な名前についてはよくわからない。佐賀県にも同じ読み方の養父郡があり、そちらの説明では、平安時代の辞書である和名類聚抄に「夜不」と記されているらしく、案外それと同じかもしれない。はたまた、ひょっとすると「八木」がなまったものかもしれない。どちらにしてもよくわからない。

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