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長い長い私の受験記 後編

 家に帰ると悪寒が走りました。そして、その夜から高熱が出てきたのです(知恵熱?)。38度を超える熱は、今まで勉強してきたものを全て消してしまうのではないかと思うくらい恐怖でした(って、そんなに勉強して無いじゃん!紙くずみたいなもんですよ)。翌日も1日ダウン。1次試験の発表すら見にいけませんでしたので、母親に頼みました。
私は熱にうなされながらも、部屋で吉田拓郎の『ローリング30』(1978)というアルバムを流しておりました。「白夜」という歌が始まりました。
“みんな、みんな・・・おわっちまった~”というなんとも不吉な歌です。
ちょうどその時に電話が鳴り、私はキャッ!と叫びました。
 母親の弾んだ声で「番号あったよ」との声。私は、熱でうなされながらその言葉を聞いていました。
それからが大変です。2次試験は3日後。小論文と面接です。とにかく熱を下げなければなりません。
 私の家では代々熱を下げる方法は、とにかく汗をかくことだと教えられてきました。布団をうずたかく積み上げ、ジッとして汗を流します。このやり方は体力を相当失くすそうで、あまり良いとはいえないのかもしれませんが、布団ムシ状態の私にそんなことを考えている余裕などありませんでした。
 2次試験日前日、ようやく熱も下がりました。面接があるので何を着ていこうかと言う話になりました。現役生だったら学生服でいいかもしれませんが、20歳になった私に学生服は合いません。かといって東京モード学園のような服も持っていません。トックリのセーターにGパンじゃいかんだろう・・・(彼女の私の第一印象はこの格好が妙に印象に残っていて、浪人生というより学生運動でもしてそうな風貌だったようです。長髪に無精ひげ、灰色のトックリセーターとベルボトムジーンズ、それにサンダルでしたからね!)。
結局父親の「無難な服を着ろ」という一言で、チノパンに白いシャツとブレザーを羽織りました。

 小論文は、自分に酔っておりました。なんて名文なんだぁ、などと自画自賛する悪い癖が出ておりました。きっと今見たら恥ずかしい文章なのでしょうが、その時は勢いだけで書きなぐっていたので、解答用紙はきっとメラメラと燃えていたと思います。
 面接は、流石に緊張しました。
一人一人呼び出されるのですが、みんな何か野心がありそうで、日芸に入りたいオーラーが漂っていました。
私はってえと・・・面白い人がいそうだから入学したい、なんて口が裂けても言えません。何を言おうかなぁ、なんて思っているところで呼び出されました。

 当然、志望動機を聞かれました。
私は、それまでの音楽遍歴を語り始め、現状の音楽番組についての意見を述べ始めました。一番知識がある分野で話をしないとボロが出ると思ったからです。
 最終的には音楽と政治と世界平和を訴えていた気がします。1969年のフラワームーブメントをもう一度見直すべきだと!(なんせ、アタシャ親公認のヒッピーをしてたかんね)イギリスはフォークランド紛争をしている場合ではない!ソ連のアフガニスタン侵攻を今すぐやめるべきだ!(戦争反対のプロテストソングが好きだったもんで)と言った記憶があります。もう、力説であります。なんのこっちゃ!
 面接をしてくれた教授に後から聞いた話ですが、私は放送学科じゃなくて政治の方に進んだほうがいいじゃないかと思ったそうです。ただ、学生運動をするんじゃないかとも思ったので、ここに入れておこうと思った、と笑いながら言っていました。隔離ですか!?

 放送学科の合格発表は、2月14日です。しかし、この発表日までに、当初の親との約束通り、日芸以外の大学の受験もしました。私は、放送学科の結果発表日までに受けられそうな大学を選択しました。つまり、放送学科以外眼中になかったということです。そんなわけで、法政大学社会学部と立正大学経済学部を受けました。この受験科目は、英語、国語、日本史です。日本史なんてほとんどやっておりませんでしたが、ノリで受験しました。私の得意とする勢いだけです。だって心は日芸だけだったわけですから。
加えて、放送学科の発表後の受験としては、日芸の最後の砦として、文芸学科も願書を出しておきました。(試験日が3月5日で、超遅かったんだよ)

 2月14日の発表は、母親が付いてくることになりました。私は一人で行きたかったのですが、2年も遊んだ挙句の受験だったわけで、親としてはもしかしたら合格の喜びが味わえるかもしれないと思ったようだったので、親孝行の意味で承諾しました。(受かっているかどうかわかんないのにね!)
 結果は合格でした。母親は、すぐに父親に電話をしろと私に命じましたので、親父の職場に電話をいれました。言葉は少なかったですが、安心した雰囲気だけは漂ってきました。
そして、「面接のときにブレザーを着ていったから受かったんだ。お前のいつもの変な格好じゃダメだったろうな。」とわけのわからんことを口走っていました。

 母親とは渋谷で別れ、彼女と合流しました。行きつけの飲み屋で祝い酒であります。ようやく大学生のカップルとなることができました。
さて、いつものように騒いでいると、同じ並びのカウンターで騒いでいる女性がいました。私が日芸に合格した旨をマスターに報告しているときに、その女性も反応しました。
「あ、私も今年から日芸で~す!えっ?放送学科ですか?私は音楽です!」
「いや~奇遇ですね・・・」
としばし盛り上がり、キャンパスで会えたらいいですね、などと社交辞令を言ってその場は終わりました。名前も伝えなかったんじゃないかな。
・・・その3ヵ月後、ふとしたきっかけでその女性が私の所属していたフォークソング倶楽部に入部して来ました。最初はお互いわからなかったのですが(顔なんて忘れてました)、話をしていくうちに、あれよあれよと記憶が蘇り、またまた乾杯してました。恐ろしい程の奇遇。彼女とは今でも音楽仲間であります。

※※※※

 放送学科に合格してしまったので、もうあとは知りません。法政大学、立正大学ともに合格しましたが、関係ありません。もちろん日芸の文芸学科も受験しませんでした(受験料は還って来ないよ)。
 但し、記念受験として早稲田大学文学部だけは受けることにしました。もしも合格すれば、父親の仇も取れる(父親は落ちた経験あり)、などと思い受験に臨みました。
しかし、だめですな。緊張の糸は14日で切れてしまっており、グズグズな精神状態であります。一通りの受験勉強を続けておりましたが、集中することもできませんし、日芸のパンフレットかなんかを見てはニヤニヤしているやつに早稲田が微笑むわけが無いのです。
 早稲田のテストは難しかったというより、異常な量に圧倒されました。英語も国語もものすごいヴォリュームです。読んでいるだけで酔ってしまうようでした。特に英語の長文読解は、英字新聞を読んでいるようで、最後には笑いが出てきました。きっと私の周りに座っていた受験生は焦ったでしょうね。うすら笑いをしながら試験を受けているわけですから、余裕の受験生に見えたのではないでしょうか。実情はお手上げなのにね。

 模範解答が返ってくるわけでもないので、私はドロップアウトを決めました。
受かる見込みなんてまったく無いので、時間の無駄と判断したのであります。そそくさと試験会場を後にしました。離席した時も周りの受験生は焦ったでしょうね。“おっ!さっきまでニヤニヤ笑っていたやつ、もうできたのかよ!余裕で出ていっちまったぞ”なんて彼らの心の声が聞こえました。
 私は早稲田の街を散策し、学生街の食堂で飯を食い、早稲田の名画座で日活ロマンポルノを観て帰りました。私は早稲田の受験より、映画の方が勉強になりました。

 こうして、私の受験時代は終了し、日本大学芸術学部に入学することになったのです。
私の高校を卒業してから大学入学までの2年間は、振り返ってみると、とても楽しい日々でありました。長い人生の中であの2年間は、相当貴重な時間であります。ダラダラと過ごしながらもいろいろなことを考える時間もあり、不安定な精神状態を経験できたことも今となっては、良い思い出です。
 勉強した実数は約1ヶ月だけでありまして、他はダラダラと過ごしておりましたが、そんな状態でも付き合ってくれていた彼女(家内)と、宙ぶらりんの状態を許してくれていた親には感謝しております。それから、あのとき一緒につるんでいた友達ともいまだに仲良しであります。お互いあの不安定な状態を経験しているので、今は偉そうな顔をしていたとしても、いつでもあの頃の関係に戻れるのであります。

 私は24歳まで学生をすることになるわけですが、これも非常に感慨深いものがありました。高校を卒業して働いている友達に24歳の時に会ったことがありますが、彼が一人前の大人に見えたものです。増してやこっちは何になるか良くわからない長髪の兄ちゃんでしたから・・・。

 私は自分の娘たちに、私のようなモラトリアムを持つべきだと押し付けはしません。しかし、流されて何かになることだけはやめて欲しいなぁと思います。自分の道を決めるのは自分であります。決められないときは、立ち止まってみるのもいいと思います。
受験というフィルターがあったからこそ、見えてきた事実もありますし、人生の波も経験できたかななんて思っている今日この頃です。
2月は受験シーズンです。悲喜交々いろいろなドラマがあるんでしょうね。

おわり

2013年2月17日
花形

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