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『ホットストリート』 シカゴ

 聞くところによるとシカゴの初来日公演(1971年6月)の第1曲目は、ビートルズの「マジカルミステリーツアー」だったそうだ。
観客はヒット曲の「長い夜」などを期待していたそうだが、いきなりの選曲にみんなぶっ飛んだらしい。
 シカゴは、「ブラスロック」というカテゴリーに属するバンドで、シカゴデビュー時(1969年)にはそういったバンドが竹の子のようにいくつもアメリカ各地でデビューした。
奇才アル・クーパーが率いるブラッド・スウェット&ティアーズ(BS&T)、タワー・オブ・パワー(TOP)、ブラス・セクションがトランペットのみの4人編成であるチェイスなど。
 このような形態は、もともとは1960年代後半に起こった軽音楽の多様化により、ロックとジャズの融合から生れたものだ。エレキギターやキーボード(ハモンドなど)が主役であったロックの中でそれまでは演奏の引き立て役であったブラスが主旋律をとることは当時珍しかったようで、これらの音楽はニューロックの象徴とされた。しかし、ブラスプレイヤーがギタリストのように神格化されなかったことや、誰でも気軽にプレイできる楽器ではなかったこと。そして、インプロビゼイション主体の音楽の衰退などが原因でブラスロック自体が長続きしなかった。
 そんな中で、メンバーチェンジはあれこそ、解散もせず現時点まで活動を続けているシカゴというバンドはまことに不思議なバンドである。
初代ギタリストの死亡、リードヴォーカリストのチェンジなどいくつもの苦境を乗り越えての活動維持は、見上げたものだ(意地?惰性?いやいや情熱でしょう)

 シカゴの活動時期は大きく3つに分けられる。
デビューから1980年あたりまでのブラスロック主体の時期。
 デビッド・フォスターをプロデューサーに迎えバラード路線主体に移行した1980年代。
そして、メインヴォーカリストを換えビッグバンドカバーなど新たなチャレンジをしている1990年以降から現在までと、まさにどの時代もシカゴはそれぞれの顔を持っている。
 名前だけ生き続け、全然別物というわけではなく、シカゴのエッセンスがどの時代にもある。それゆえ、リスナーは安心しながら演奏を楽しむことが出来る。だから、デビュー以来12回も来日しているし、ここ最近は2年連続の来日だ。
 私は名曲が多いシカゴの中で、1979年発表の地味なアルバムの『ホット・ストリート』が好み。

 この作品は私がちょうど中学3年でブラスバンド部の友達と遊んでいたときに学校の音楽室で聞き、その「真似事」をした、というのも大きい。このアルバムからスマッシュヒットになった「アライブ・アゲイン」は、当時音楽の方向性がいまいち定まらなくなってきたシカゴ自体が自ら「もう一度!」と鼓舞しているように聞こえるのだ。
 軽快な8ビートにブラスが絡み、エンディングでは長いワウギターのソロが続く。
このギタープレイは往年の「長い夜」のエンディングを思い出す(マイナーとメジャーの違いはあるが・・・)。
 当時の私たちは、ブラスロックの真似事をしていただけなので、単純に生(ブラス)と電気音(エレキギター)の絡み合いに非常に興奮したものだった。もちろん、当時の私は全然ワウギターなんて弾くことは出来なかったが、重厚なブラスの上で奏でるエレキギターのソロはとにかく気持ちよかった。
そして、『こりゃ、テクニックがあればあるだけ楽しいんだろうなぁ』なんてことを考えていたように記憶している。
 ちょうど同じ時期のことだが、前述の「ブラスロック」の衰退の要因のひとつに世の中はフュージョンという新しいジャンルの音楽が流行しはじめていたことも挙げられるだろう。
 フュージョンサウンドは、同じブラスでもサックスがメインとなり、重々しいバスドラのリズムと16を刻むハイハットが強調され、その上にスラップベースが重なるといった音楽で、同じブラスを使用している「ブラスロック」とは全く異なるもので、たちまち「ブラスロック」は「古臭い音楽」に成り下がってしまったのだ。そしていつしか「ブラスロック」というくくりさえなくなってしまった。
 こういったこともあって、この頃のシカゴは本当に迷走していたのだと思う。しかし、当時はそんなことも良くわからずにブラスバンドとエレキギターで遊んでいた私は幸せだったのかもしれない。

2010年1月9日
花形

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