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『生聞59分(ライブ)』 憂歌団

 憂歌団のベーシスト、花岡さんが鬼籍に入られた。
ドラムの島田さんも既に亡くなっているから、憂歌団のリズム隊は全滅だ。
 木村さんの激しいダミ声と内田さんの流れるようなスライドギター。何を演奏していても、どんなに大袈裟なアレンジでも花岡さんと島田さんのリズムは微動だにしない。しっかりとした低音を刻む。

花岡さん、ご冥福をお祈りします。
2024年6月




 フォークギターを弾き始めた中学生の頃、音楽誌の「新譜ジャーナル」や「ガッツ」が聖書だった。タブ譜を見ながら、AugやDimなんて出てくると指がツリそうになりながら弾き方を覚えた。
フォークギターの技巧の中で、かぐや姫や松山千春、長渕剛なんかがスリーフィンガーのお手本だったし、ジャカジャカとストロークでワーワー歌うのであれば、拓郎や泉谷が代表だった。
 そんな中、耳慣れない音がラジオから流れてきた。ジャズのように滑らかなフレーズだけど、ヴォーカルはダミ声で「オバチャーン!」なんて叫んでいる。ラジオのDJはタモリだったが、なにやら真面目に紹介している。ブルーズバンドと言っているし、バンド名は憂歌団と言っていた。

 僕が弾いているフレーズなんてひとつも出てこなかった。内田勘太郎のギターから出てくるフレーズは、オクターブ奏法であったり、ボトルネック奏法であったり、ボサノヴァのフレーズであったり、1411のブルーズフレーズであったり・・・。オープンチューニングすら知らない僕には、内田勘太郎のギターの音が理解できなかった。

 憂歌団は関西ブルーズブームの中でも後発のバンドだ。彼ら4人は、小学生や中学生の頃の幼馴染である。背伸びせず、近所のガキが集まってメンコでもやっている雰囲気で音楽をしている。
 ブルーズなんてもともと黒人が労働歌として発展させた音楽で、アコースティックが起源である。エレキギターのブルーズなんて音楽が商業的になってきてからの音楽だ。黒人なんて金が無いんだから、アコースティックや生歌で歌うしかなかったのだ。そんなアコースティックブルーズをサラリとやってのけてしまったバンドが、憂歌団である。彼ら4人がどんな気持ちでブルーズを演じているかわからないが、肩の力が抜け切った音楽は、ディープブルーズの悲壮さは感じられない。
 僕の関心はギターの音だった。どんな弾き方をするとあんな音が出るのだろう、という疑問で頭がいっぱいになった。アルバム『憂歌団』(1975)と『生聞59分』(1977)を購入し、悩みに悩んだ。そして「新譜ジャーナル」に彼らが白黒写真で掲載されていたのを見た時、もっと悩んだ。何と内田のギターにはサウンドホールが無かった!
 ピックギターと呼ばれるもので、普通のフォークギターの様な音が出ないわけだった。しかもボロイ。あの古さから来る音なのか・・・。
 僕はスリーフィンガーが苦手でちょっとゲンナリしていたが、なにやら新しい(?)音楽を見つけたので、ブルーズフレーズばかりを憶えていった

 『生聞59分』は実況録音盤である。観客が近い!やりとりが面白い。まるでコミックバンドだが、演奏になるとビシッと決まる。今は、お笑いブームで関西弁が標準語化してきているが、僕の中学時代に関西訛の憂歌団の歌を歌っていたらみんな不思議な顔をしたものだ。木村のMCもトボけていて、モロ関西弁だから、僕は腹を抱えて笑っていた。
「嫌んなった」「ちょっとそこ行くネェチャン」「おそうじオバチャン」「10$の恋」など名曲名演のオンパレードである。
 ブルーズの意味なんて良くわからなかったけれど、ありのままの自分をさらけ出し、自分の気持ちを吐露する音楽ということだけは理解したつもりだった。
 シティ・ポップやニューミュージック、フュージョンなんて耳障りの良い音楽が世の中に溢れ始めた70年代後半、僕は憂歌団を聴き始めていた。回りは、奇異の目で見ていた。
 僕が好きな歌は「10$の恋」という歌。恋多き女に惚れた男の歌で、女に会うためにわずかなお金を渡すという、ちょっと寂しい男の歌だが、
“全ての男がお前には親戚みたいなものだから・・・”
なんてサラリと歌えてしまうところがブルーズなんだよな!

2005年8月29日
花形

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