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無念!加藤和彦

 14年も経ったんだ。
2009年10月16日に加藤和彦が亡くなった。
当時の想いは今でも変わらない。
2023年10月18日
花形

 加藤和彦はね、僕が最初に意識したミュージシャンだったんだよ。たしか、中学1年か2年だった。
あの頃は、親戚のお姉さんから吉田拓郎を聞かされて軽音楽に目覚めた時で、榊原郁恵ちゃんのレコードを買っていたお金が拓郎に変わっていった時だったんだ。
で、拓郎の歌って当時の僕にかなり響いちゃって、詩の内容とか歌い方とか・・・。
もう、完全に拓郎をアイドル視してたわけ。
みんなは出てきたばかりの松山千春とか、やっと売れたアリスとか、歌ってんだか語ってんだかわかんなくてやたらと難しい日本語を使うさだまさしとかを応援してたけど、僕は一人拓郎派だったのね(一人じゃ派閥もないけどさ)。
で、拓郎のラジオを聴いたり、ごくたま~に掲載される雑誌を熟読したり。
そんな拓郎情報にちょくちょく名前が挙がっていたのが加藤和彦だったんだ。
拓郎は自身のアルバム『たくろうオン・ステージ・ともだち』(1972)の中でも
「このギターは加藤和彦大先生から譲ってもらったもので・・・」なんて言いながら名器のギブソンJ45を紹介していたっけ。
 拓郎はこんな事も言っていた。「東京に初めて出てきて知り合ったのは小室等だけど、ミュージシャンとしてこいつすごいなと思ったのは加藤和彦だね。あいつはいつもいろんな洋楽とかを先取りしていて、みんなより1歩も2歩も先にいるんだよ。「結婚しようよ」の時に弾いていたスライドギターも当時みんな知らなかったライ・クーダーばりに弾いているからね」拓郎が敬愛する人ってどんな人だよ・・・そんな入り方だった。
 フォークル、ソロ、サディスティック・ミカ・バンド・・・どれを取っても魅力的なミュージシャンだった。細い声なんだけど存在感がある。そしてなんといっても作曲センス。こんなコード、ここで使うんだ・・・みたいな。普通の曲の流れなんだけど最後にびっくりするようなコードが出てきたりとか・・・。
そんでもって、加藤和彦のプロデュース能力も最高。
ミュージシャンを自分色に染め上げるプロデューサーもいれば、ミュージシャンの味を引き出すプロデューサーもいる。
加藤和彦は後者。
ミュージシャンの力を引き出すだけ引き出して、そのミュージシャン以上になりきるというか・・・。
泉谷しげるの『80のバラッド』(1978)でもそのプロデュース能力は遺憾なく発揮され、泉谷の新境地を開拓したと思う。
 拓郎の「ロンリー・ストリート・キャフェ」だって曲だけ聞いていたら、絶対拓郎が作ったシャウト・バラードだと思うよ。あれ、加藤和彦が拓郎のために作った歌だかんね。

こういう話は止まんなくなるよ、今日は・・・。

 僕は悲しい。
失い方があまりにも突然で、しかも遺書まであって。 ちゃんと死のうとしていたというのも悲しい。

 団塊の世代の人は、既成概念をぶっ壊すことに意義を感じ、新しい日本を作ってきたという自負があるようで、特にこういったミュージシャンなんてその典型でしょ。
遺書には「音楽でやるべきことが無くなった」というような事が書いてあったみたいだけど・・・。
やることが無くなったら、遊んでりゃいいじゃん。浪費癖はあるにせよ、食うに困らん金は持っているだろうし・・・。
うーん。でも、人目もあるかね・・・加藤和彦を演じなければならんかね。

 残念だね。
今年の2月にニッポン放送の公開録音で見た姿は、非常に格好良い62歳だったよ。ファッションも髪型も最高に格好良かったよ。ああなりたいなと思ったよ。

想いが募ってしまって・・・ジョンを失ったとき時と同じ感覚だ。
またひとつ大きな星を失った。
ご冥福をお祈りいたします。

2009年10月18日
花形

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