『海風』 風
『海風』(1977)は海外録音で日本人が対等に外国人ミュージシャンと渡り合えた最初の作品ではないだろうか。それまでも海外録音はあったが、日本人は「お客さん」であり、軒下を借りながら遠慮しつつ本来のそのアーティストの味を出し切れないまま終わるといった不完全燃焼が多かったように思う。
井上陽水、はっぴいえんど、五輪真弓、矢野顕子、山下達郎・・・、70年代初期から中期における海外録音組だが、その作品が果たして海外録音をしてまで制作する意味があったのかどうかは疑問である。技術的に優れたミュージシャンと環境的に優れたスタジオを擁し、費用対効果が見合わないと海外録音は成立しない。海外録音という話題性で販売の目玉にする事もあっただろうが、それも最初のうちだけ。事実に押しつぶされ、録音は海外で行なったが、実はそんなに成果が読み取れない作品も大いにあったと思う。中には鈴木茂の『バンド・ワゴン』(1975)のような成功例もあったが、あれは偶然の産物であり、海外録音のほとんどが海外という非日常の中での録音と外人エンジニアに日本人は呑まれていたと思う。
では何故風が海外で渡り合えたといえるのか。それは、その後の西海岸で起きたAORムーヴメントと照らし合わせてみるとわかりやすい。
それまでの西海岸のサウンドは、ウェストコーストロックに代表されるカラッと乾いた音で、イーグルスやドゥービーに代表されるものだ。ライトな8ビートが心地よい。しかし、その後スティーリー・ダンやボズ・スキャッグスの登場でAORというジャンルが生まれた。アダルト・オリエンティッド・ロック・・・要はガキの聴く音楽ではないということだ。そんな中から、ウェストコーストロックにちょっと飽きてきたスタジオマンたちが、洒落た音楽を追求し始めていった。TOTOやエアプレイの登場だ。
そしてその時代の真ん中で風は『海風』を録音したのだ。つまり、風はウェストコーストのミュージシャンが目覚めていった音楽をすでに持ち合わせており、時代にぴったり合った作品を海外組と対等に制作したということだ。
伊勢正三は、かぐや姫の頃から南こうせつとは違ったアプローチで作品を作っていた。こうせつがどちらかといえば、フォークの王道であれば、伊勢正三はメジャーセブンの響きを持つポップスよりのフォークミュージシャンだった。メッセージを伝えるというより、音の響きで言いたいことを伝えるミュージシャンである。代表作の「なごり雪」や「22才の別れ」を聴いていると、フォークのイデオムの中にポップスの雰囲気を感じとることができる。例えば、「なごり雪」のサビ前の展開はオーケストレーションにも通じる盛り上げ方であるし、「22才の別れ」の最後のフレーズはコードこそ帰結しているが、リフレインを予感させる締めを見せている。そんなセンスが海外のミュージシャンと渡り合う中で開花した作品が『海風』なのではないか。
カラッとした西海岸の音が湿り気のある日本語に上手く乗って違和感無く聞こえる。それまでの録音は、海外の音を無理に日本語に乗せてみたり、ベタな日本の曲を洋楽の流れに巻き込んだりと、全然調和がなされていなかった。しかし、風のサウンドは、日本ポップスには無いセンスが散りばめられていたので海外録音がマッチした。
例えば「海風」のエンディングサックスソロに聞こえるドラムのベータムのタイミングなんぞは、それまでの日本録音ではなしえないプレイで、洋楽に近いアプローチを見せている。僕は風の日本録音の作品より、断然海外録音の作品を推したい。
『海風』に続く『Moony Night』(1978)は日本録音。「Bye Bye」がヒットを記録。『海風』以上にポップス色が強まり、誰も風をフォークデュオなんていわなくなった。この「Bye Bye」も実にAORしているが、前作ほど音が乾いていない。しかし、アメリカでもAORを模索していたこの時代に、日本のAORが完成していたことに驚きと喜びを感じる。
2005年10月21日
花形