『BORN IN THE U.S.A』 ブルース・スプリングスティーン
2005年に書いたブログ。
スプリングスティーンは未だ現役。
いつまでも歌い続けて欲しいミュージシャンである。
2023年8月31日
「ブルース・スプリングスティーン 来日招聘委員会」というプロジェクトが1978年頃渋谷の「シスコ・レコード」という中古レコード屋で発足されていたことを御存知だろうか。今から30年以上も前の話だが、70年代の中ほどから大物外タレの来日ラッシュが始まり、その流れで1975年に全米で大ヒットした『明日なき暴走』を発表していたスプリングスティーン(ボス)にも来日待望論が起きていた。しかし、ボスが来日するにはそれから7年の月日を要したのだ。レコード会社との契約訴訟問題が起きていたり、ギャランティの関係上、来日ができなかったり、と後になってボスは語っていた。
渋谷にBYGというロック喫茶がある。1969年にオープンしたこの店は、今でも渋谷百軒飲み屋街の奥にひっそりと建っている。オープン時から4年間は地下のスタジオでライブも開催されており、「はっぴえんど」や「はちみつぱい」などが演奏していたようだ。しかし僕が出入りするようになった頃は、ライブは中止されており、ただ単にアメリカンロックやブルースを聞かせる喫茶店(バー)になっていた(最近また不定期だがライブをしているようだ)。
リクエストにも気持ちよく応えてくれて、非常に居心地の良い空間であった。
1985年のある時、僕は彼女とBYGにいた。レコードルームに掲げられたレコードジャケットが演奏中のものであるが、そのレコードジャケットは手書きで乱暴に書かれてあり、何て書いてあるかわからなかった。でも聞き覚えのある声だった。
僕は彼女に「これ、誰?声だけ聴くとスプリングスティーンなんだけど・・・。」
「えーっ、こんな曲、聴いたこと無いよ。」
店員に聞いてみると、航空便で取り寄せたサンプル盤で、スプリングスティーンの新譜だということが判明した。後からわかった事だが、大音量で聴いた曲は「Cover me」だった。
『Born in the U.S.A』(1985)は、それから全世界で大ヒットした。その流れで、ボスは初来日を果たした。日本中がスプリングスティーンに沸きかえり、中学時代に興奮して聞いていた僕は取り残された気持ちになったものだ。コンサートのチケット争奪戦も激しく、僕はプラチナチケットを手に入れることができなかった。
東京公演は、代々木オリンピックプールで数日間行われた。初日はニッポン放送がライブ生中継をするくらい盛り上がっていた。
僕は、いても立ってもいられなくなり、会場に向かった。ダフ屋はチケットに20万円の値段をつけた。
僕はステージの端がちょっとだけ見ることが出来る小窓から漏れてくるボスの歌声を聴いていた。外は雨が降っており、傘を差しながらの参加であった。
「来日招聘」の署名に名前を書いた14歳の時、こんな結末が来るとは想像していなかった。
『Born in the U.S.A』は、賛否両論の作品である。僕もいつも違和感を持って聴くことが多い。やっぱり『明日なき暴走』や『アズベリーパークからの挨拶状』(1973)『闇に吠える街』(1978)『ザ・リバー』(1980)などのバックストリートを歌う詩人のボスの方がしっくりくる。自分を取り巻く環境と自分の言葉があるからこそ、説得力のある作品を生み出すのだ。R&R好きの少年がアメリカンドリームを夢見て切磋琢磨している印象が若きボスにはあった。
『Born in the U.S.A』発表の頃のボスはどうか。テーマが大げさになりすぎているというか・・・。だいたい、あのマッチョの体もいただけない。痩せた体から搾り出すような叫びが、労働者階級のスターという気がしたが、マッチョになってしまうと説得力が無いんだよ。歌詞と見かけが合わない。裏街で汗水流して明日を夢見る男の詩と成功者になった鋼のような身体がマッチしないんだよなぁ。
またそれ以上に、ボスを真似してマッチョに走る日本のアーティストはもっと嫌だったけど・・・。
売れたから「昔の方が良かった」と言ってるわけではない。『Born in the U.S.A』の後も聴き続けてそう思うからだ。
ということで、『Born in the U.S.A』は、彼を著しく飛躍させた1枚でもあるが、堕落(?)させた1枚でもあると思う。
2005年7月20日
花形