見出し画像

キャロルの風景


 K君にはお姉ちゃんがいた。K君は、そのお姉ちゃんからいろいろと情報を仕入れ、僕より1歩も2歩も前を歩いていた。それは、ファッションであったり、音楽であったり、果ては異性との付き合い方であったり・・・。
 K君は中学時代から喫茶店に入ると、当たり前のように煙を吐く。それを真似して僕らも吐く。そして自然に「ブレンド!」とオーダーする。僕らはメニューを見ながら、ソーダにするか紅茶にするか毎回悩んでいた。
 K君はいつもバイク雑誌を見て、早く中免取って、カワサキのZ 400FXを買うと言っていた。彼のそんな大人びた仕草を、僕達は羨望の眼差しで見つめていた。
 高校に上がるとK君はすぐにバイクの免許を取得し、カワサキにまたがっていた。そして出始めのウォークマンでエーちゃんやキャロルを聴いていた。とにかく大人っぽく見えた。
 僕の高校は一応進学校だったし、カトリック系だったので、校則もそれなりに厳しかった。そして、当時は“三無い運動”なるものがあり、“免許を取らない・バイクに乗らない・乗らせない”などという標語があった。それでもそんなことはお構いなしにK君はバイクを乗り回していた。

 キャロルは、そんな彼から教えてもらった音楽のひとつだ。
 僕は矢沢永吉は知っていたが、キャロルはそんなに詳しく知らなかった。キャロルは、遠い昔に《リブヤング》に出ていた革ジャンバンドという印象しかなく、そこに矢沢永吉がいたことも憶えていなかった。しかもK君からカセットテープを貰ったときも、矢沢永吉のヴォーカルが青すぎて、その時ヒットしていた「時間よとまれ」を歌っている人物とは同じ人に思えなかったほどだ。
 キャロルについては、矢沢永吉激論集「成りあがり」に詳しく書かれているのでここでは割愛するが、日本語と英語を駆使したR&Rバンドである。当時の日本のロックはGS崩れか関西ブルーズくらいで、ロックというジャンルはほとんど認知されておらず、サブカルチャーのひとつであった。キャロルはそんなサブカルチャーから生まれたひとつのロックの形だ。そこに不良のアイテム(バイク・暴力的)を盛り込み、初期のビートルズに影響を受けた音楽性と革ジャン・リーゼントといういでたちは、当時の若者に絶大なる人気を博した。また、NHKで取り上げられたことも大きな話題となり、全国区の人気へ発展していった。

 K君も革ジャンにリーゼントといういでたちだった。口を曲げてタバコをくわえ、リーゼントの髪が風になびきながらバイクにまたがっていた。

 高校2年の夏、K君は学校に来なくなった。そして、ある日の放課後、私服姿で校舎から出てくる彼を見かけた。話を聞くと、退学届けを提出したという。
彼はカワサキにまたがり、話し始めた。これからのこと、学校への不満、家族への不満・・・。
 彼と話している時、教師が横を通ったが、彼はお構いなしにエンジンをふかしていた。
そして最後に彼は言った。
“キャロルの最後のように燃え尽きたいね。このままここにいたんじゃ燃えないんだよ・・・。”
 キャロルのラストライヴは1975年4月13日、日比谷野外音楽堂で大々的に行なわれた。エンディングでは、舞台セットに火がつき、全てを燃やしつくした伝説のライヴだ。照明に火がつき、ナイアガラのように火の滝が降り注ぐ、そんなエンディングだ。
K君はバイクを思いっきりふかすと、校門から社会へ旅立って行った。

 数年後、彼は洋服屋をオープンした。そこに遊びに行くと革ジャンのK君が出迎えてくれた。可愛いベイビーと一緒に。
店には、アメリカングラフィティに出てくるような洋服がたくさん陳列されていた。

BGMはキャロルが小さくかかっていた。

2006年6月2日
花形

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?