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チチノヒ

街を歩いていたら老舗のケーキ屋さんに列が出来ていたり、デパ地下の特設コーナーでは日本酒を売っていた。

世の中的に父の日で「お父さん、いつもお疲れさまです。ありがとう」と労う日なのよね。

私の父親は、私が20代の頃に亡くなった。そして今日は、父親の33回忌だった。

お経を読む前にお坊さんは「あなたの命の半分はお父様です。どうぞ故人を思い出し、縁に感謝してください」と仰った。

縁に感謝ねぇ…。
私の中の「生き辛い」部分は、両親の影響であると思ってる。思ってるというか、事実その通りなので、感謝をしてと言われるとむず痒くなる。

私が子供の頃、父は度々仕事を長期で休んでいた。「仕事に行かない期」になると、仕事の出番(タクシーの運転手だったので、一日置きに出番となっていた)の朝になると、母との言い合いが始まる。

「今日は仕事に行ってください」
「うるさい!休むって会社に電話しとけ!」

というような言い合いがしばらく続く。母が折れる。母が会社に電話する、までがいつもの流れ。

2Kの狭い住宅に住んでいたので、そういう声は寝ている子供の私にも聞こえていた。聞いていると、とても苦しかったので、子供の私は布団をかぶって耳を塞いでいた。

仕事に行かず、お酒を飲んで酔っ払い、大声をあげるような父親だった。そういう父親を支える母が辛そうで、「何で離婚しないのか」と、母に聞いたことがあった。答えてはくれなかったけど。

それでも、父親のことを嫌いだったわけではない。楽しい思い出もある。
トランプで遊んでくれた。将棋を教えてくれた。クラッシック音楽を聴かせてくれた。ドリフターズを観ながら一緒に笑ってくれた。
カナヅチだった私に「思いっきり息を吸ってからプールの中に潜るとしばらくすれば身体は浮いてくるよ」と教えてくれたのも父親だ。

「ほんとうだ。おとうさんのいうとおりだ!」

プールで身体が浮いた時、とても嬉しかったことを覚えている。

まともに泳げるようになったのは大人になってからだけれど、子供の頃のこの体験がなければ、きっと泳げるようになることもなかっただろう。

ゆったりと泳ぐ、あの心地よさを知ることもなかっただろう。

お酒ばかり呑んでいる生活は、父親の身体を悪くした。何度か入退院を繰り返して、最後は食道癌になった。

30年以上前の当時は、患者に病名を宣告しない選択肢もあった。母は父親に病名を告知しないことを選んだ。

母は「病名を知ったらきっとお父さんは、家から出てってしまってお酒を飲んで人のいないようなところでのたれ死んでしまう。」と思ったらしい。

当時のことを思い出すとそれが最善だっただろう。けれど、最近になって、本当にそれで良かったのか、と考えるようになった。「お父さん、あなたはどうしたかったですか?」

父は、よく歩く人だった。お酒を飲む時もどこかの店で飲むのではなく、自販機でワンカップの日本酒を買い(当時は買えた)お酒を片手にぷらぷらと歩いていたみたいだ。

だから、どこか行きたいところがあったのではないか?と考えるようになった。
例えばあの時、病名を知らされていて自分はもう長くないのだと分かったのなら、どうしていただろう。

仮に、母が心配するように、家を出て行ってしまってどこかでのたれ死んでしまったとしても、最後の最期に父親の行きたいことろまで行くことが出来て、「ここに来れた」という望みが叶っていたとしたら、それは幸せなことなのではないか。

何がその人の幸せなのかを家族であっても分かるものではない。

それに、私の半分は父親から頂いた命だとして、その半分の命が、「ここではないどこかへ行きたい」と望んでいる。だから、もしかしたら、父親もそう思うこともあったのではないか、と思うのだ。

私の中の「生き辛い」の半分は父親のせいだ。けれど、きっとこの「生き辛い」という、自分をズルズルと引きずるような重たい感覚が父親の中にもあったのかもしれない。

法事を終えてから、父親のお墓を参る。そして、父に語る。

「お父さん、わたしはまあまあ楽しく生きてます。だから安心してください。それからそろそろ、お母さんもそちらに迎えてあげてください。とても辛そうですから」

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