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『推し、燃ゆ』読解

〈肉体〉と「あかり」


『推し、燃ゆ』は、語り手である「あかり」の〈推し〉が炎上するところから始まる。

まずは、「あかり」について考えてみる。

彼女は〈肉〉〈肉体〉という語を多用する。

・垢や日焼け止めなどではなく、もっと抽象的な、肉、のようなものが水に溶け出している。
・肉体は重い。
・誰かとしゃべるために顔の肉を持ち上げ、垢が出るから風呂に入り、伸びるから爪を切る。
・姉は理屈でなく、ほとんど肉体でしゃべり、泣き、怒った。
・肉体に負けている感じがする。    

宇佐見りん『推し、燃ゆ』

「あかり」にとっての〈肉体〉は不快をもたらすものであり、そのような意味で彼女は〈肉体〉に拒まれているといえる。

以下の引用部に示される「あかり」の行為は、そのような〈肉体〉に対する反抗心のあらわれとして受け取ることができる。

八月十五日にはあたしが一番おいしいと思うスポンジの黄色いケーキ屋さんでホールケーキを買い、チョコプレートに描いてもらった推しの似顔絵の周りに蝋燭を立て、火をつけて、インスタにストーリーを上げてからぜんぶひとりで食べた。途中苦しくなったけど、いま諦めたら推しにもせっかく買ったケーキにも誠実ではない気がして、喉に残る生クリームを苺の水分で押し込んだ。胃が小さくなっていたところにホールケーキを押し込んだから、急激な糖分で気持ち悪くなって吐く。(略)
 あたしは徐々に、自分の肉体をわざと追い詰め削ぎ取ることに躍起になっている自分、きつさを追い求めている自分を感じ始めた。

〈言葉〉と「あかり」


『推し、燃ゆ』において、このような〈肉体〉への反抗は〈肉体〉からの逃避と表裏一体である。
私が重要だと思うのは後者で、それは〈もの〉(〈肉体〉)から引き離された〈言葉〉によって可能となる。

・推しが燃えた。
・SNSは人の呼気にまみれている。
・隣からいいねが飛んでくる。
・古典を見せてもらい数学を借り、
・頬の肉が灼かれる。
・頭のなかが黒く、赤く、わけのわからない怒りのような色に染まった。

こういった〈言葉〉による表現は、表現されている〈もの〉を見失わせるほど仰々しい。
例えば、冒頭の一文「推しが燃えた」は、実際に推しの体に火がついて炎上したという意味ではない。

仰々しい〈言葉〉による表現の多用は、〈もの〉(〈肉体〉)からの逃避を試みる意志と無関係ではないだろう。
「あかり」自身もそのことを分かっているようである。

生まれてきてくれてありがとうとかチケット当たんなくて死んだとか目が合ったから結婚だとか、仰々しい物言いをする人は多い。成美もあたしも例外ではないけど調子のいいときばかり結婚とか言うのも嫌だし、〈病めるときも健やかなるときも推しを推す〉と書き込んだ。

『推し、燃ゆ』本文の随所に見られる仰々しい〈言葉〉は、指し示しているはずの〈もの〉に及ばないのだとしたら、それは〈比喩的〉であるといえる。
さらに、相手に対してあらかじめ共通化した直観を期待している点を踏まえると〈隠喩的〉である。

「推しが燃えた」の意味がより正確に伝えられるためには、語り手と聞き手(読み手)との間で、「燃えた」の真意と事態の深刻さがあらかじめ共有されていなければならない。

直喩が相手に対して説明的に新しい認識の共有化を求めるのとは逆に、隠喩は相手に対してあらかじめ共通化した直観を期待する。  

佐藤信夫『レトリック感覚』


つまり〈直喩〉とは提案であり、〈隠喩〉とは黙契を信じた上での冒険である。
仮に黙契が成立しないまま〈隠喩〉を使用した場合、その〈隠喩〉はひとりよがりの〈言葉〉に成り下がる。
これが〈隠喩〉の危険性であり宿命でもある。

〈隠喩的〉な表現(仰々しい〈言葉〉)が多用された「あかり」の語りは、伝わらないかもしれないという危険性を常に孕んでいるのだ。

それでも彼女は〈隠喩的〉な表現で構築された世界を手放さない。

〈推し〉と「あかり」


ところで、「あかり」にとっての〈推し〉とはどのような存在なのだろうか。
手がかりは以下の表現にあると考えられる。

ラジオ、テレビ、あらゆる推しの発言を聞き取り書きつけたものは、ニ十冊を超えるファイルに綴じられて部屋に堆積している。(略)溜まった言葉や行動は、すべて推しという人を解釈するためにあった。

あたしのスタンスは作品も人もまるごと解釈し続けることだった。推しの見る世界を見たかった。

「あかり」にとって〈推し〉とは〈一体化〉すべき存在であり、そのために〈解釈〉をし続ける。
しかし、〈解釈〉は「あかり」を〈推し〉との〈一体化〉へと導いてくれるのだろうか。

たまに推しが予想もつかない表情を見せる。実はそんな一面もあるのか、何か変化があったのだろうかと考える。

おそらく、〈解釈〉し続ける限り「あかり」は〈推し〉と〈一体化〉できない。
なぜなら〈推し〉が活動を続ける限り、新たな一面が出現しつづけ、それが〈解釈〉の更新を要求するからである。

「あかり」は〈推し〉からも拒まれている。

因みに推し活も〈隠喩〉によって示される。

 あたしには、みんなが難なくこなせる何気ない生活もままならなくて、その皺寄せにぐちゃぐちゃ苦しんでばかりいる。だけど推しを推すことがあたしの生活の中心で絶対で、それだけは何をおいても明確だった。中心っていうか、背骨かな。

推し活は〈背骨〉(〈隠喩〉)であり、〈中心〉である。
「あかり」を取り巻く〈隠喩的〉な世界の〈中心〉に位置しているのが、推し活であるといえる。

〈家族〉と「あかり」


「あかり」は高校を中退し、「母」から就活するように言われるが、意欲的にやろうとしない。
「母」は「父」とともに「あかり」を問い詰める。

「半年以上あったよね。どうして何もしなかったの」
「できなかったの」あたしが答え、「嘘」と母が言った。
「コンサート行く余裕はあるくせに」

「働かない人は生きていけないんだよ。野生動物と同じで、餌をとらなきゃ死ぬんだから」
「なら、死ぬ」
「ううん、ううん、今そんな話はしていない」
宥めながら遮るのが癇に障った。何もわかっていない。推しが苦しんでいるのはこのつらさなのかもしれないと思った。誰にもわかってもらえない。

〈隠喩的〉な世界の中にいる「あかり」は、その外にいる「父」や「母」に対して己を説明するための〈言葉〉を持たない。黙契がないのである。
だから「あかり」は「誰にもわかってもらえない」と嘆くしかない。

「あかり」は〈家族〉と〈言葉〉にも拒まれていたのである。

そんな中〈背骨〉に必要だった〈推し〉も引退してしまう。


現状から脱却するためには、〈隠喩的〉な世界を壊すしかない。

〈隠喩〉の外へ


いま、肉の戦慄きにしたがって、あたしはあたしを壊そうと思った。滅茶滅茶になってしまったと思いたくないから、自分から、滅茶滅茶にしてしまいたかった。テーブルに目を走らせる。綿棒のケースが目に留まる。わしづかみ、振り上げる。腹に入れた力が背骨をかけ上がり、息を吸う。視界がぐっとひろがり肉の色一色に染まる。振り下ろす。思い切り、今までの自分自身への怒りを、かなしみを、叩きつけるように振り下ろす。
 プラスチックケースが音を立てて転がり、綿棒が散らばった。

綿棒をひろった。膝をつき、頭を垂れて、お骨をひろうみたいに丁寧に、自分が床に散らした綿棒をひろった。

「綿棒」は「綿棒」であり、「骨」ではない。〈隠喩〉の衝動は抑えられ、代わりに〈直喩〉が出現する。

「お骨をひろうみたいに丁寧に、自分が床に散らした綿棒をひろった」

これが「あかり」にとって、〈他者〉へとつながる一本の通路(〈言葉〉)であると、私は思う。


引用した書籍
・宇佐見りん(2023). 河出文庫『推し、燃ゆ』 河出書房新社
・佐藤信夫(1992). 講談社学術文庫『レトリック感覚』 講談社

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