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「人生は未来が見えないからこそ楽しめる」

これは初期に、私がカウンセラーさんと
話していた時に、私が言った言葉である。

カウンセラーになる過程が、あまりにも
長いの対して、不遇とも呼べるほど、
勤める場合、薄給はっきゅうな事に
驚いたからだ。

今はそうでも、いずれは高給取りになる
可能性もある職種でもあるからだ。

日本を問わず、これは世界中の心療ケアに
携わる仕事をしている人に言える事だが、
精神科医や脳外科医には、特に言える事だ。

日本の脳の関する医学の進歩は、一般的に
なかなか進まないのが現状だ。
これはパーキンソン病のかかった
医者である父も言っていたが、
脳に関する医学的な知識は約1%程度だ。
パーキンソン病の主な初期症状は、
意思とは別に、足が前に勝手に進むのが、
一般的な特徴である。

しかし、父の場合は副作用で味覚障害に
もなった。甘味だけは僅かに感じるが、
その他の全ての味覚は失われた。
医者が患者になった場合、当然、知識が
ある為、言い難い事でも言うし、
親族や家族に医者がいる場合でも、
本当の事を言う。

味覚障害になった理由は分からず、
受け入れるだけだった。
パーキンソン病に関しても、
発病し、足が前に勝手には出るものの、
死に至る病気ではない。
手が震えたりして、食事や私生活に
支障をきたすが、死ぬ病では無い。

最後は寝たきりになるのだが、
発症から約10年とされている。
しかし、幼馴染の父親は20年もった。

この事からも分かるように、
ほとんど何も解っていないのが現状だ
と言える。

昔の映画ではあるが、
「バック・トゥ・ザ・フューチャー」と
言う映画があった。三部作もので、
それまでとは違う形式の映画だった。

多くの人から高い評価を受け、
知らない人には分からないので、
どれほどのものであったかだけ
話しておく。

「バック・トゥ・ザ・フューチャー」は
1985年の全世界において最高の
興行収入を記録した。当時の金額で
3億8110万ドルの収益を上げを出した。
爆発的な人気を博した映画であった。

主演のマイケル・J・フォックス
その後、色々な映画やドラマに出演し、
声優などもしたが、多数の映画、ドラマ
にも出ていたが、既にパーキンソン病に
かかっていた。

1990年頃から撮影を開始した
「バック・トゥ・ザ・フューチャー3」
の撮影中、体の不調を感じ、30歳の頃、
パーキンソン病だと診断されたが、
初期症状であった為、それほど支障も
無く、公表はしないまま公開された。

1998年に病気を公表し、2000年には
自らもプロデュース、出演もしていた
テレビドラマシリーズの
『スピン・シティ』を降板、
俳優活動から一時、引退した。
それ以後は患者のために積極的な活動を
現在まで続けてきている。

しかし、薬か治療が良いのか、彼が正式に
俳優引退を表明した。
パーキンソン病の影響で、記憶力の低下から
二度目の引退を決めた。

2022年、映画界への貢献と
パーキンソン病治療支援への
取り組みが評価され、
第95回アカデミー賞の
ジーン・ハーショルト友愛賞が授与された。

彼の場合でも記憶力の低下などの
副作用が出ているが、
日本よりも良い治療法があるのかは
定かでは無いが、発症から長い間、
何も1人では困難を伴う事は無かった。

今は心療内科医と呼ばれるようになったが、
当然ながら多くの問題は脳からくる病気が
ほとんどとも言える。

脳の解明も1%程度な上に、多数の前例を
対象として、症状等を判断していくので、
当然ながら長期的期間の前例から
導き出されるが、副作用もあり、今現在の
日本の心療内科では治療では無く、処方箋
を出す場所だと言うのが現状だ。

海外では日本よりも取り組みが速かった事も
あり、日本よりも進んでいるが、脳自体の
病気に関する事は、分かっていない事も
多い為、まだまだ病気として解明されるまで
には長い時がかかると言える。

私はカウンセラーと話しても問題の解決には
至らない事から、半年ほどの間は拒否していた。
しかし、人間が独りで過ごすのは精神的に
良くないモノだと言う事は知っていた為、
話すことにした。

カウンセラーも精神ケアに分類される以上、
色々な話や、前例などから症状を見出し、
心の病の治療の手助けをする仕事だ。

そういう意味で見ると、心療内科医よりも
病に対しての治療はカウンセラーの方が
上だとも見えるが、前例やカウンセラー個人
の考えから病気を治療していくので、
人との相性が重要なポイントとなる。

私の問題は過去にあり、解決手段は皆無である。
それもあり話す意味はないと思っていた。
私が通う理由は、人と話す為に行っている。
それはカウンセラーも同意見ではあるが、
私の場合は、異例な上に複雑な問題である為、
私自身でもストレスがかかると最初の頃は、
発作を起こすほどであった。

私は通いつつも、自力で治そうとしたが、
封印された最悪極まりない事であった為、
封印されたドアを開くと、一気にその時の
感情や私の中に眠っていた悪意も一緒に
出て来て、心不全になった。

封印されたドアというのは比喩では無い。
理解し難いとは思うが、私の心は、私を
どうすれば生かす事が出来るのか自発的に
考え、私の思考とは別に、自動発動した。

当初、私は感情を失ったのだと思っていたが、
封印されたと知るまでには、それなりの理由
があった。
広島にいた当時、私は引きずりながらも
父母の記憶が鮮明にあり、恨んでいた。
感情もあり、怒りを始めとする全ての感情が
あった事から、一生恨む事になるだろうと
おもっていたが、生きる事に疲れていた
私は死ぬつもりでいた。

闘い続けて、生きる道をありとあらゆる
方法を使って、何とかしようとしたが、
その方法は無かった。
やり尽くしても無いと分かった時、
満足に近い感情が生まれていた。

やり残した事は、恩がある人たちに会う
事だけだった。
当然、話はしないまま会いに行った。
力の限りを尽くしても無いと結論が出た時、
やりきった感が強く出ていて、ある意味、
最後の手しかないと知り、満足感に満たさ
れていた。

本当に当初よりも体調も回復し、元気を
取り戻していた。それだけやり尽くした
結果に満足していたからだった。

しかし、生き残り、再び東京に出て来た。
仕事は問題なかった。以前もしていた事で
あったし、私にとってはそれほど難しいもの
では無かったからだ。

広島を離れる時、会っておきたい人に
会いに行った。死を覚悟していた時の話だ。
その中で、20年後には無人島になるであろう
立派な道路や、設備がある島で暮らす幼馴染の
母親に会いに行った。

80歳近いのに、島では若手だと言って、私を
笑わせてくれた。事実だが、笑える話だった。
インターネット回線もADSLで、市長は親の
知り合いでもあったが、完全に切り捨てる気
なんだと思った。町への投資にお金を使い、
島には使わず、そのせいでイノシシが駆除
しきれないほど溢れ出して、ミカンの名産地
であった島のミカン畑は荒らされ、島民の
ミカン畑は放置状態になっていた。

その日は、おばさんと話しながら、泊まる事に
なって、寝ている時にある夢を見た。
最初は夢だとは思わなかった。夢とはそういう
ものだからだ。
夢の中でありながら、全く同じ部屋で、
同じように横になって私は寝ていた。
金縛りにあい、暗い隣の部屋から黒い影が
入って来た。その時は夢だとは気づかず、
声も出せず、手が僅かに動かせる程度であったが、
その影は私の前まで来たが、何かをする様子も
見せないまま、ただ立っていた。

私は力を振り絞って、金縛りから脱すると、
その影は部屋から出て階段を下りて行った。
私はその影を追って、階段下の部屋から廊下に
行くと、影は4人に増えていた。
月明りが廊下に入り、影の顏を見たら自分だった。
私は一人の自分の顏を殴りつけると、粘土のように
へこんで、ボトボトと肉片らしきものが、
落ちて行った。血は一切出ずに、体の中も粘土
みたいだった。
その1人が倒れた時に、私は目覚めると同時に、
何故だか、これまで起きた真相の全てを理解した。

何度考えても不思議だったが、インスピレーション
のように一瞬で全てが見えた。そして何故だか
鏡を見た。

まだ白髪など一本も無かったのに、もみ上げあたりが、
見る見るうちに白くなって行った。
漫画のように有り得ない事が、本当に起きた。

その時は、夢の事を詳しくは考えなかったが、
ある事がきっかけで、私の心の異常に気づいた。

それは広島市内で朝まで飲んで、タクシーを探して
いた時に、道路を挟んだ向こう側で、男女がもみ合い
をしていて、男に女はしがみついていたが、
ホストであろう男が、女を蹴りつけていた。

普段の私なら即刻助けるはずなのに、
私はただ見ていた。
その男は女の顔面に思い切り蹴りを入れたが、
それでも私は助けずにいた。
違和感も少ししか感じず、私はその時、
感情が無くなったのだと思い込んだ。

以前の自分では無い事に気づいた瞬間だった。
その他にも酔っ払いに絡まれ、殴られても
殴り返さず、蹴られても反撃もせず、
倒されて上から顔面や腹部を蹴りつけられても、
私は何もしなかった。
背は高いが、ケンカ慣れしてないのは
すぐに分かった。あまりにしつこいので、
足を取って転ばして、
「お前では俺には勝てんからやめとけ」と
言ったら、「警察でも何でも呼べ!」と言って
きたので、その場で携帯で警察を呼んでやった。

私は転ばしただけで、一切手を出さなかったので
私は血まみれだったが、相手は無傷だった。
警察に訴えるかと聞かれたが、「いや、別にいい」
と私は言った。

それ以前に、地元の友人の1人が、同じような
状況になっていた時の話を思い出していた。
そいつも世の中も自分もどうでもいいと、
言っていた。私のように絡まれて殴られたが、
何もしなかったと言っていた。
相手がしつこいので、ボコボコにしたら、
逆に警察に捕まったと言っていた。

その話を聞いた時には、信じられない話だった。
殴られる事自体、不意でもつかれない限り、
避けられるのに、殴られてもどうでもいいと
言う気持ちが、その時は理解できなかったが、
私も相当ヤバいところにいる事だけは分かった。

実際に体験しないと分からないと理解しつつ、
今もこれを書いているが、全て事実だ。
あくまでも、事の経緯を話しているだけで、
今は大丈夫だ。よく東京で野蛮な話はニュース
で見るが、誰かが襲われていたら絶対に助ける。

それが本来の自分だからだ。

しかし、そういう事が続くと感情が無いと
思い込むには充分だった。
カウンセラーに通いつつも、自力で治そうと
昔の事に触れた時、言い表せないが、最も
恐ろしい感情に襲われた。それは「死」さえも
楽だと思えるくらい恐ろしいもので、この世の
何よりも怖く、恐れだけで私は耐えきれなく
なった。

すぐに触れてはいけないと、目を閉じて
30分ほど休むと体調は戻ったが、二度と触れて
はいけないものだと知った。

翌日、私は心不全になった。
それは後で調べて心不全だと分かったが、
よく心不全で死ぬ意味は理解した。

私は家でPCで何かをしていた時、最初は
目がチカチカして遺物でも入ったのかと
思って目薬をさしたが、数分後にまた
チカチカして、結膜炎でも起こしたかと
思って、鏡を見たが、違った。

しかし、その間隔がどんどん短くなって
きて、これはマジでヤバいヤツだと気づいて、
PCを切ろうとしたが、それさえも出来ず、
呼吸が浅くなり、這ってベッドまで行った。

心不全は通常の場合、椅子に座るなどして
身を起こさないと危険な病気であるが、
私の場合は、全ての病気が通常とは
異なっていた。それは医師会で調べた時に、
知っていた。

私に出す薬は無いと自分でも分かっていたが、
医者も同意見だった。
その事から通常の治療法が全く効かずにいた。
自分の精神力で過去と決別しない限りは、
治らない事を理解していた。
起きた状態で、悪化しているなら横になるしか
ないとすぐに判断して、何とか横になれた。
15分程度、横になっていたら落ち着いたので、
私はトイレに行った。

しかし、再び同じように呼吸が浅くなり、
私はすぐにまた横になった。
その時、私は感情が消えたのでは無く、
心の中に厳重に管理している事に気づいた。

自分の意識ではそうしようと思った事も
無かったし、夢に見た私の分身たちは、
私を守る為にいるのだと気がついた。

それから急性心不全に一度なったが、
どちらの心不全も、確かに「死」を
近くに感じるほど辛くはあったが、
その元となる恐怖と比べたら、
私にとっては大した事では無かった。

ただ外で心不全になれば危険なほど
厳しいものであった。

それ以後、思い出す事はやめて、
距離を取っている。今、書いていても
触れているように思われるかもしれないが、
触れてはいない。ただ見ているだけだ。

私は多くの裏歴史を見ながら、その世界で
生きて来た。自分の道を進んだのは、従妹の
中では私以外では、女性が2人。
後の十数人は親の道を進んだ。
つまりは自分を捨てて生きていると言う事だ。

その人生は一生続く、親が死ぬ頃にはもう
毒されていて、親から虐待に近い教育を
受けていた時は間違いだと思っていた事を、
お金持ちになれたという安易な理由で、
子供に同じ教育をしていく。

私は色々、体験し過ぎた。
それは一瞬で10年を振り返る事も出来るし、
悪夢と呼べるものに対して何日でも
考える事は出来る。

カウンセラーさんは当初は私が色々体験して
いる事は知ってはいたが、酷い時には秒単位
で色々な回想が頭を巡る事もある。
だからカウンセラーさんは最初は私を理解
出来ずにいた。

先週は元気だったのに、1週間で全く別人
のようになっているのに対して、
そんな人を見た事が無かったから誤解を
産んだ。

今はよく理解してくれているので、
私としては助かっている。
過去との決着もまだつけないが、
必ず終わらせる。
ただ、終わらせるだけだ。

私は私の事実を書いているだけで、
決して気弱になっている事は無い。
逆に書けるほど強くなったから
書いている。

私の記憶から抹消する事は出来ないが、
新たな記憶で上書きして、お金持ちに
なれたら、地元の奴等に正しい道を
叩き込みに戻りたい。

広島もは九州、四国、大阪、中国地方
から人が集まり始めている。
商売にならなくて逃げてきている。
今は300万人近くいるのに対して、
まだまだ土地が余っている。
今後も増え続けるだろう。

あくまでも今の気持ちなだけで、
東京に残る可能性もあるし、
出会いもあるかもしれない。

未来は誰にもわからないから
楽しめる。
辛くても、その先にある幸せに手が
届くまでは不幸でも、地平線の向こう側に
幸せが待っているかもしれない。

可能性に懸けて、駆けていくのが人生だ。





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