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ラルフ・ワルド・エマーソン

“毎日毎日をきっぱりと終わらせよう。

あなたは全力を尽くしたのだから”


この言葉はアメリカ人である作家、詩人、
思想家であり、超絶主義の先導者でもあった。

超絶主義とはアメリカ東部で起きた哲学運動
の事を指す。

この言葉は深い意味を持つ言葉である。
人の心境を突く言葉で、自分自身に問いかけ
させられるものだと言える。

「あなたは全力を尽くしたのだから」

こう言われて、果たして何人の人が心で頷く
事ができるだろうか?

私は頑張っていると思い込んでいる人もいる。
私もその中に入っているのか?とも思わされる。

「毎日毎日をきっぱりと終わらせよう」

この言葉は云わば、前振りに近い言葉だ。
そうすべきだと誰もが思うが、誰もがそうでは
無いとも言える。

人は日々に対して、そう思いながら生きている
訳では無い。思う人もいるだろうが、毎日では
無いはずだ。

実に攻めの言葉である。
超絶主義の先駆者と言えるだけはある。

このような言葉は我々の生活の中でもよく
使われる。

勿論、この言葉ではないが、同じような
意味を持つ言葉にして使っているはずだ。

この言葉は攻めの言葉であり、エマーソン自身
も恐らくは、最初は自分自身への問いかけから
生まれた言葉だと思われる。

基本的に偉人たちの言葉は経験を経て生まれる。
それもあるが、この言葉の場合は特に、己への
問いかけでも、自己啓発の念を抱く者であれば
自然と思う事であるからだ。

彼もこの自分の言葉には苦しまされたはずだ。
誰もが毎日きっぱり終わる事など、そうできる
事では無い。

サボるな! と心に直接言われているように
感じさせられる言葉で、苦笑いを生む言葉だ。

しかし、言葉にしている以上、彼はこれをモノ
にしたと言える。1日1日を大切に生きたのだと
言えるだろう。

特に超絶主義の先駆者ともなれば、自分自身には
一番厳しくあるべきだと思う。

彼は自分を追い込んで、追い込んで、結果として
日々生きる事に全力で生きたのだと感じる。

これは難しい言葉だ。確かに頑張るべきではある。
しかし、時にはゆっくりする事もしないと、
気づかない部分も出て来る。

常に気を張って生きるべきか、どうかは難しい
問題だと言える。この言葉さえも正しいのかと
今、自分に問いかけた。

確かにきっぱりと終わらせれば、気持ちよく
眠れる事は間違いないだろう。
しかし毎日となると疲れるのか?
非常に難しい。

実際に経験しなければこの答えは出ない。
私にも確かにそういう時期はあった。

非道な父に対して、善を説いた時だ。
三ヵ月後には家から出て入院が決まった。

私は21時から0時まで毎日、涙を流しながら
善を訴えた。毎日だ。1日も欠かさず、
説こうとした。

しかし、完全に悪人だと分かった。
それでも残り時間は決まっていたので、
90日一日も欠かさず、頑張ったが、無駄でしか
なかった。

私は失望して、生きる自信を失った。
これが親の本当の姿だと知って、
生き続ける意味が解らなくなった。
そして、高齢者でありながら、このように
醜く、酷い事も平然とやる人間になるのなら
生きている意味は無いと思った。

あの時は毎日頑張ったが、無意味だった。
最後に私の横を通る時、面と向かって言った。
「わしは悪くない」その一言だけ言って去った。

善悪の判断は難しいことは分かっている。
しかし、黒と白に別れるほど真っ黒だった。
あそこまできたない人間はそうはいない。

思い出したくないが、一生付きまとうモノに
なってしまった。
一生であの時期ほど頑張る事は後にも先にも
無いだろう。
指先が、止まってしまう思い出というべきかも
分からない記憶だ。

エマーソンのこの言葉に関しては分からない。
私は経験してしまったので、もう答えを言う立場
では無い気がする。

事が事だけなだけあって、私に言う資格は無い
言葉だと気づいた。
未来の私には‥‥‥いや、忘れる事は無いだろう。
一生付きまとう悪霊のような日々だった。

全てがそうである訳では無い事は知っている。
しかし極論になると実に難しい。
ある意味、今、皮肉にも、

“毎日毎日をきっぱりと終わらせよう。
あなたは全力を尽くしたのだから”

この言葉が当てはまる。
笑いが出た。苦しい笑いだ。
人生は難しいと感じる日だった。

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