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己の非力さに涙する

私は孤独だ。それは自分でも分かっている。私に起きた悲劇からカウンセラーさんは段々と理解を深めてきた。最初の頃とは明らかに違っている。私が死ぬまで孤独である事は、人生半ばにして既に決まっている事だ。カウンセラーさんも次第にその本当の意味を理解し始めている。闇の中に消えてしまった私の白い炎が、どこかにあるはずだが、それを探そうとして私は怯える程の恐怖に襲われた。それからはなるべく考えないようにしている。その事が実際に私の心を探し回った事が、やってはいけない事だと分かったのは直ぐだった。

二日後、急性心不全に襲われたが、医者の息子であったが故か、知識から生き延びた。その後、慢性心不全にもなったが、これは自らに起こらないと分からない事であるが、私を探そうとして襲って来た恐怖はどこかが痛い訳でもないのに死を連想させた。恐怖の極限状態だった。だから心不全程度の苦しみは、正直言って苦しんだが、あの恐怖には勝てなかった。

私のような人間を私は見てきた。ただ見てきた。そして彼や彼女は自分自身を持っているが故に潰されてきた。奴らは自分が正しいと信じ切っている。私は思う。今の私ですら、善悪の区別はつく。しかし、親もそうだったが間違った事しか教えなかった。間違いだらけの世界には、正しい者は居場所を失う。

私は私の世界に涙した。

だからこそ、私は人一倍、権力などを握る相手と慣れ合う事は無い。顏では笑っていても、裏があるのを知っているからだ。私は大勢の誰もが知る人と会って話もしてきたが、まともなのは極々少数だった。いや、多数いたが潰されていった。潰されない強さが既にあった人たちは、自分の信念を貫いている。

私とたまに会う叔父もその1人だ。いつも笑顔で辛そうな顏を見せる事は僅かしか無い。前に会った時に一度だけ苦悩な顏を見せた。私も知っていた兄の話だ。年齢も私と弟と同じだったが、小学校は別だった。少しずつ塾の終わりに自転車を止めた駐車場で話すようになっていった。本音はお互いに言えなかったが、世間が思うような甘い世界では無い事は、お互い分かっていた。

そして、あの日もそうだった。普通だった。特別、何かを感じさせるような事も無く帰って行った。しかし、次の日、自室で首吊り自殺をした。その意味は少なからず分かったが、親たちは分からない様子を見せていた。弟は1人で通うようになったが、話す機会も減っていった。

彼は小学生4年生で兄の部屋で同日同刻に首吊り自殺をした。きっちり1年後に彼は訴えるように死んだ。

叔父はその事を思い出したようで、親は責められるべきなのは当然だったが、それを於いても、立て続けに同じように死なれたら気が触れると言っていた。私は自分の身に起きて、初めて100%理解した。しかし生きている。
それは自分が数年の間、気が触れるような状態だったが、分析は得意だった為、自己分析を始めた。

今の私には欠けているものがある事までは知り得たが、私が立ち直るには幾つもの巨大な壁を超えなければならない。しかし、越えた所でどうなる? 私は昔の私を全て捨てて、東京に出て来た。その事でさえ、理解できないだろう。人は皆、自分の知識の範疇でものをはかるからだ。

テレビも、お笑い番組も、好きな漫画も、お酒も、映画鑑賞もゲームも、何もかも10年くらい見れなかった。今でも殆ど見る事は出来ないが、少しだけ昔の自分では無い自分が生まれ始めている。

私は恐ろしい程までにギリギリで生きている。だが、人前ではちゃんとするように暴力を以て親に躾けられた。幼い幼稚園の頃からそうされると、今でも他人の前では自動発動のように、辛くないように装う。自分が出せないのは、自殺した兄弟もそうだが、他にも親が権力を持った家庭ではよくある事だ。一代目なら問題ない。二代目、三代目と続いてきた家柄は体裁を何よりも重んじる。実にくだらない事だ。

ある日、医者仲間の私と同じ年齢の兄妹の双子とレストランに行った。当時は金持ちしか行けなかったような所だ。何かの付け合わせで、目玉焼きが出て来た。その兄妹は塩を軽く振って食した。私と弟は醤油で食べた。それからは醤油で食べるのは下品だと決めつけ、塩で食べるよう強要された。左利きの私は、受験で邪魔になる恐れがあると言う理由で、右で字を書くよう強要され、泳げないのにスポーツ入学するようなクラスにいきなり入れられたりもした。自分はかなづちで泳げないのにだ。痛みを知っていながら、その痛みを与える精神はもはや崩壊しているとしか言えない。

今、再び、徐々に昔の自分との繋がりのある哲学に触れるようになってきた。私が結論付けた哲学とは何か? はようやく答えが出た。答えが出たが出発点とも言える。恐らくは大多数の人は、哲学とは何かを自分自身で辿り着かなければ意味は全く無い。そこも当然、自分で気づかなければならない。

この前、カウンセラーさんと哲学の話をしていて、彼女は直球で実に心地よく面白い。「くだらない事しか書いてない哲学の本は沢山出てるけど無意味に等しい」と言った。私は笑いが出たが、まあ確かにその通りだ。そもそも哲学とは自分の人生が世の中に幾度となく触れた時に、目覚めるものであって、人から理屈を聞いた所で得る事は出来ない。私は残念ながら有り得るのか? と言われている幼少の哲学に目覚めたが、代償は大きかった。

私は思いながら書いたり、思い出したりしながら書いているが、今は昔に誓った事を思い出している。ジョジョの奇妙な冒険の岸部露伴の言葉や、進撃の巨人のリヴァイやエルヴィン。全てでは無いが、私はよく言われるのが、リヴァイかエルヴィンだと言われる事が一番多い。漫画故に、ある程度は万人に分かりやすく書かなければいけないが、私に起きた悲劇は、皆が口を揃えて言う、映画みたいな世界だと。実際、現実的に信じていない人も多数いる。それは医者という職業に皆、騙されている。

真実を見るにはそれなりに色々経験し、全てを見る眼力を身につけなければならない。高き門だと思う人もいるだろう。確かに高い壁かもしれないが、一度越えてしまえば、多くの壁を超える事に対して考えるよりも速く心で感じ取れるようになる。

父は私に弟を殺す話を持ち掛けてきた。あの世間では名士であるクソッタレオヤジは俺の部屋に来て、バットを手渡してきた。自分が押さえるから「殴り殺せ」と言った。私の愛犬も毒殺され、弟は確かにマズい存在ではあったが、頭の回転が遅くなっていたとは言え、バットで殴り殺すには相当問題があった。弟の本来の姿を見た人は、誰もが恐れる人間だ。私は1秒程度ですぐに理解した。私が殺せば不仲でもある故、殺すつもりはなかったはずだと言うつもりでいると。私を刑務所に入れるつもりだと気づいてすぐに断った。仮にも人を救う医者という職業でありながら、弟を本気で殺す気でいた。

母親は更に酷い。カウンセラーさんもそんな人の心情は理解出来ないと言っていたが、正にその通りだ。カウンセラーさんに何度も言われ続けているが、そんな環境でよく正常を保てたのかと。

私は死にたいが、奴らのように平然と嘘を顔色一つ変えずになれるような人間にはなりたくない。説得につぐ説得で、生きる為に幾つかの誓いを自分の心に立てた。やや譲った形ではあるが、絶対に譲れないものもある。その隙間を使って、「限りなく絶対的に嘘をつかない」これにより自殺はしない事を縛った。「騙さない」これで更に自殺を考えないように完全に固めた。「自分に勝つ」これは漫画の岸辺露伴の台詞で、「自分が一番好きな事は、自分自身に打ち勝つ時だ! それが何よりも心地いい」と多少台詞は違うがそういう事を言った。私はその時から、「自分に打ち勝つ」と心に強く誓ってからは負けてない。もう一つは、「最低1つは新しい何かを知る」これも昔は続けていたが、最近ようやくそれもし始めた。世界の智慧ある者は言っている。吉田松陰も言っていた。「一日に1字覚えれば、1年で365もの字を覚える」と言っていた。

「自分に打ち勝つ」と言う点で、恐らく多くの人は、それは負けなんじゃないのか? と思う人もいるだろう。しかし、それは間違いである。私は生き残るにはどうするべきかを考え尽くした。並みでは無い。神々の世界にまで入ってまで考えた。そして現実の世に私のような悲劇に見舞われた本当の歴史が2つだけあった。歴史の隠蔽など当たり前のように起きている。私はそれを我が身で受けたからハッキリと言える。その歴史の表沙汰にするしかなかった二人は、自殺に近い行動から死んでいた。

通常、人間の一番のストレスは親や子が死んだ時とされている。私は奴らの死を願った。母親は生まれて初めて和解した。お互い泣いて和解したはずだった。裁判を起こして負けてもいいから戦おうと言った。二日後、家中の全ての価値あるものを持って逃げていた。私は何が起きたのか理解できず、電話をかけた。運転中だからまた後でかけ直すと言ったが、かかって来ず、かけても取らずだった。恐らくは甘く考えていたんだろうとは思う。母親は頭は悪かったし、強い人間では無かった。強い人や有名な人には弱く、弱い人間には強く出た。最低の人間が父母だった。

それから約三カ月ほどたった頃、仲裁役だと言う幼馴染から電話があった。この幼馴染に私は言いたくは無かった。年上には一応敬意は払うほうだからだ。母親同然、甘く見ていた。私に起きた事を話した時、大笑いされた。そんな馬鹿な事するわけが無いと、私が狂ったと言っていた。何時間も笑っていた。頼りない仲裁役だった。当然、遺産分与は無いままで勝手に終わらせた。彼は言った。「おじちゃんが死んだ」私は言った。「だから何?」当然私には分かっていた。分かっていたがわざと聞いた。母親の体裁を大事にする恐ろしさは酷いものだった。喧嘩をしている時でさえ、私の話を従妹とかに話したり、いつも自分勝手な意見ばかり並べていた。そして奴は普通の人には有り得ない事を平気で言って来た。

「喪主として葬式に出て欲しい」と言って来た。私は言った。既に皆殺しにする機会はクソ親父が死んだ時だと分かっていたから、行けば間違いなく、あのクソ婆は平気なフリをして俺に元気だった? とか言ってくる。俺は長年見てきて分かる。だから殺す為の準備はしているが、それでも来いというなら行く。行って全てを終わらせる。全員殺して自分も死ぬ」私は本気だった。死体となったクソ親父も首を切断してやろうと思っていた。真っ黒な汚い世界で俺を騙し続けた奴らが勢揃いする。「屍に鞭を打つ」という言葉は中国の春秋時代、実際に起きた事だった。極限の苦しみや心の崩壊がそうさせる事は知っていた。我が親ながら酷い奴なのに、私の声は世の中には届かない。

誰もが名声に弱く、自分という人間に信念を持って生きていないからだ。ヤマトの設計者であった叔父と家で飲んだ事があった。東大主席で卒業したため、各界の有名人との交友もあった。だが自分を持っていた。

今の日本にはカラーが無い透明な人間が多すぎる。色を持つ事は特有を持つと言う事であって、自分を持っている人と言う事になる。大切な何かが分からないのであれば、まずは自分を変えるしかない。自分に色付けして、
こんな言葉もある。今の日本には必要な言葉だ。

「こんな世界だからこそ真実を言うのは革命的だ」

流されず、自分を持たないと、何も無い大人になる。人生は愉しむものであるが、当然、苦しみを感じる事のほうが遥かに多い。だからこそ、幸せを掴んだ時に、新たな世界が見える。頂上に登ったような気分になる。自分に打ち勝つのも同じだ。簡単な道はあるが、敢えて自分が避けたいと思うほうの道へ行く事によって自己啓発になる。逆に言えば、逃げてばかりいたら何も無い人になってしまう。それだけは避けたほうがいい。

多くの言葉を知っていても、それだけでは無意味だ。実行してからこそ意味を与える。鼓動を感じるほど肌がざわつくだろう。その緊張に慣れる事は無いが、自分の成長に繋がるのは確かな事だ。

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