プロティスタンティズムと資本主義の精神

ウェーバーを流し読みして社会学的視点に関心をもってブルデューの評判の悪い訳文にとりついたが(25年前だからしようがないといえばそうだろうが)主著がこれなのでしょうがない。

ウエーバーのプロティスタンティズムと資本主義の精神は確かに「面白かった」しかし内容は複雑怪奇で、これが「精神」といえるようなものはない。だから社会学の権利を眺めようと地上最強の悪訳の「実践感覚」を覽た訳だが、人類学、社会学、経済学の仕分けをして客観性のポジションを保持しようとしてはいるものの社会現象学=主観(人類学か)社会物理学=客観(経済学)にたいして主観(イデオロギー)の客観性(階級)としての社会学とはマルクス主義への退化あるいは社会学的偽装のようにみえる。

ウエーバーのプロティスタンティズムと資本主義の精神で印象に残ったのは最後の審判に備えて死後神に選ばれ地獄に落ちない側に行くために昼夜分かたず労働に励むというところ。逆説を接ぎ木した詭弁に見えなくもないがこれを通俗道徳ということはできないだろう。通俗道徳という言葉自体その射程がイデオロギーの言い換えでしかないところがあるのだが、なぜ通俗でない道徳が有るかのようにイデオロギーという言葉を避けたのかはわからない。


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