浅利誠「非存在論的日本文法」読後メモ

自分が「ある」と考えることあるいは固執することが、逆に自分を見えなくさせ世界を消してしまう。そして偏執的な執着だけが死の欲動のように反復する。なぜこうしたナルシシズムが自分を見失う自分語りとして語られるのか。人権が自分の固有性、ひいては自分の存在そのものに転化する。自分があることに固執し、固執することが固有性であり、独自性、自分の個性であり存在価値であると錯覚に固執する。
このような衰弱からくるのか堂々巡りをしたのは、自分の目から見た記述しかないような同人小説を目にしたからで、西欧の主体性の脅迫が脆弱な形で現代日本に形骸化して残存したもののように思われたからだ。
更にはこのような想起自体前提があり、一月ほど前に亡くなった人について出版社の人と話していたことがあり、その連想でハイデガーの訳書を読んだりしたからだろう。その人は日本語に繋辞がないことがハイデガーの存在(有るという繋辞)の問を反転させることと関連があるのではないかと仮定していたのだが、志半ばで去った。
それは主語がないということでもあり、ないものを有ると固執して現実化させる言語上の手続きについての何がしかの問でもあるように思っていた。
いまさっき遺稿を読んだ限りでは問だけで終わったという印象だ。
無いものを有ると固執することで起こる堂々巡りの消耗戦を人間は学んだはずだ、否、「人間」が何か予めわかったかのように「有る」としている問の不在が同じことをくりかえすというのか。有るが無いの対概念であるとするなら永遠の実在は「存在」しない。存在そのものが状態の一変化であって実体ではない。
ここで使われている「である」「だ」も大なり小なり繋辞と対応させて作られた近代の急造日本語だという。そこで表現されるものとされないものの転倒が起きたのだという。

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