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【仕事】仕事をして、何を得るか。給料の対価とは?

小難しいイメージのタイトルにしてしまった。
けれど、内容は軽めでいきます。

先日、60手前にしてランニングを始めた職場の方が私に話しかけてきた。

談笑の後、私はこう言う。
「少ししたら、レース出ましょう!」

絶対、やだ。
と返答された。
ランニングを始めて少し経つと、自然に大会に出たくなるものだ。しばしレース三昧の日々を送っていた私には不思議な返答。

その方は、続けてこう言った。
「苦しいことするために、お金払いたくない」

なるほど。
求めてることが違った。
彼は「痩せるために」走っているらしい。

他にも、かつての私よりも長くランニング生活を送っている方がいる。
その方ともたまにランニング話をするのだけれど、絶対にレースには出ないと言っていた。
毎朝10km走っているのに。

彼は「健康維持のために」走っているらしい。

私は、お金をわざわざ払って、走っていた。
マラソン大会の参加料は、まぁまぁ高いのだけれど、全く惜しくなかった。
遠征で宿泊料がかかっても、交通費がかかっても、体調不良でDNSになることがあっても、払うことに躊躇はなかった。

対価が、金額以上だと知っていたから。

でもこれは、走る人なら誰でもそうであるわけではないことを知った。
走る「目的」が違うのだ。

マラソンに沼っていた頃の話はこちら↓

では、「お金を得る」ことの対価は何だろうか?という問いに向き合ってみる。

先日たまたま見つけた記事を読んで、いろいろと考えてしまった。
さくまるさんの記事↓

私が師事する、尾石晴さんの著書の内容を拾っている。
興味深いことが書いてあった。

全く関わったことのない業界でスキルや知識を得る機会があります。

その経験をお金をもらいながらさせてもらっている、という認識で働いています。

仕事はお金だけだ、と思っていると、スキルや知識といった学びの時間は苦痛になってきてしまいますが、仕事のお陰で得られているといった発想を持つと、そういった時間も少しは楽しくなってきます。

さくまるさん記事 #52

なんか、ハッとしてしまった。
「経験を、お金をもらいながらさせてもらっている」という視点か!

これを自分の仕事に当てはめてみる。
私が得られていると思う経験は、下記。

【オフィシャルなもの】
・生徒の成長に寄り添える経験
・進路実現のための指導経験
・教科指導するために自分も学び続ける経験
・生徒の心に向き合う経験
(その他、膨大なので割愛)

【超個人的なもの】
・若さを保とうと努力するメンタリティ(見た目、内面共に)
・自分が学生じゃなくても、学校に居続けられる特権
・生徒との何気ない日々の雑談
(その他、細かいことなら無限)

これらを、私はお金を得ながら経験させてもらっている。
と考えたら、何だかめちゃくちゃ得した気持ちになってきた。
お金をもらっている上に、こんな素敵なことが得られているのかって。

マラソンなら、すぐ腹落ちする話だ。
マラソンには、払う立場。
愉しませてもらう替わりに、お金を払う。
払って得られる対価は、走って得られた快感。

でも仕事は。
得られてばかりだから良い意味でややこしい。
お金も得る上に、喜びも得る。
経験させてもらっている上に、立派にお給料を得ている。

おいおい、この状況はなんじゃらホイ。

苦しいことをする替わりにお給料を得ているって感覚を脱したら、なんだかとてつもなく素敵な世界だった。もらいっぱなし、毎日得してる!

この点について、私の仕事史上、最も印象的なことを例に挙げる。

私自身、仕事を始めてからマラソンを趣味にした。
理由は、「この子たちに自信を持って伝えられることが欲しい」と思ったから。

お恥ずかしいことに、学生時代はちゃらんぽらんで、まともに部活をしてこなかった。
毎日グラウンドや体育館で練習する彼らを見て、「私は何を伝えられるんだろう?」と情けなくなってしまったのだ。

言葉だけなら、伝えられることは無限にある。
でも、その言葉が生きるかどうかは、発した人の生き様によるところが多い。
言葉は重い。放つ時点で、その人がその言葉の責任を負う必要がある。
だから私は、言霊の概念を信じている。

自分が経験してきたことを言葉に乗せるなら、言葉の価値が一気に上がる。
受け取り方も当然変わる。
同じ言葉であっても、使う人によって価値が変わるのだから、不思議なものだ。

結果、私はマラソンを本気で取り組んだことで、伝えられることの幅や厚みが全く違うものになった。
継続することの大切さや、正しく努力することの重要性、戦略的・計画的な取り組みがいかに効率が良いか、などなど、自信を持って伝えることができる。
体得したことを通して人に伝える表現は、強い。

そしてそれは、生徒を通して気付いたことであるし、仕事をしていたから手に入れられたことでもある。
「お金のため」と思いながら仕事していたら、一生得ることができなかった財産だと心から思う。

マラソンついでに、小さな例も挙げておく。

私は納豆が嫌いだった。
25歳まで一口も食べてこなかった。
理由なんてものはなくて、嫌いだから嫌いだった。それ以上の理由はない。

でも、部活の遠征で、生徒と食事を囲む際、だいたい朝食に納豆が出てくる。
私は自分の納豆を生徒に手渡して、それらしい適当なことを言って食べてもらっていた。
でも、なんとなくそれをする自分が嫌だった。

それでついに、生徒に一人前のことも言えない自分に嫌気が刺し、教師のプライドを取り戻すべく、次の遠征の朝ごはんで、納豆克服プロジェクトをこっそり遂行した。

私はそれ以降の約15年間、納豆に健康の一部を支えてもらっている。
最初の一口は、今でも忘れない味。
涙目で息を止めていたから、無味。
納豆なのに。
そしてそれを生徒にはバレずに事を済ませた、教師ゆえのプロフェッショナルな根性よ。
栄光を讃える。自分。

納豆は冗談にしても、この視点で見始まったら、仕事を通して得られたことなんて数えきれないほど存在している。
きれいごとや美談だけではなくて、誰かを反面教師にした見方や、失敗や挫折から得られた教訓も含めたら、自分を形成するアイデンティティの大部分は仕事に依拠しているのでは、と。

気づきをくださったさくまるさんの記事と、絶対にレースに出ないおじさんたちに感謝。

さて、仕事するか。
今日は何が得られるか、愉しむ姿勢で。

連休前、頑張りましょう!
では、また。

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