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小栗の椿 会津の雪⑲


第五章 出陣③
 
 
 慶応四年八月二十三日、光五郎は、越後街道を鶴ヶ城下に向かっていた。
「昼には着きますが、雨になりそうですね」
 暗い色をした雨雲の低く広がる空を見上げながら、光五郎は言った。
「この様な低落を、家族に見せるのは気が重いな」
 大八車に寝そべった広田は、ほっとした顔を見せたのも束の間、口元を引き締めた。
「しかも、他の隊に迷惑をかけるなど……」
「なあに、隊っていったって、俺は仲間とは違って、戦では何の役にも立たねえから」
 ここまで来るのに、思った以上に日がかかってしまった。桂輔と近くの村まで運び、そこで治療をした。そこからは、駕籠を頼んで峠を越えた。会津に入ってからは、大八車を譲ってもらい光五郎一人で連れ帰ることにした。
 異変を感じたのは、柳橋にさしかかった頃だった。大八車に荷物を乗せてすれ違う商人風の男がいた。続けて、若い武家の妻女と思われる女が背中に赤子を背負い、幼い子を連れて速足で駆けていく。次から次に逃れる様に人が城下から流れていく。
「何か、あったんでしょうかね」
 光五郎が大八車を引く足を止めて声をかけた。広田が、顔を歪めつつ沿道を行く人波を見つめる。
「虎七! 林様のところの虎七ではないか」
 顔見知りの中間を見つけたのか、広田が声をかけた。
「広田様、こんなところでどうしたんで?」
「越後口で不覚を取って、これから日新館へ行くところだが、この騒ぎは……」
「日新館など、とんでもねえ。日新館も、本一ノ丁の辺りも火の手が上がっています」
「何があったのだ?」
「昨日母成峠が敗れました。早朝、籠城を呼びかける鐘が鳴り、敵が甲賀町口から押し寄せまして、撃ち合いになったのでございます」
「母成が敗れた……」
 広田の青白い顔が凍りついた。光五郎は、街道の先に目を凝らした。所々に煙が上がっている。ぽつりぽつりと雨が降り出した。
「既に城の門が閉められ、籠城しようした方々が城に入れず、やむなく屋敷で自害し火を放ったそうです。敵から逃げようとした人が西方面に逃げて、河原町口辺りはひでえ混雑で……」
「林様のご家族は……」
「入城しました。あっしは、暇を出されたので、故郷に帰ります。西郷様のお屋敷辺りがよく燃えてるんで、うちの屋敷もどうなるか」
 光五郎は、西郷屋敷に行ったことを思い出した。年頃の娘と、利発そうな少年と、幼い娘と、あの方達は一体どうなったのだろう。
「広田様のご家族のことはわかりません」
 気の毒そうに虎七が言った。広田は、ふらりと荷台から降りようとする。
「広田殿。今動かねえ方がいい。折角、傷がふさがりそうだって言うのに、無茶したら」
「行かせてくれ……。城下に……」
「日新館には行けねえ。病院なんかねえよ」
「敵と、……戦うのだ」
「広田様。無理を言ってはなんねえ。城下に行けるような状況じゃあねえです」
 光五郎と虎七が広田の身体を抑え込もうとする。ドンと大砲の音が小さく聞こえた。その音を聞き、広田は目を見開き、身体の力が抜ける。確かに、城下が戦場になっている。雨が強くなったというのに、火の勢いは消えそうにない。煙と共に炎が見えた。
「全く。折角少しよくなったっていうのに、またぶり返しやすぜ」
 光五郎は、白目になって気を失った広田に、筵をかけた。
「これから、どうするおつもりで……」
 気の毒に思ったのか、虎七が尋ねた。
「南原の野戦病院に、運ぼうかと」
「それじゃ下野街道へ抜ける道まで、ご案内しますよ。脇道から行きましょう」
 虎七という中間が、大八車を後ろから押してくれた。
「すまねえな。恩にきる」
「いえ。隣近所を心配してやる余裕はなくて……。広田様のところは、やっと出来た子が腹にいたっていうのに……。もしかしたら、広田殿はまだご存知ねえかもしれねえが」
「そりゃあ……」
 雨脚が強くなり、足元がぬかるむ。湿って重くなる大八車を光五郎は懸命に押した。ここで死なしちゃあなんねえ。その思いで縺れそうになる足に鞭を打つ。
 見慣れた下野街道へ出たところで虎吉と別れた。広田は気を失ったまま、荒い息をしている。雨に濡れて、熱が上がっている。光五郎は、休む暇もなく足を動かした。
 南原の少し手前、雨屋の辺りは、逃げて来た女子供が沢山いた。雨の中、彷徨う様に歩く人達の群れを見ながら、行く宛てはあるのだろうかと心配になった。
 けれど、今はそれどころじゃない。人の心配をしている場合じゃないと、光五郎は酷くなる雨の先を睨んだ。
 
 
                ◆
 
 
 負傷者の数が一段と増えている。そのことをさいは不安に感じていた。三日に一度来ていた医者も、ここ数日姿を見せなかった。その代わり、護衛としてついていた年配の侍が、傷ついた兵の包帯を代えている。
「ご隠居。こちらの布なんですが、もしよろしければ御使い下さいと、奥方様が……」
 包帯の数が足りなくなりそうなのを見かねて、さいは遠慮がちに白い木綿を差し出した。
「ほう、こんなに沢山。有難いが……。ひょっとして、これは……?」
「襁褓としていただいた布なんですが……、まだ一度も使っていませんから」
「ははは。襁褓か、こりゃあいい」
 白い髭を蓄えたご隠居は、そう言って豪快に笑った。
 母になってから二月経ち、時に赤子を抱いたまま傷ついた兵を見舞い、話し相手にもなる。江戸から遥々会津の国境まで来て戦い傷ついた若者は、小栗上野介の奥方だとわかると、涙を流すこともある。よきも包帯を洗うだけでなく、簡単な手当てをする様になった。
 銀十郎達が再び戦場へ赴いてから一月以上が過ぎ、傷が癒えて旅立つ人の数よりも、傷ついてここに来る人の数の方が圧倒的に多くなってきた。時には亡くなる人もいる。戦がどんどん近付いて来ている様な気がする。
「三左衛門様!」
 雨音の響く中、聞きなれた男の声にさいははっとした。よきと庫裏に向かう。
「光ちゃん!」
 さいは叫んだ。庫裏の表玄関に大八車がある。そこでへたり込んでいるのは、光五郎だった。戸が開き、三左衛門が顔を出す。
「こ、この方を、助けてくだせえ」
 光五郎が息も絶え絶えに言った。大八車の上には筵がかけられ、兵が横たわっている。
「よし。とにかく、中へ運ぼう」
 三左衛門と房吉で男の身体を支えた。水に滴る男の顔を見て、さいは目を疑った。権田村で別れた夫の顔に瓜二つだった。
 傷を負った男を囲炉裏端に運び、濡れた着物を脱がす。男の裸を見てわかった。夫に顔も背格好もよく似ているが、全くの別人だ。脇腹の古傷、掌の肉刺を見てもそれはわかった。竹刀を振り、剣を極めた侍の身体だった。
 左腕の傷が膿んでいる。真水でよく洗い、汚れた包帯を取りかえる。囲炉裏の脇に布団を敷き、火をくべて身体を温めた。秋とは言え、雨に濡れて身体が冷え切っている。手足の先は冷たいのに、額は焼ける様に熱かった。
「光五郎。この方は一体?」
 着替えて水を飲んで一息ついた光五郎に、三左衛門が尋ねた。
「朱雀隊士中四番隊の広田様です。石間村で怪我をして、撤退の途中で動けなくなったところを、銀十郎と桂輔さんに、城下まで連れて行くよう言われました」
「そうか」
 三左衛門がほっとした顔をする。娘婿であるはずはないと思いながらも、別人と確かめたかったのだろう。
「日新館に運ぼうとしたら、城下は既に敵に攻めこまれ、日新館も西郷様のお屋敷も燃えていると聞いて……」
「何だと……?」
「昨日、母成峠が敗れたそうです。敵が押し寄せて、城下は大混乱と聞きました」
「……!」
 光五郎の言葉に、その場にいた誰もが凍りついた。世話になった横山の屋敷は、日新館と西郷頼母の屋敷のちょうど中間にある。
「横山のみな様は、どうされたのでしょう」
 赤子を抱いて真っ白な顔をした奥方が、奥の間の襖を開けた。
「わかりません。城に入り籠城された方もいる様ですが、敵があまりにも早く来たために、門が閉められ外に逃げる方も多くいました。中には自刃された方もいたそうです」
「きっと、お城へ入られましたよ。万が一の時にはそうするとおっしゃっていましたから」
 真っ青になった奥方の肩に手をついて、母堂が勇気づけるように言った。
 さいは、西郷家で貰った布をぎゅっと握りしめた。幼い息子を連れてきしは、無事城に入城できただろうか。スペンサー銃を持ち入城すると言っていた八重は……。
 城下で会った人達の顔が思い出された。 
 
 
                 ◆
 
 
 『母成敗れる』の一報が津川宿に届くと、隊士達の間で激震が走った。急ぎ城を救うために会津へ引き返すことになり、朱雀隊士中四番隊とその付属隊は先鋒として、津川を発つことになった。
「銀十郎殿!」
 声をかけてきたのは白虎隊寄合一番隊の原隊長だ。
「会津は、どの様な有様かわからぬ。……用心しろ」
「原隊長も……。あいつらのこと、頼みます」
 銀十郎の言葉に、原隊長は目尻に皺を刻み頷いた。本当は真っ先に城下へ駆け付け、家族の安否を知りたいだろう。
 しかし、どの様な敵が待っているかわからない状態で、年若い白虎隊を先陣として遣るわけにはいかない。
「母成峠から攻めてくるとはな……」
 隊に戻ると、伝三郎が悔しそうに言った。
『どこか一つでも崩れれば、ここには老人子供と女だけだ。城を守る兵がいねえ』
 いつだったか伝三郎がそう言った時、銀十郎はぞっとした。まさか現実になるとは。
「急ぎ、会津を目指す。遅れをとるな!」
 馬に乗った先頭の町野隊長の激に、隊士は応えた。速足で街道を下って行く。会津から津川まで来るのに、三日はかかった。駆け足で急いでも二日はかかるだろう。
「奥方様達は、大丈夫だろうな」
 源忠が苛立った様に口にした。
「敵の目指すは鶴ヶ城だ。南原にいる奥方様に直接の被害はねえと思うが……」
「光五郎は? あいつは、日新館にいるんじゃねえかい?」
 落ち着かせようとした伝三郎の言葉に、桂輔のそれが重なった。
 八月二十六日(新暦十月十一日)、束松峠から見た会津の風景に、誰もが息を飲み、立ち尽くした。秋晴れの空に下に広がる会津盆地に、刈入れの終わった稲が稲木にかけられて並ぶ。鶴ヶ城の方角からは、硝煙がいくつも立ち上って、空を赤く染めていた。美しい故郷の信じられない光景に、男達の咽び泣く声が響いた。
 その日のうちに坂下へ、翌日高久へ着いた町野隊長率いる朱雀隊に、城下の様子が少しずつ明らかになってきた。町人の多くが逃げうせた人気のない代官所を本陣とし、その一室で報告を受ける町野隊長の傍らで、銀十郎はその内容を聞いた。
 二十三日鶴ヶ城は籠城に入った。城に入れなかった家族は、郭外に逃げたか、屋敷に火を放ち自刃した。
 各国境で戦っていた諸隊に、急ぎ帰城せよとの伝令を出し、既に日光口や猪苗代口から既に三千近い兵が戻って来ている。
 朱雀隊士中四番隊を始めとした越後口で戦っていた隊と、二本松街道から郭外へ北から迂回して来た萱野権兵衛の隊は、城を囲む敵陣のさらに外側に取り残されていた。
「我等は敵陣を速攻にて打ち破り、城に入城する。万が一傷を負う者がいたとしても、顧みることは不要だ。負傷して立てなくなった者は、潔く自らを己が刃にかけよ」
 町野隊長は、隊士に向かって言った。朱雀隊士は、覚悟を決めた厳しい顔つきになる。
「町野様。急ぎお越し下さい。西郷頼母家老自ら伝令に参られております」
「御家老が……」
 萱野隊の隊士に呼ばれ、町野隊長が部屋を出て行った。
銀十郎はそっと表に出た。夕方でもないのに、一方の空が朱くなって見える。城下はまだ燃えているのだろうか。
「あの、つかぬ事をお伺いしますが」
 銀十郎が空を見上げていると、声をかけられた。頬っかぶりをした中間風の男だった。
「こちらに、朱雀隊士中四番隊の皆様がいると聞きまして、あっしは、町野源之助に仕える兵助と申しやす」
「町野隊長の?」
「御存知ですか?」
 兵助と名乗る男は、ほっとした顔をした。
「町野隊長は今取り込んでおられるが、そのうち取り継ぐこともできよう。それで、町野様のご家族は?」
「門が閉められて入城が叶わず、勝方村の寺へ避難しておりやす。自刃をお考えでしたが、旦那様の隊が越後よりご帰還という噂を聞き、あっしがつかいに来たって次第です」
「……幼いお子さん達を連れて無事逃れられたのですね」
 竹とんぼを渡した時に『ありがとなし』と言ってニコッと笑った娘の頬の白さを思い出し、銀十郎はほっと息を吐いた。
 兵助を待たせ、隊長がいるはずの奥の間へ、裏庭を通って向かおうとした時だった。
「お待ち下さい! 西郷様!」
 町野隊長の怒鳴り声が響いた。渡り廊下を歩く二人の男。先を行く髭を生やした男が、西郷頼母だろう。後ろから町野隊長が追いかけ、西郷の前に立ちふさがった。
「朱雀隊士中四番隊は、まだ肌寒い四月より越後を転戦してきました。城に入り一目家族に合って、鋭気をもらったうえで、再び戦に出ることもできましょう。せめて家族の無事だけでも、確かめることは叶いませぬか」
「くどいぞ、町野! 会津武士が戦に赴く際は、二度と家族に会うことはないとの覚悟の上だ。我が西郷家一族二十一人の子女妻女は、わしと長男を除き、白装束を身にまとい既に自刃して果てた。その屍も屋敷と共に燃えつきて骨を拾うことも叶わぬ!」
「何と……」
 西郷の気迫に、町野隊長も言葉を失った。
「いいか。越後口から来る敵を街道沿いで食い止めよ。わしは仙台へ行き、援軍を連れ帰る。それまで敵に街道を封鎖されることのないよう。これは殿の御命令でもある」
 西郷はそう言い残して立ち去った。
しばらく立ち尽くしていた町野隊長は、気持ちを切りかえいつもの鋭い目になった。その足で再び隊士の元に向かう。
「殿の命を伝える。城は既に国境より戻った兵で守りは固まっている。今郭外にいる隊は入城せず、街道沿いで敵を防ぐようにとのことである」
 命をかけて入城し、家族の無事を確かめようと意志の固まっていた隊士達はざわついた。
「それならば、隊長。この付近の村に、家族が逃れているという噂があるのです。家族の安否を確かめに行ってもいいでしょうか」
「某も、家族の無事を確認すれば、心置きなく戦に向かえます」
「しかし、妻子に心を惹かれていては、どうして君恩に報いることができようか……」
 縋る様な隊士達の声に、町野隊長の眉間の皺が深くなった。
隊士の願いを叶えたい思いの一方で、西郷一族の死が頭から離れないでいるに違いない。
「恐れながら……」
 銀十郎は思わず口を挟んでいた。
町野隊長と隊士達の視線が銀十郎に一斉に向けられた。
「我等、小栗上野介家臣一同、会津のみな様のご恩に報いるべく命をかける所存でありますが、南原におります主の遺児のことが心配でなりませぬ。一目無事な姿を拝見できた折には、心置きなく戦うことができましょう」
「どうか、南原へ行くことをお許し下さい」
 銀十郎が頭を下げると、伝三郎や他の仲間も一斉に頭を下げた。
「うむ。そなた達は、亡き主の身重の奥方を守り、遠く上州より会津を頼って参ったのであったな。その忠義には胸を打たれた。……それではみなの者、今夜の四つ時まではここを離れることを許すことにする。それまでには必ず戻り、翌朝の進軍に備えることとせよ」
 町野隊長がそう言うと、隊士達の安堵の溜息が広がった。町野は、そんな部下達の顔を見ながらほっとした顔で部屋を出て行く。
「ちょっと、待っていてくれ。すぐ戻る」
 銀十郎は仲間にそう伝えて、町野隊長の後を追った。
「隊長!」
「銀十郎か。……おまえが申し出てくれて、助かった。家族に会いたい気持ちを、止めることは人情として忍びないと思っていた」
 銀十郎が呼び止めると、町野は、一瞬気弱な表情を見せた。
「兵助と名乗る者が訪ねてきています。裏門で待つように言ってあります。……隊長のご家族は、無事だそうです」
「……おまえが、あんな風に主張するのはおかしいと思っていた。部下のためだけではなく、俺のためでもあったのだな」
 銀十郎が耳元で囁くと、町野が強面な顔を引きつらせた。
「いえ。俺は、どうしても南原にいる大切な人に会いたかっただけです」
 大切な人の無事を一目確かめたかった。その気持ちに嘘はない。
「兵助には会って話をしよう。妻や子には会うことはできん、と」
「隊長……」
「家族が無事でいるとわかっただけで、有難い。部下の中には、安否を確かめる術のない者も多いのだ。遅れずに戻って来てくれよ」
 何かを吹っ切った様に町野はそう言って、銀十郎に背を向けた。


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