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小栗の椿 会津の雪⑳


第五章 出陣④
 
 
 南原の野戦病院は、怪我人で溢れ返っていた。負傷者と共にもたらされる情報は、少しも明るいものはなかった。
 夫に似た男は、二日間目を覚まさない。高熱でうなされている男は、時々うわ言で『みと』と呼ぶ。妻の名だろう。この人が夫ではないと実感する一方で、夫が今頃『さい』と呼んでいる様な気持ちにもなる。
「さい。いいかしら……」
 奥の間から奥方が顔を出した。気が付けば乳をやる時間になっていた。
 赤子の健やかな成長だけが今は救いだった。小さな口で器用に力強く乳を吸う。死が身近にある中で、気が付けば亡くなったさいの娘よりも長く生き続けている。
「母上様! さい!」
 よきの大きな声に驚き、乳を懸命に吸っていた赤子が、ビクッと身体を震わせた。
「何事ですか、よき。休まれている方もいるというのに……」
 外の方から聞こえたよきの声に、奥方が障子を開け、「まあ……」と小さな声をあげた。
「どうしたのですか?」
 さいが赤子を抱いたまま、居ざり足で外を覗いた。軍服を着た懐かしい仲間達が近付いてくる。夢を見ているのではないかと、さいは目を疑った。
 銀十郎と目が合った。その途端、咳払いをして目を逸らす。
「さいちゃん。仕舞ってからにしろよ」
 富五郎が呆れた様な顔をして言った。胸を肌蹴たままにしているのに気が付く。慌てて衿を直すと、赤子がヒンと泣き声を上げた。
「おクニ様、泣き声もでっかくなったなあ」
 伝三郎がそう言って目を細めている。笑い声が響く中、涙で視界がぼやけた。
「みんな、怪我もなくなによりだった」
 勝手口の外に腰を下ろし、円になって腰を下ろしている男達に、三左衛門が顔を見渡し、労いの言葉をかけた。
「城下が危ねえって話で、急いで越後から戻りました。町野隊長よりお許しをいただき、今夜まで時間をもらい、一目無事を確かめようとやって来たんです」
「それじゃあ、また直ぐに行ってしまうの?」
 よきが心細そうな声を出すのを、銀十郎は寂しそうに微笑み頷いた。
「日光口や猪苗代口で戦った隊が既に城に入った様です。城の周りを焼いたおかげで、敵もうかうかと近寄れねえが、籠城には外から武器や食料を運び込む道が必要です。仙台や米沢からの援軍が通る街道も。……俺達は、城の外で道を繋ぐために戦います」
 銀十郎が力強く言った。
「そうか」
 三左衛門が溜息を吐き、目を瞑った。
「三左衛門様に、一つ謝らなきゃならねえことがあります。……光五郎のことなんですが」
 銀十郎が言いづらそうに切り出した。
「日新館に向かわせたきり、行方不明で……」
「あら、光ちゃんなら、房吉さんと一緒につかいに出ているわよ」
 さいが言うと、みなきょとんとした顔をする。
「光五郎は、こっちに来ていたのかい?」
 裏返った声で、桂輔が聞き直した。
「二日ほど前、ちょうど城下に敵が押し寄せたって頃、怪我人を連れて来たんだ。その後、ここも次から次に怪我人が運ばれて来たんで、そのまま手伝ってもらっていた」
「なあんだ。心配して、損したよな」
 三左衛門の言葉に、桂輔がほっとした顔で銀十郎を見た。「ああ」と、銀十郎は肯定とも溜息ともつかない息を吐いた。
「それじゃあ、広田殿もここに?」
 桂輔がさいをじっと見つめる。さいはこくりと頷いて、板間の方に視線を移す。桂輔と銀十郎が立ち上がり、視線に促される様に勝手口に入った。
 板間の囲炉裏に近いところに、男は寝かされていた。息が荒い顔をそっと覗きこみ、桂輔がゴクリと唾を飲みこんだ。
「容態は、どうなんだ?」
「光ちゃんが言うには、途中までは意識もしっかりしていた様なんだけど……。ここに来てから高熱で意識が戻らないの」
 銀十郎の問いに答えると、「そうか」とだけ言って押し黙った。はあはあと荒い息づかいが静かな室内に響く。
「似ているな」
「似ているけど、全然違うお人よ。身体つきも掌の肉刺も、この方はお侍さんですもの」
 桂輔の独り言の様なつぶやきに、さいは答えた。
「一日早く日新館に辿り着いていたら、この人も光五郎も、命がなかったかも知んねえな」
 素っ気なく言って、銀十郎は勝手口から外に出て行く。
「……悪かったな。思い出して辛くなるんじゃねえかい?」
 銀十郎の背中を見送り、桂輔がさいの耳元で囁いた。
 確かに、夫のことを思い出した。けれど、辛いかと問われれば、答えは否だった。
「ううん。旦那様の代わりに、お世話させて貰おうって思うの」
 笑って答えると、桂輔はこくりと頷き、微笑んだ。
 光五郎が帰って来ると、仲間から『心配させやがって』と手荒な祝福を受けた。
 入れ替わり「おクニ様」の顔を覗きこみ、恐る恐る触れてみる男達の顔が優しい表情になる。一時の安らいだ時間は、あっという間に過ぎた。
「三左衛門様。敵が押し寄せ、国境を守っていた兵の多くは城にいます。ここは街道から奥まっているが、敵が来ねえとは限らねえ」
「ああ。いざとなれば、名主の味噌蔵に奥方様達をかくまってもらう段取りにはなっている。おまえ達も、くれぐれも……」
「わかってます」
 頷く銀十郎の横顔が夕日に染まっていた。三左衛門は息子を戦場に送り出す様な眼差しで、一人一人の顔を見つめた。
「みなさん、これを……。破れたところは、繕っておきました。それから、桂輔さん達には、また見よう見まねですが」
 奥方がそう言って、黒い軍服を差し出した。小栗の家臣だった者達には三国峠で着ていた軍服を繕い、そうでない者には厚い布で似せて作ったものだった。会津の秋は短い。寒さに震えないために用意したものだった。
「ありがてえ」
「この頃は急に朝晩冷え込んできたもんなあ」
 口々に喜びと感謝を口にして新しい冬服に袖を通す仲間とは異なり、銀十郎は自らの軍服を受け取るのを一瞬ためらった。
「銀ちゃん。どうかしたの?」
「いや。白虎隊寄合隊は、夏に越後に出陣して、着の身着のまま……。帰る家もない者が多いと思ったんだ」
 銀十郎は目を逸らした。辛そうな表情を隠して唇の端を上げた。
「城下は、焼けてしまったというのは、本当なのね。横山様や西郷様のお屋敷も……」
「ああ。西郷様のご家族は、ご子息以外の娘さんも奥方様も自害されたそうだ……」
「西郷様の奥方様が……」 
 たくさんの襁褓を用意してくれた奥方は、『うちではもう必要ありませんから』と笑った。あの方は、自らの手で死を選ぶ将来を予想していたのだろうか。
 くらりと空が回った気がした。
「大丈夫か?」
 銀十郎に腕を掴まれた。その力強い掌の感触に、現実に戻される。
「疲れているんだろう。無理するなよ」
 心配性の幼なじみの声が胸に響いた。今から再び戦場へ赴くと言うのに。
「……銀ちゃん」
「ん?」
 銀十郎が、さいの瞳を覗き込んだ。
「……」
 戦場へ向かう友に、何と言葉をかけていいのか。『死なないで』なのか、『みんなを守って』なのか、『行かないで』なのか……。様々な思いが頭に過る。
 結局、言葉に出来なかった。
「……わかったよ」
 それなのに、銀十郎は優しい声でそう答えた。
「それでは、行ってまいります!」
 光五郎を加えた仲間達が笑顔で手を振った。再び旅立つ後ろ姿を、残された者達は見えなくなるまで見送った。
「誰も欠けることなく戻ってくれるといいが」
 三左衛門がつぶやいた。
 かあかあと烏が西の空に帰って行く。夕焼けが真っ赤に染まる。
 勝手口から庫裏の中に入った途端、さいは目を疑った。板間で寝ていたはずの男の姿がなく、上がり框に足を下ろして今にも土間に落ちそうなところで荒い息をしている。
「広田様!」
 さいは慌てて駆け寄った。くらりと傾いた身体を支える。着物の上からも汗ばんだ肌は、まだ熱が下がっていなかった。
「動いては駄目です。まだ、熱が……」
「ここは……、どこだ……?」
「病院です。広田様と一緒に戦った誠志隊の仲間がここに連れて来たんです」
 覗きこむさいの顔を通り抜け彷徨った視線が、何かを掴んだ様に定まった。
「城はもう落ちたのか……」
「城は落ちてなどいません。越後口にいた仲間も戻られて、街道で戦っておいでです」
 銀十郎が言った。『道を繫ぐ』と。戦いは、まだ終わってはいないのだ。
「俺も、行かねば……。銃は、刀は、どこだ」
 焦点の定まらない視線が、勝手口から表玄関を彷徨う。
「その御身体では無理です」
「だったら、刀を! ……行けぬのなら、自ら腹を斬る」
 止めようとしたさいは、思いがけない右腕の力に振り払われた。よろめいて、土間に手をついた。力の入らない男は、足を踏ん張ったが、そのまま土間に崩れ落ちる。 
 さいはカッとして男を睨みつけた。
「腹を斬るなど……。あなたが死ねば、悲しむお方がいるのではないですか?」
「悲しむ者など、おらぬ。妻には、敵が城下に入った折には潔く自刃せよと、申し渡した」
「何ですって……」
「それが会津武士に嫁いだものの定めだ、と。あいつは、もう、この世には、おらぬ……」
 夫と似た男が、妻の死を悼んで泣いた。
 西郷頼母の家族だけではないのか。恭順を唱え白河城を奪われた西郷家老の家族は、籠城しても肩身の狭い思いをする。だから、死を選んだと思っていた。
 けれど、一体城下で何人の子女が自らの手で死を選んだのか。悲しみ以上に、怒りが沸き上がってくる。
「会津の方々は潔すぎます! 今あなたが死ぬことに何の意味がありますか?」
 会津の方々は、潔く、美しく、そして、悲しい。小栗上野介が斬首され、残された小さな命を守るために、仲間がどんな思いでここまで辿り着いたのか。大切な命を、どうして簡単に葬ることができるのか。
「刀など渡しません。あなたをむざむざ死なせはしません。死にたかったら、怪我を直して敵を一人でもやっつけてからにして下さい。私達の仲間が、そんな諦めのいい方々のために戦っているなど、思いたくありません!」
「さい……」
 三左衛門がゆっくりと傍に寄り、肩に手を置いた。感情を剥き出しにし、思い切り罵ったことが途端に恥ずかしくなる。
「娘は口が悪くてすみませんな」
 三左衛門が、力なく青い顔をしている男に向かって言った。
「かかあ天下に空っ風って言ってね。上州の女は恐ええって、有名なんですよ。勘弁してくだせえ」
 房吉が、にこやかに笑いかけながら言った。広田の身体を後ろから抱き上げる様にして、上がり框に座らせる。
「でもね。情も深けえのが、上州女ってもんよ。お侍さんも、そのうちわかりますよ」
「まあ。そうだな。おめえのおっかあも、気が強ええもんなあ」
「三左衛門様には、言われたかねえですよ」
 軽口を叩きながら、三左衛門と房吉で両脇に抱え、男の身体を布団の位置に戻した。広田は、なすがままになりながら、目を瞑り何かに耐えている。
「目を覚ましたんなら、少し口に入れた方がいいな」
 振り向いた三左衛門と目が合った。さいは黙ったまま竈の方に向かった。
 
 
                 ◆
 
 
 綻びを直してもらった軍服を着て、銀十郎は高久への道を急いでいた。すっかり暗くなった道を進む。
「母成峠で敗れたのは、伝習隊だそうだぜ」
 隣を歩く伝三郎が耳打ちした。
「伝習隊が?」
 意外だった。大鳥圭介率いる伝習隊は、最新式の銃器を持つ旧幕府軍最強の部隊だ。旧型のゲベール銃が主流の会津軍とはわけが違う。
「相手の数が多すぎたんだろう。大鳥様は何度も会津の家老達に援軍を頼んだのに、無視されたんだそうだ」
「その話、どこから聞いた?」
「さっき、病院に伝習隊のヤツがいたんだよ。大鳥様は討死したって噂もある様だぜ」
 そう言えば、しばらく伝三郎の姿を見なかった。城下でも日新館に出入りして、負傷兵から戦の様子を聞きまわっていた。
「松平容保公自ら、白虎隊士中一番隊二番隊を引きつれて出陣したけど、命からがら逃げかえったらしいぜ」
「白虎隊士中隊が……?」
 銀十郎は、八重の屋敷で出会った悌次郎の無邪気な笑顔を思い浮かべた。
『白虎隊士中隊が出陣なんてことがあれば、その時は、会津は終わりです』
 川崎尚之助の言葉が蘇る。その時の悲痛な表情も。
「出陣したか……」
 辺りは段々漆黒の闇に包まれる。急いで戻り、明日に備えなければ。気持ちは重かったが、それでも銀十郎は足を早めた。
 今日朱雀隊士中四番隊の中で、何人が家族の無事を知り喜び、また何人が家族の無残な死を知り悲しんだのだろうか。せめて、南原にいる大切な人が無事でいてくれてよかった。
 銀十郎は、見上げる星空に感謝していた。


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