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小栗の椿 会津の雪④


第1章 斬首③

 光五郎が偵察に出てから、丸一日何の音沙汰もなかった。
「まだ、何の連絡もねえのか! あの光五郎ってやつは何をしているんだ!」
「やっぱり、あんな頼りねえのを行かせたのは間違いだったんじゃねえのか」
 男達の苛々した声を聞きながら、さいは裏口から井戸端へ向かった。
 井戸から冷たい水を汲み上げ、手拭いを浸すとじわりと乳白色に濁る。微かに甘い香りがする。
 旅の道中では、乳を絞る暇もないかもしれない。乳母になる前に止まってしまわないようにしなければならない。
 手拭いを固く絞り、すっかり白くなった水を近くの松の根元に捨てた。
 カタリと、表の方から物音が聞こえて一瞬身を固くした。一昨日の様な騒ぎにはならず、表玄関を閉める音の他には、静寂に戻っている。
 ほっとして手拭いを物干しに干した。
「さいちゃん。ここにいたか」
 裏口の方から顔を覗かせたのは、旅装束の男だった。日に焼けた顔に人懐こい笑みを浮かべている。
「桂輔さん!」
 父と親しい村人で、夫濤市の数少ない飲み友達だった。
「おれも会津へ行くよ。さいちゃんも行くって聞いて、じっとしていられないよ」
「桂輔さんが? 本当に?」
 会津行きに同行すると聞いて、さいはほっとした。
 ニコッと笑う桂輔が後ろを目配せする。そこに、濤市が立っていた。
「旦那様!」
 さいは思わず駆け寄った。別れをせずに旅立つことが、心残りだった。
「兼五郎さんに、会ってくるよ」
 桂輔が二人を交互に眺め、にっこり笑って背を向ける。
「さい」
 何日か会わなかっただけなのに、夫の呼びかける声が懐かしく響いた。
「勝手に決めてごめんなさい。でも、私……」
「おまえが行くことは反対だ。大旦那はともかく、女のおまえが苦労することではない」
「でも、私は、女だからできることがあると思うのです。身重の奥方様のお世話は、男の人では無理です。初めてのお産の不安なお気持ちも。女の私なら、奥方様の力になれます」
「反対だったが、大旦那の文を見て考え直した。『東善寺で、生き生きとしているさいを久しぶりに見た』とな。頼られて、難しい状況になればなるほど力を発揮する大旦那に、おまえはよく似ているのだろうな」
 濤市は、そう言って寂しそうに笑った。
 父がそのように思っていたことも初めて知った。確かに、落ち込んでいる暇も、塞いでいる間もない。
「村に残って塞いで過ごすよりは、奥方様のお役に立つ方がいいのかもしれんと考え直した」
「旦那様」
 さいは、夫の優しさが胸にしみた。きゅっと唇を噛み締める。
 濤市は、両手でさいの肩を掴んだ。
「けれど、おまえの務めは、奥方様を支え、お子様の乳母となることだ。奥方様の身代わりとなるつもりなら、行かせはしないぞ」
「……どうして、それを」
 父に聞いたのだろうかと、一瞬考えをめぐらせた。
「おまえの考えていることなど、手に取るようにわかる」
 目の前にある夫の顔が、辛そうに歪んだ。本当は行かせたくないその思いも。
「無事、務めを果たして、必ず帰ってきます」
 絞り出す様に、さいはそう言った。濤市が、こくりと頷く。
「これから、おっ母さん達を親類の家に逃す。弟達のことも心配しなくていい」
「……ここにいては危険ということですか?」
 思わず聞き返した。
 何も考えずに、奥方の同行を決めた。残された家族が危険に巻き込まれることなど想像もせずに。
 安心させようとしたのか、夫は肩を掴む指に力をこめて微笑んだ。それは、一瞬泣き出す前の様にも見えた。
「心配はいらない」
 夫の声が低く囁いた。息が出来ない程の力強い腕で抱きしめられ、一瞬何も考えられなくなる。
 こんな風に力強く抱きしめられたことなどなかった。夫はいつだって、触れたら壊れてしまうかの様に、優しく触れた。
「だから、必ず帰って来い」
 耳元で囁く声が震えていた。
「はい。……必ず帰って来ます」
 夫の骨ばった首筋に、額を当てる。この人はいつも、不思議と柑橘の匂いがする。
 顎が微かに動き、頷いたのだとわかる。
「これからのことは、その時に考えるとしよう」
 夫のつぶやきの意味はわからなかった。
 濤市が、何かを断ち切る様に腕を放し、背を向けた。
 裏門から振り返ることなく出ていく後ろ姿を、さいは切ない想いで見送った。
 それから、どれくらい立ち尽くしていたのか。
「さいちゃん」
 恐る恐る声をかけられた。大きな風呂敷包みを持ってついて来たのは、かよだった。
「かよちゃん、どうしたの?」
「これ、みんなに食べてもらおうと思って。おやき作ったから」
 おやきは、上州で作られる粉をこねて焼くおやつだ。日持ちするから、携帯食にもなる。
「ありがとう」
 礼を言っても、かよは元気なく俯くだけだった。
「ねえ、かよちゃん。伝三郎さんと話はできたの?」
 尋ねると、かよは首を横に振った。
「あの人、私のことを嫌っているんだもの」
「そんなことないと思うけど……」
 会津に行くことになったら、帰って来られるのは何か月先か、何年先かわからない。無事に帰って来られる保証もない。
「このまま会えなくなっても、いいの?」
 さいがかよの顔を覗き込むと、かよはキッと目を上げて、決心した様に頷いた。
 呼び出されて井戸の側の梅の木の下に来た伝三郎は、小柄な後ろ姿を見て明らかに戸惑った様な表情を浮かべた。
「かよちゃん。頑張って」
 垣根の隙間から二人の様子を窺うさいは、思わず手を合わせた。
「どうしてここに? 早く帰れ。ここだって、いつ危険が及ぶかもしれん」
 伝三郎は辺りを見渡しながら、かよを追い立てる様に近付いた。
「一言だけ聞かせてもらったら、帰るわ」
 かよは一歩も退かずに、伝三郎の顔を見上げて言った。
「伝三郎さんは、私のことが嫌いなの?」
「はあ? そんなの今言う事じゃねえだんべ」
「今しか聞けないじゃない。たまにしか会えないのに、家に帰っても全然私と目も合わせてくれないし、私のこと嫌いなら嫌いってはっきり言ってもらわないと、私……」
「嫌ってなんかねえ……」
 身体に似合わない蚊の鳴く様な声で伝三郎が遮った。
「じゃあ、どうして、いつも私のこと避けていたの? 私がお嫁さんになるのが嫌だったんじゃないの?」
 かよがさらに前進して詰め寄る。伝三郎の大きな体が、垣根を背に一歩後ろに下がった。
「あんたのことは、かわいいと思っている」
 土俵際に追いつめられて、伝三郎は観念した様につぶやいた。
「……」
 かよの瞳から涙が一粒こぼれ落ち、頬に伝った。
「じゃあ、私は伝三郎さんのことを待っていて、いいのね?」
「待つ必要はねえ」
 かよが一瞬信じられないという顔をして目を見開いた。
「俺は……」
 伝三郎が頭をかきながら語り出した。
「親爺が相撲取りのせいか、小せえ頃から人一倍でっかかった。近所で遊んでいても、俺が周りのガキを泣かして、おっ母さんがいつも謝りに行っていたっけ。狭い村の中じゃ、俺はいつもはみ出し者だった。こんなに力が強かったら、侍に仕えた方がいいだろうと、池田家に養子になったんだ」
 ぽつりぽつりと言葉を探しながら、伝三郎は続けた。
「小栗の殿様はでっけえ人だった。この人なら日本を変えられる。この人の役に立ちたいと、剣も銃も極めた。でも、俺は隣村の者を何人も殺しちまった。殿を守るためだ。後悔はしてねえ。けど、この村で波風立てずに暮らすことはできねえ」
 暴徒が村を襲った時の噂は聞いた。銀十郎は、ならず者の親分だけを四人狙い撃ちしたことを小栗上野介に認められ、昇進して歩兵頭となった。
 伝三郎は、隣村の村人を五人殺していた。村での暮らしが短い伝三郎には、よそから来たならず者と、脅されて従った隣村の村人の区別がつかなかったのだろう。
 けれど、殺さなくていいだろうと、伝三郎を責める風潮があることは確かだった。
「別にここでなくてもいい、江戸でもどこでも、一緒に暮らすことはできるでしょう」
「あんたみたいなお嬢さんは、ここ以外の暮らしは無理だよ」
 伝三郎がかよを見つめた。見上げるかよの潤んだ瞳に、幼い面影はどこにもなかった。
「すまねえ。あんたを幸せにしてやれねえ。だから、俺のことは忘れてくれ」
 そう言った伝三郎の声が少しだけ震えた。
 かよの目から大粒の涙が溢れ出す。それを見て、伝三郎が痛そうに顔を逸らした。
「お節介だな。……何も言わずに別れた方がよかったんじゃねえのか」
 いつからいたのか。さいの後ろに仏頂面の銀十郎が立っていた。
「いいのよ。待っていていいかわからずにいるよりも、ちゃんと気持ちを伝え合えた方が、後悔はきっと少ないわ」
 目を逸らして告げると、銀十郎はチッと舌をならした。
「……全く、女ってのは残酷だな」
 一瞬、意味を問うかと迷っている時だった。
「……た、……大変だ!」
 山側から駆け降りてくる足音。裏門がふらりと開き、倒れ込んで来たのは光五郎だった。
「銀ちゃん。兼五郎さんに……伝えてくれ。……今すぐ、みんなを連れて出発するように」
「わかった。それで、殿は……?」
 汗だくで息を切らしたまま、光五郎は首を横に振った。
「敵が奥方様達を探している。村中の家々を回って……。そのうちここにも来る」
 銀十郎と伝三郎が母屋の方に走り出した。
 奥方達の準備をしなければと走り出したさいは、後ろ髪をひかれる思いで振り返った。目が合ったかよは、唇を噛み締め、それでも気丈に笑った。
 
                   ◆
 
 草刈籠に奥方を隠し入れ、男達が交代で背負い、母堂とよきをさいが支え、歩兵達に守られながら徒歩で山道を急いだ。
 危険が迫っている中、ここに留まるべきか、それとも萩生村から大戸村へ逃れるか。街道を進むか、山道を分け入るか、三左衛門からすべてを託された兼五郎が情報を収集する。
「三左衛門は、まだ戻らぬのか」
 村境の山の中で不安そうに、声をかけたのは母堂だった。
「まだですが、萩生村の名主一場善太郎は、信頼のおける者にございます。今つかいをやって安全を見定めた後は、そちらで匿ってもらう手配になっております。三左衛門殿も、そこで落合えるかと」
「助かります。……風が出てきましたね」
 母堂が周囲の笹が揺れるのを見渡した。春とはいえ、日差しのない山の中は冷え冷えとしている。さいは、荷物の中から厚めの布を取り出して、奥方にかけた。
「ありがとう」
「奥方様のお着物を一つ、お借りしてもよろしいでしょうか」
「かまいませんが……」
 さいは華やかな臙脂色の小袖を一つ取り出し小脇に抱えた。よきが、不安そうな顔をして、さいを見上げた。
「これ、上州名物のおやきです。何か食べた方が、体が温まります」
 さいは、かよからもらったおやきを配った。
 銃を手に、厳つい顔をした歩兵達にも配ると、みな懐かしそうな顔をする。
 富五郎が、少し離れた場所で、鉄砲を持ち怪しい動きがないか見張っている様だった。農作業で鍛えた太い腕。意志の強そうな眉。周囲を見渡す鋭い目が鳥の飛び立つ音にさえも神経をとがらせている。どこか思いつめている様子にも見えた。
「富五郎さん。これ、食べて」
 さいは、富五郎に近寄り声をかけた。
「悪いな」
 おやきを手に取り、富五郎はさいの顔を見て微かに表情を和らげた。
「あんたも大変だなあ。村に再び帰れるか、わかんねえっていうのに……」
「帰りますよ。絶対に……。私は、約束したんです。奥方様に無事お子様を産んでいただいて、必ず帰って来るって」
 さいは、考えるより先に口にしていた。
 自信はない。けれど、言葉には力がある。そう思わなければ、村を離れる勇気など持てない。
「……そっかあ。おれは、二度と村には戻れねえと思っていた。正直、江戸に行っていた連中とは違って、お殿様への忠義もそれほどねえ」
 富五郎は長男で、江戸へは行っていない。暴徒が村に押し寄せた際、隣の村人を撃った。敵の仲間だったのだから仕方ないけれど、顔見知りを撃ったことを責める者もいる。
 村に居づらいだろうと三左衛門が声をかけて、富五郎は仲間に加わったのだった。
「だから、俺はあんたを守ることに、命をかけることにするぜ」
「え?」
「他の奴らが奥方様達を守ればいい。俺は、あんたを守ることに決めた。鬼の銀十郎の顔をひっぱたいたのは傑作だったぜ」
 くるりくるりと猫じゃらしを回しながら、富五郎は思い出したのか、くくくっと喉を鳴らした。
「もう! ふざけたこと言って! 守っていただかなくて、結構です」
 さいはわざと怒った顔をして、富五郎に背を向ける。後ろから、気持ちのいい笑い声が聞こえていた。

⑤第1章「斬首④」


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