小栗の椿 会津の雪⑤
第1章 斬首④
少し坂を下った先で、木に登って街道の様子を見張っている伝三郎の姿が見えた。さいは藪をかき分けた。
木の根元に寄りかかって座り込み、光五郎が目を瞑って息を整えている。側に銃を手にした銀十郎がいた。
「みんな、おやき食べる?」
「今は、顔を見せない方がいいんじゃねえか?」
声をかけると、銀十郎が木の上を気にした素振りを見せた。
「下手な気を使うんじゃねえ」
不機嫌そうな伝三郎の声が上から降ってくる。
「ありがてえ。朝から何も食ってねえんだ」
光五郎がそう言って、おやきにかぶりつく。
「何か見えそう?」
「街道沿いは、押さえられているな」
さいが尋ねると、木の上から伝三郎の声が聞こえる。
「あいつら……。信じられねえ」
光五郎の声が珍しく怒っている。見ると、食べかけのおやきを持つ手が震えていた。
「敵の大将が若いヤツでさ、先鋒隊副巡察使の原って男だ。おれらと年も変わらない」
「大将が、そんな若造なのか」
「『最期に言い残すことはあるか』って偉そうに踏ん反り返って聞いたんだ。小栗様は最後までご立派で、『何もない。ただ、残された母と妻と娘には、寛容な処置を望む』ってそれだけ言ったんだ。あいつ、『わかった』って言ったくせに、処刑が終わった途端、『家族を捕らえろ。逆らえば殺せ。匿う村人も同様だ』って……」
「くそっ!」
銀十郎が拳を握りしめた。
「さいちゃんの家だって、誰もいないのをいいことに、家財道具も持ち出されて。縁の者をかくまっているんじゃないかとか、金を隠しているんじゃないかとか言って、米櫃や味噌壺の中までぶちまけて探していたんだ」
「何ですって……」
話を聞きながら、胸が掻きむしられる思いだった。
大丈夫と、自分に言い聞かす。夫が、母や弟達を連れて逃げてくれているはずだ。父はこうなることをわかっていたのだろうか。夫がいなければ、父も今回の旅立ちを決心できなかっただろう。
「殿は……。切腹させられたのか。罪状は何だ。取り調べはあっての上だったんだろうな」
感情を押し殺したで、銀十郎は尋ねた。
「いや。取り調べは一切なかったんだ。磯十郎さんが、『取り調べもなく首を切るとは、こちらに非がないとの証だ』って言っていた」
「……切腹でさえなかったのか」
「打ち首だ」
その言葉を聞いた銀十郎が、拳を太い幹に叩きつけた。
「目を瞑ると、瞼の裏に焼き付いて離れないんだ。首を斬られた小栗様が、四角い穴にゆっくり落ちていって、足の裏の足袋の白さだけが、ずっと……」
光五郎の震えた手が、目の上を覆った。
「俺は、意気地なしで役立たずだ。……悔しいのに、怒っているのに、結局何もできねえで、見ていることしか……」
「光五郎」
銀十郎が、光五郎の肩に手を置いた。
「辛い思いをさせたな。おまえほど速く走れる男もいねえし、村の抜け道を知り尽くしているやつもいねえ。おかげでいち早く逃れる準備ができた」
銀十郎がそう言って光五郎を労った。
「しっ!」
伝三郎が何かを見つけて、息を吐いた。
「どうした?」
銀十郎が、素早く隣の木に登った。
「敵兵だ。……三人か。奥方様達のいる方向に向かっているぞ」
「銀、どうする?」
「ここからじゃ撃つには遠すぎる。それに下手に発砲すると、他の兵にも気付かれる」
男達がどうするか、思案を巡らせる。
さいはごくりと唾を飲み込み、荷物を光五郎に押し付けた。
「光ちゃん、悪いけど、これ持っていて」
「あ、ああ」
「私が注意を惹きつけるうちに、萩生村まで逃げるように言って」
そう言った途端、さいは『きゃあああ』と叫び声をあげて山道を走り出した。バタバタと驚いた鳥が一斉に羽ばたく。
「女の声だ!」
「どこだ」
叫び声に気が付いた兵が、藪をかき分ける音が聞こえた気がした。
「いたぞ。女だ」
「こっちに、逃げたぞ」
後方から追手の声。夢中で走るさいの足元で、乾いた枝がぽきりと折れる。獣道を逃れるのは容易ではない。このままでは、捕まってしまう。
「いたぞ。二人だ。捕まえろ」
振り返ると、もう一人走っている姿が見えた。打掛を頭からかぶり顔を隠している姿は、女の様だが、光五郎に違いない。脇道を下って行くのを見たさいは、別の方向に逃げた。
追手も二手に別れた。足の早い光五郎の方に二人。どこにでもいる村娘風の女の方には、男が一人追ってくる。
「待たれよ!」
男がさいに向かって叫ぶ。上り坂を走って逃げ続けたさいだったが、疲れと恐怖で足がもつれ、終には転んで手を着いた。冷たい湿った土と草の匂い。
肩で息をしながら、袖で顔を隠す。
「小栗上野介様の縁の方であるか」
遠慮がちに、男が声をかけた。荒々しい兵とは思えない静かな声だった。
「……」
「この様な山奥に逃げ込むというのは、無関係ではあるまい」
何も答えられないでいるさいに男は言った。
「拙者、吉井藩士小林省吾と申します。小栗様の作ろうとした横須賀の製鉄所を見たことがあります。あまりの規模に度肝を抜かれました」
袖で顔を覆っていたさいが、目だけで小林と名乗った吉井藩士を見た。若い男だった。
「この度の斬首のことは、お気の毒で言葉もありません。しかし、小栗様は最後までご家族のことを案じておりました。せめて……」
小林は何かを取り出そうとして、軍服の胸に手を入れる。
少し離れた藪の影に銀十郎の姿が見えた。銃口をこっちに向けている。
「少しですが、路銀の足しにして下さい」
手にしたのは小さな巾着袋だった。
信じられない思いに、さいは若い男の顔を見つめた。細く優しい目をした男だった。罪のない人間を捕らえて、無残に首を斬る者の仲間とは思えない。
「奥方様はご懐妊と聞きました。どうか、他の者に見つかる前に」
巾着を押し付けて、男はさいの耳元に囁いた。それから、背を向けて走り去った。
さいは、茫然と男の背中を見送った。
「どうした。腰が抜けたか」
銃を下した銀十郎が、さいに近寄った。助かったのだと思った瞬間、手ががくがくと震える。凍り付いた心臓が激しく鳴り響く。
「……あの人達は一体何がしたいの」
巾着袋の重みを感じながら、さいのつぶやく声が掠れた。
小栗や磯十郎達家来を殺したのではないのか。家に押し入り、勝手な狼藉を働いているのではないのか。
「上州の諸藩は、薩摩や長州に仕方なく従っている。藩の考えは絶対だが、一人一人に意志も考えもあるだろうよ」
「だって、こんなことされたら、……憎めなくなる」
さいが唇を噛み締めた。巾着袋を握りしめる。
「全く、相変わらずじゃじゃ馬だな。殺されていても文句は言えないところだったぞ」
冷たい口調で、銀十郎は言い放った。
「そうね。でも、銀ちゃんの前じゃ死なないんじゃないかって、勝手に思っていたの」
さいはよろよろと立ち上がり、着物に付いた砂や枯葉を払った。
「すごい銃の腕前なんですって? 歩兵頭に出世したって聞いたわ」
噂を聞いた時、自分の知っている銀十郎だとは思われなかった。やんちゃで口は悪く意地悪だった幼なじみが、銃でためらいもなく人を殺める『鬼の銀十郎』と称される人と、どうしても重ならなかった。
「たった二年なのに、人って変わるものね」
並んで見上げる目の位置が高い。背が高くなり、肩幅も広くなった。くしゃっと人懐こい笑顔が消え、兵の表情になっている。
銀十郎が目を逸らし、舌を鳴らした。
「見つかる前に萩生村に行くぞ。どうしても一緒に行くなら勝手についてこい」
そっけなく背を向けて、銀十郎は辺りを探りながら山道を登っていく。
全速力で走った後に、坂を上り返すのは辛い。はあはあと荒い息が白く漂う。
時折、銀十郎が振り返り、何か言いたげな視線を送ってきた。
足手まといにならないと啖呵を切ったのは自分なのだ。その視線を無視して、さいは懸命に足を動かした。
萩生村の名主一場家が見えてきた時には、心からほっとした。門の陰で伝三郎が心配そうに立っていた。
「無事だったか!」
「奥方様は?」
「三人とも無事だ。あんたの咄嗟の判断で助かったぜ」
「よかった……」
伝三郎の言葉を聞き、さいはほっとした。強張っていた身体の力が抜ける。
「まあ、銀十郎がすげえ剣幕で後を追いかけたから、あんじゃあねえと思ったけどよ」
伝三郎がニヤリと笑う。銀十郎が目を逸らし、チッと舌打ちした。
「光ちゃんは?」
「……一緒じゃないのか?」
さいが尋ねると、伝三郎の表情が曇った。
「おおい!」
叫んだ声の方向に、手を振って走って来る男の姿が見えた。
「光ちゃん!」
さいはホッとして、光五郎に駆け寄る。思わず光五郎に抱きついた。光五郎は、さいの重みを支えきれずにへなへなと腰がくだける。
「ああ、……疲れた。今日は走りすぎだ」
さいの腕の中で息を切らした光五郎が、力なくつぶやいた。
「大勢で外にいたら目立つ。早く中に入るぞ」
銀十郎が、光五郎に肩を貸す。さいも反対側に回って身体を支えた。
「着物、無くした。……奥方様のだろう?」
「大丈夫だよ。よく無事だったね」
吉井藩士は三人いた。さいの方に一人だけ、残り二人は、奥方様の上等な着物につられて光五郎を追いかけた。
「崖から、……石と着物だけ投げたんだ。あいつら、川沿いを探しているはずだ……」
「案外役に立つんだな。見直したぜ」
伝三郎が分厚い手で光五郎の背を叩いた。
「俺は須賀尾に行って駕籠を呼んでくる。出発は暗くなってからだ。それまで休んでおけ」
伝三郎はそう言い残して、厩の方へ走って行った。
◆
萩生村名主一場家で炊き出しをしてもらい、休憩をとっている間に、三左衛門が合流した。
夫の最期を聞いても奥方は、取り乱すことはなかった。三左衛門の言葉に表情を変えることなく耐え、母堂は暫くの間眉間を震わせ唇を噛み締めた。
よきは黙ったまま不安そうに目を伏せた。許嫁の又一の安否はわからないままだ。
死を悼む猶予もなく、身には危険が迫っている。それぞれの胸の内を見せる暇もなく、悲しみと不安に耐えた。
一行は、伝三郎が取り寄せた駕籠に三人を乗せ、交代で担ぎながら、一場家を後にした。
月のない夜だった。
漆黒の中足元の悪い裏街道を歩く。一歩を踏み出す闇の深さにも、迫りくる無言の敵にも恐怖を感じながら、さいは懸命に足を動かした。
わずかな提灯の明かりを頼りに、暗闇の中に足音と息をする気配だけが響く。今どの辺りを歩いているのか、さいには見当もつかない。
よきの駕籠のすぐ脇を歩いていたはずなのに、気付けば列の後方になっている。前を歩いているのが誰かもわからなかった。
速足で追いつこうとした時だった。足元の小さな石に躓いた。思わず「あっ」と小さな声をあげてよろめくところを、前を歩いていた男に支えられた。
「失礼を……」
差し出された腕に他人行儀に礼を言って、手を引っ込めようとした。
だから、女なんか連れて来ても邪魔なだけなんだと、うんざりした声が返ってくるかと思った。
手を差し伸べた男は、予想に反し何も言わず、さいの手を取った。そのまま導く様に歩いて行く。
「……!」
暗闇で突然握られた手を、さいは咄嗟に振り払おうとした。けれど、男の手はびくともしない。しっかりと手を握ったまま、何事もなかったかの様に歩いて行く。
心臓が早鐘の様に鳴り響いた。
「……」
この手の温かさを知っている。ずっと前に、こんな風に手を引かれて歩いたことかある。
もう何年も前のことだ。山に栗拾いに行くという光五郎と銀十郎に、我儘を言ってさいとかよも付いて行ったことがあった。
銀十郎は、『遠くの山まで行くんだし、お前らじゃあ付いてこれねえよ』と、迷惑そうな顔をした。『せっかく手伝ってあげるって言っているのに』と、さいは文句を言った。
銀十郎も光五郎も、ただ遊んでいればいい年頃ではなくなっていた。その日はさいも手習いがなく、久しぶりに銀十郎と一緒にいたいだけだった。
争いごとの嫌いな光五郎が間に入って、さいとかよは二人に付いて森に入った。行きは楽しかった。小さな山を越えた先に栗林が広がる。連れて来て良かったと思われる様に、さいは夢中で栗を拾った。
その帰り道、最初に根を上げたのは、かよだった。上り坂の続く山道で、『もう歩けない』と泣き出した。優しい光五郎は、『しょうがねえなあ』と顔をしかめながらも籠を前側に回して、小柄なかよを背負った。
さいも疲れていた。足は痛かったし、夕方になって木々の鬱蒼と茂った森は心細かった。
銀十郎が振り向いた。無言で『どうする?』と問う。
さいは首を振った。無理やりついてきたのは自分だ。それに銀十郎に背負ってもらうのが無性に恥ずかしかった。
銀十郎の背中を、さいは唇を噛み締めて追いかけた。
暫くして銀十郎は再び振り返った。息が切れて限界だった。薄暗くなって、背中を追うこともできなくなると思うと涙がにじんでいる。
さいが追い付くまで待っていた銀十郎は、黙ったまま手を差し出した。素直に手を取られて歩くと、周りが見えない不安も、疲れも、ほんの少し和らぐ。
『……ごめん』
『おまえなあ……』
小さくつぶやくと、怒った様な声が続いた。
『もっと、早く弱音を吐けよ。馬鹿』
突き放した様な言い方だった。けれど、ちょっとだけ振り返った横顔は、少しも怒っていなかった。
全身の血が騒いで、胸の鼓動が大きくなる。真っ赤に染まる頬を見られたくなくて、さいは頷く振りをして俯いた。
銀十郎の手は、温かくて力強かった。手を引いて貰えるだけで、今まで薄気味悪かった森の木々の葉音も、落ち葉を撫ぜる風も何でもないことの様に思えてきた。
その時と同じ、温かくて力強い手だ。まだ子供だった頃の温もりを思い出して、胸が締め付けられた。
風が草木を揺らす音。土塊の上を歩く足音。時折犬の遠吠えに神経を尖らせる吐息。敵に見つかれば、匿った者も同様に殺される緊張の中、力強い掌に勇気づけられて、さいは夢中で足を前に出す。
かの侠客国定忠治も通った大戸の関所破りの抜け道を進み、吉岡神社の前から草津街道に合流する。本宿村関谷に入ると、一行の列が止まった。
伝三郎の養父母の家とは、親戚筋にあたる高橋家。かよの母の生家でもあった。開け放たれた戸から灯りが漏れている。
何も言わずに握られていた手がすっと離れた。
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