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小栗の椿 会津の雪③

第一章 斬首②
 
 翌朝、高崎藩に再び動きがあった。
 夜のうちに小栗上野介とその家族は、十数人の歩兵と、数人の村人に守られ、街道から奥まったかよの実家の池田家に向かった。幼い子供を抱える塚本真彦の妻は、七日市の縁者を頼ることになり、そこで別れた。
 夕方、小栗一行は、村はずれの大井磯十郎の実家へ移った。
 夜も更けて、就寝の準備が整った頃、荒々しい馬の蹄の音が響いた。外を気にした奥方の美しい横顔が、行燈の頼りない灯りに白く映る。
「お、お殿様。一大事にございます」
 戸口を叩く声の主を、さいは一瞬で悟った。夫の兄でもある名主佐藤藤七だった。
 怯える様な視線にこくりと頷き返し、さいは立ち上がり襖を開けた。
「どうしやした」
 慌てて土間に転がり込んできた藤七に、三左衛門が尋ねた。
「お殿様は、いずこにいらっしゃいますか。大変でございます。一大事にございます!」
「藤七、一体どうしたのだ」
 小栗上野介が板間に立ち、藤七を見下ろす。
「どうか東善寺へお戻り下さい! そうでないと、あいつら、村に火を点けると……。どうか、お戻りを!」
 藤七は、土間に手を突き、頭を下げた。
 門の前で見張り番をしていたらしい銀十郎が、大柄な伝三郎と一緒に、開け放たれた戸の前に立っていた。
「詳しい話は奥で聞く。藤七と三左衛門は入れ。あとの者は、ここで待つ様に」
 表情を少しも変えることなく、小栗は静かに言った。藤七が、汚れた膝を気にすることもなく、草鞋を脱ぎ板間に上がる。
「さい、ここにいて、誰も通さぬように」
 三左衛門が耳打ちする。
「はい」
 こくりと頷く。脱ぎ散らかされた草鞋を揃え、さいは三人が入った部屋を背にして正座した。
 親子以上に年の離れた義兄の取り乱した姿を見たのは初めてだった。いつもは冷静沈着な義兄の、白髪の混ざる鬢がほつれ、青ざめた横顔。不安の波が広がっていく。
「何が起こったのだ? 殿は?」
 別棟にいた磯十郎が、十数人の男達を引き連れて表玄関から入ってきた。
「中です。藤七様とお父っあんと一緒です。誰も中に入れるな、と」
「何?」
「お殿様の、御意思です」
 さいは、厳つい顔で眉を吊り上げた男達に向って言い放った。
 元は権田村の出身の歩兵達の中には、ちらほらと見たことのある男も混じっていた。しかし、散切り頭に黒い軍服姿の男達は、物々しい雰囲気で、苛々した表情を隠そうともしない。
 開け放たれた戸口の側に立つ銀十郎が、隣にいた伝三郎に何か言った。一瞬目が合ったかと思ったが、すぐに外の様子を窺う。
 さいは、敢えて銀十郎から視線を外し、まっすぐに囲炉裏の炎を睨みつけた。男達が、さいを睨んでいる。正確には、さいが背にしている襖の向こうを凝視しているのかもしれない。
 背後に耳を澄ましても、三人の声は聞き取れなかった。
長く続く沈黙の中、囲炉裏の火がぱちりと小さな音を立てた。
 足音が背後から聞こえた。さいが振り返るのと、襖が音もなく開いたのはほぼ同時だった。
「殿!」
 男達が口々に呼んだ。そこに立っていたのは、小栗上野介本人だった。
「みな、静かに」
 心配する男達に向かって、小栗は言った。一言で、波打つ様に静かになった。
「既に解決した。わしは一旦東善寺に帰る」
「殿、それなら我らも……」
「いや。母や妻達は、このまま会津へ向かわせる。よいな」
 小栗が振り返り、幾分か和やかな声で言った。
「はい。ゆるゆると楽しみながら、参ります」
視線の先にいる奥方が、微笑みながら答えた。
「うむ。母上、道中お気をつけて。よきも、母達の言うことを聞くのだぞ」
 身重の奥方に寄り添うように立つ母堂も、幼さの残る頬に、不安げな顔を隠そうとしないよきも、気丈に頷いた。
 小栗が奥方に近付き、膨らみがわかる腹に手を添えた。
「歩兵のみなには、妻達を守って欲しい。より安全な地で我が子を抱きたいのだ。後から参るゆえ、家族のことを頼む」
「しかし……」
 突然のことに、みな呆気に取られている。
「殿直々の頼みだ。抜かりなくお勤めを果たそうぞ」
 三左衛門がそう声を張り上げた。男達は戸惑いつつも頷く。
「三左衛門、後の事、よろしく頼む」
「命に代えましても」
 三左衛門が畏まって頭を下げた。その顔には、新たな決心が刻まれている。
「これからは三左衛門の指示に従う様に。銀十郎」
「はっ!」
 小栗が声をかけると、銀十郎が一歩前に出た。
「歩兵頭としてみなをまとめ、三左衛門の力になってくれ」
「しかし……」
 銀十郎の瞳が揺れた。このまま行かせていいのか、迷いが見え隠れする。
「よいな。銀十郎」
「はっ」
 再度念を押されて、銀十郎は頭を下げた。
「それでは、参る」
 藤七を先頭に、磯十郎ら家来三名のみ引きつれて、小栗は馬に乗った。
 奥方や母堂が笑顔で手を振って見送る。
 さいには、何が起こったのかわからなかった。先程の藤七の取り乱した様子と、小栗の落ち着き払った態度が上手く結びつかない。
「……馬鹿な。解決などするはずはないではないか!」
 伝三郎が戸板を叩く。
「伝」
 銀十郎が、宥める様に伝三郎の肩に手を置いた。
 慶応四年閏四月四日、西軍から狙われ村はずれに逃れていた小栗上野介は、名主の藤七に連れられ、仮宿にしていた東善寺に戻った。
 提灯の頼りない光と共に闇に消えていく後ろ姿。それが、さいが見た小栗上野介の最後の姿だった。
 
                   ◆
 
 長く重苦しい夜がふける。
 不安に何度も寝返りをうつ気配と、時折鼻を啜る音を暗闇に聞きながら、さいはまんじりともしない夜を過ごした。
 気が付けば、固く乳が張っていた。
 用人の塚本真彦の子供達と別れてから、母乳を与えることなく一日以上が過ぎていた。乳母として奥方に仕えるには、止まらないようにしなければならない。
 さいは、そっと奥方達が横になっている部屋を後にした。
 縁側から、ほのかに灯りの灯る囲炉裏端に来ると、ひそひそと話す男の声がした。
 囲炉裏端にいたのは、三左衛門と、数人の村人だった。磯十郎の兄でこの家の家主の兼五郎、三左衛門と懇意にしている房吉、そして、光五郎だった。
「どうかしたのか?」
 三左衛門がさいに気が付いて尋ねた。
「いえ。ちょっと、眠れなくて……」
「奥方様の様子はどうだ」
「落ち着いていらっしゃいますが、眠れてはいない様です」
「まあ、仕方ないな……」
 三左衛門が溜息を吐く。
 小栗上野介が東善寺に帰ってどうなったのか。誰もが気になって、心配で眠れない夜を過ごしているのだ。
「光五郎。悪いが、東善寺を見張ってくれるか。動きがあれば、すぐに知らせてくれ」
「へえ」
 三左衛門の言葉に、光五郎が心細げに頷く。
「光ちゃん、大丈夫?」
「なあに、見てくるだけだ。おれの逃げ足の速いのは知っているだろう」
 さいが声をかけると、光五郎が青白く映る顔を引きつらせて笑った。強がっているのがよくわかる。
「そうね。逃げ足だけは、天下一品よね」
 銀十郎の様な力はないし、喧嘩も強くない。けれど、足の速さは、近所では並ぶ者はなかった。
「『だけ』は、余分だよ」
 光五郎が目尻を下げる。
「じゃあ、三左衛門様。行ってきやす」
 光五郎が戸口から出て行く。月のない夜に、その背はすぐに闇に消えた。
「小栗様は、すぐにでも旅立つよう言われたが、小栗様の安否がわからぬままでは気が引ける。わしは確かめに行くつもりだ。兼五郎は、わしが万が一戻らない場合には、先に奥方を連れて逃げてほしい」
「わかりました」
 三左衛門の言葉に、兼五郎は頷く。
「三左衛門様だけでは心配です。誰か供をつけた方がいい」
「それなら、房吉、行ってくれるか」
 兼五郎が提案すると、三左衛門は隣に座る房吉に声をかけた。房吉は、三左衛門の商いを手伝う二の腕とも呼べる男だ。
「へえ」
「兼五郎、すまぬな」
 三左衛門が短く労うと、兼五郎は頭を振った。兼五郎の弟磯十郎は、小栗と共に東善寺に帰って行った。安否を知りたい気持ちは誰よりも強いはずだ。
 しかし、家柄や年齢から見ても、三左衛門の次に指揮をとれるのは、兼五郎以外考えられない。
「そうすれば、少し休むとするか。明日は、長い一日になるかもしれん」
 三左衛門に促され、兼五郎と房吉は頷き合い部屋に入って行った。
 その後、三左衛門はさいに向き合った。父親の顔になっている。
「光五郎に、文を託した。東善寺に行く前に、家に届けてもらうつもりだ」
 父はこのまま、夫や母や妹弟と別れるつもりなのか。こくりと、さいは頷いた。
「わしは、ご家族を会津に連れて行くよう、殿直々に頼まれた。なんとしてもやり遂げなければと思っている。さい、おまえは……」
「私も、行きます」
 父の言葉を遮って、さいは言った。
「旅の途中、お世話をする女手が必要です。身重の辛さやお産の不安も、私ならわかってさしあげられます。それに、お子様が生まれたら乳母になることもできます」
「下手をすれば、命を狙われるかもしれぬのだぞ」
「かまいません。私なら、奥方様の身代わりになることもできます。私が囮になっているうちに、奥方様を遠くに逃すことも可能でしょう」
「さい。……よく言った」
 三左衛門が、さいの肩を両手で掴んだ。
「婿殿には、謝っておいた。さっきの文でな」
「……お父っあん」
「おまえが家に帰りたいと言えば、帰すつもりだったのだが……。女手があれば助かるのも事実だからな……」
 三左衛門が視線を逸らした。父という立場と、ご家族を任された役目の重圧とで、揺れ動いていたのだろう。
「私も行きます。お腹のお子様を守ると、決めたのです」
「そうか」
 さいが再び決意を口にすると、三左衛門は大きく溜息を吐いた。
 
                   ◆
 
 長かった夜は、それでもゆっくりと空を白く染めた。山が朝靄に煙っている。さいが井戸を借りようと母屋の裏へ回ると、男達の話し声が聞こえた。
「殿が連れて行かれたか……」
 そうつぶやいて、苦渋の表情を浮かべたのは、三左衛門だった。
「へえ。すげえ数の兵が、東善寺を取り囲んでいて、小栗様と磯十郎さん達も、引き立てられて行きやした」
 光五郎は、息を切らしたままそう報告した。
「抵抗はしなかったのか」
「大人しく従っておられて、何の混乱もなく……。取り囲んだ兵が、拍子抜けするくらいで」
 問いに答えた光五郎に、兼五郎の眉が吊り上がる。
「房吉。わしらも行くぞ」
「へえ」
「光五郎も、もうひとっ走りできるか」
「……何とか」
 疲れた表情の光五郎に、さいは井戸から柄杓を借りて水を汲んだ。
「光ちゃん。お水」
「ああ。ありがてえ」
 光五郎は、ごくごくと喉を鳴らして、水を飲み干した。
「兼五郎。それでは、後のことは頼むぞ」
「へえ」
 三左衛門が、兼五郎に一声をかけて、裏門から出ようとした時だった。
「ちょっと待ってくだせえ」
 大柄な男が、三左衛門前に立ちはだかった。かよの許嫁、伝三郎だ。
「おれも、連れて行ってくれ」
「おれも、行きてえ」
「おれも殿を助けに行く」
 洋装の軍服姿の若者が二人後に続いた。背は低いが力は強い源忠は、忠義に篤いと評判だし、整った顔立ちの龍作は、結婚したばかりだというのに、小栗の一大事に真っ先に駆け付けた。
 その後ろにも、数人の男達が神妙な顔をして控える。それぞれに銃を手にしている。戦場に赴く様な物々しさだった。
「みなの気持ちはわかるが、それはならぬ!」
 三左衛門が低く言い放った。
「何だって。どうして、こんな役に立たねえやつを連れて行って、おれらは駄目なんだ」
「そうだ。こいつじゃ、いざっていう時に殿をお守りできねえ」
「おまえらには、おまえらの役目があるだろう。奥方様を守ってくれっていう殿のお言葉を忘れたんじゃあんめえ」
 荒ぶる口調の若い男達を抑えようと、兼五郎が宥める。
「それにしたって……」
 軍服を着た若者は、銃の他に刀を携帯している。丸腰のいかにも頼りになさそうな光五郎を、男達は舐める様に見回した。
「おまえ達は、奥方を守って会津に向かうことを最優先にしてもらいたい。殿の御意思だ。逆らうことは許さん。よいな」
 三左衛門が怯むことなく、睨みつけた。そのまま、房吉を伴って裏口から出て行った。
「光五郎」
 追いかけようとする光五郎を、銀十郎が止めた。
「おまえは、誰よりも足が速ええ。偵察にはもってこいのヤツだってことは、おれが保証する」
「銀ちゃん」
 幼なじみの言葉に、光五郎がほっとした顔をした。
「でも、偵察が終わったら、そのまま家に帰れ」
「え?」 
「剣も銃も使えなくて、護衛が務まると思っているのか。気楽な旅に出かけるわけじゃないんだぞ。足手まといにならんように、これが終わったら家に帰れ!」
 聞き返した光五郎に、銀十郎は怒った声でそう言った。
「それから、あんたもだ」
 銀十郎がさいに視線を向けた。
「俺達は殿のご家族をお守りするだけで精一杯だ。女がこれ以上増えても足手まといなんだよ」
 江戸からやって来た銀十郎の仲間が、冷たい視線を光五郎とさいに向け、頷き合う。
「そうだ。これ以上人数が増えたって、役に立たないんじゃ邪魔なだけだ」
 まだ頬に幼さの残る少年が、調子にのって言った。
「卯吉は、黙っていろ」
「……」
 銀十郎が一瞥すると、卯吉と呼ばれた少年は面白くなさそうな顔をして口を噤む。
 何事かと男達が集まってくる。かよの兄の民吉をはじめとした三左衛門と懇意にし、協力してくれる村人達が、明らかに心配そうな顔をして様子を窺う。兼五郎がやれやれという顔をして、口を開こうとする。
 さいは、銀十郎に向かって一歩歩み寄った。
 正面で見つめ合う視線が高い。二年前と比べて背が伸びた。肩幅も広く、知らない男の人の様だった。
 目が合うと、銀十郎の瞳にほんの刹那戸惑いを含む。
 次の瞬間、さいは思いっきり銀十郎の頬に平手を喰らわした。 
「なつ!」
 パンという思いのほか高く響いた音に、目を見開いて驚いた声をあげたのは卯吉だった。
「誰が足手まといですって? あんた達みたいな無粋な男達が雁首揃えて集まっていたって、どなたか奥方様達の身の回りのお世話ができる? 生まれてくるお子様の乳母になれる方が、この中にいるの?」
 さいは、構わず啖呵を切った。
「私のことは、守ってくださらなくても結構! 自分の身は自分で守れます。役立たずの男衆は、ご家族に危害が加わらない様、せいぜいご立派にお働きください!」
 周りを取り囲んでいた男達がぽかりと口を開けて、さいを見ていた。
 すぐ近くにある銀十郎の表情は少しも変わらなかった。少し怒っている様にも、呆れている様にも見える。
「ぷっ!」
 光五郎が吹き出した。『あはははは』と気持ちのいいほど大声で笑っているのは、村の若者、富五郎らしかった。
「さすが、三左衛門様の娘さんは、肝っ玉が据わっているなあ」
 兼五郎が感心した口調でつぶやき、それを聞いた他の若い歩兵達も苦笑している。
「な、な、なんてことを……。おまえ、女の分際で銀十郎さんに向かって……」
 一人真っ赤な顔をして怒りでわなわなと震えているのは、卯吉だった。
「……少しはしおらしくなったかと思えば、……相変わらずだな」
 銀十郎は、さいの耳元でつぶやいた。
「俺は知らんからな。勝手にしろ」
 周りに聞こえるように声をはりあげ、銀十郎はくるりと背を向けた。そのまま母屋へと向かう。卯吉が面白くなさそうな顔でさいを見て、銀十郎の後に続く。
 銀十郎が、光五郎に向かって小声で何か言っていた。光五郎はにっと笑って頷き、裏門から出て行った。


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