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私にとっての美しい人

10年前と今と


「××高校出てるの!?すごいね。」

私がよく言われる言葉である。全国的に見れば別にすごい高校ではない。何なら今は中高一貫校が地元にあるからなおさら特別すごいわけでもない。それでも、まぁ進学校である××高校の名を出すと地元の人は「ほぉ」と言ってくれる。

しかし、悲しいことだ。その高校を出ているけれど、今の私はしがないパート…おまけに精神疾患のせいで障害者雇用枠である。それをダメとは言わないけれど私としては情けない。××高校を出ていたって今の私は別に何もすごくはない。過去の私が偉いのだ。

とはいえ、今の私は10年前の私に誇れる部分もある。少なくとも精神的には大きく成長した。
昔の私は世界の全てを斜に構えて見ていた節がある。ポルノグラフィティの曲で「今宵、月が見えずとも」というのがあるのだけれど、その歌詞みたいな感じだ。

「太宰を手に屋上にあがり、この世などはと憂いてみせる」

ポルノグラフィティに罪は無いが、これに自分を重ねると小っ恥ずかしい。お前(私)なんかに太宰の何が分かるんだ。今の私でも太宰の奥深さなんぞちっとも分かってないぞ。

話がずれた。
取り敢えず、昔の私は認知の歪みが酷かったのだ。というか、認知の歪みという言葉を保健室前のポスターで見て何となく自覚があると思いつつも、じゃあどうすりゃその歪みが取れるんだよ!?と内心ブチギレていた(ひどい)
いや、ネットとかで調べろよと今なら思うのだけれど常に病んでた私はその発想に至らなかった。「病み期って何だよ、じゃあ、常に病んでる私は何なんだ!?」とか言ってたからなぁ。
あと酷く自罰的だったから「認知の歪みを直す」=「他者に責任を向ける」と勘違いしてた節もある。もうおバカ以外のなにものでもない。

そう、進学校に行ってたってそういう面では当時の私は馬鹿でしかなかった。でもその時の私と比べたら、今の私は多少は世界に適応できるようになっている。耐えられない苦痛は試練ではなく災難だからと逃げられるようにもなった。全て自分のせいとも思わなくなった。しかし人に全てを押し付けず、自分の非と相手の非をバランスよく捉えられるようにもなってきた。この点が、今の私が10年前の私に誇れる部分だ。そして今の私は三角関数とかは忘れてしまったけれど、好きなジャンルの学問を学ぶこともゆるくではあるが続けている。偉いじゃないか。

私の思う美しい人

話は最初に戻る。私の出身校を聞いて「俺なんかさぁ…」と何故か卑屈になる人がいる。「勉強なんかできたってwww」と嘲笑されるのはムカつくので論外だが、卑屈になられるのもまた変な気分だ。私はたまたま「学校の勉強」が得意…というかそこを自分の大事な軸と捉えて、それこそが自分の大切な長所だと当時頑張っていただけであって、それだけで褒められても困ってしまう。そしてさっき言った通り、それだけでは今の私は何一つすごくない。願わくば、今の私をすごいと褒めてもらえるように成長しなければといつも思っている。だから本も読むし調べ物もするし学ぶべきと思うことは学ぶように努めている。

私の思う「美しい人」は、常に成長し続けようとする人だ。よほどの仲にならない限りは、私は現在のその人しか知らないのだ。今現在、より良いものを求めて、そして昔ながらのやり方に囚われ続けるのではなく常にアップデート、アップグレードをし続けている、常に研鑽を怠らない。そんな人こそが美しい人だ。

過去の栄光にすがり続けていたり、積み重ねがあるから今の価値観に合わなくてもこれが正しいなどと言って成長しようとしない人間は汚い人間だと思う。みっともない、身の程知らず、いい気なもんだ。

まぁ、汚い人間はどうでもいい。私は美しい人が好きだ。そういう人と一緒にいたい。

…だからこそ、私はあの人を「美しい人」だと思っているし敬愛しているのだ。願わくばこれから先も関わり続けたいのだけれど過ぎた願いだろうか。


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