神戸大学に1年間通って思ったこと
<きらきらした希望を抱いて入学した1年生の私が、大学で得た学びや感じた違和感>
みなさんこんにちは。今回はタイトルに書いているとおり、私が去年の春に大学に入学してから、学校やサークルの活動をしていく中で、これまで学んだこと、感じたことをまとめていこうと思います。皆さんにももちろん読んでいただきたいのですが、自分が1年間を通して考えた思考の記録のためにもこのnoteを書こうと思っています。
ちなみに写真は神戸大学のキャンパスですが、私が通っているのはこの綺麗な建物ではなく、もっと山の上にあるキャンパスです。最寄りの駅から30分山登りしなければならないので、大学に入り運動する機会が減った私にとっては良い運動になりました。
さて、通ったという表現をしましたが、前期は対面授業が全くなく、後期からようやく週2回程度行けたかなという具合です。全国の多くの大学と同様に、zoom等を使った遠隔授業を受けてきました。これについては、コロナが広がり始め休校が始まった時期から賛否両論がありましたよね。まずはその遠隔授業について感じたことを書いていきたいと思います。
大学での遠隔授業
私の通っていた神戸大学では、前述したとおりほとんどすべての授業がzoomによって開講されていました。学部が文系よりなので実験などの必修もなく、授業内容がオンラインでも代替可能であることが多かったのも要因の一つかもしれません。工学部ではかなりの頻度で対面授業があったと聞いています。各大学、学部によって対面の頻度が違うということがあるのでしょう。
まず授業が始まって驚いたのが、ほぼ全ての授業で生徒側の画面がoffだということです。本来ならば大学の教室で受けている授業を、パソコンを用いてオンラインで参加しているだけという認識でいたため、先生だけが顔出しをして一人で授業をしているのは異様であると私は感じました。学生側からすればたしかにわざわざ顔出しをするのは面倒ですし、人に顔をさらすというのがしんどいというのも理解できます。実際私自身もzoomの授業のためにメイクをしたりきちんとした服に着替えたりするのは面倒だと感じるようになりました。
しかし、誰の顔もない真っ暗な画面に向かって90分間話し続けなければならない話し手の心理を考えると、全員顔を出して受ける方がやはり良いのではないかと今でも思っています。
ブレイクアウトルームでのディスカッション時でさえ全員が黒い画面というのも、また異様な光景です。
BORに入り、全員画面オフ/ミュートの状態
私(画面オンにして)「お願いしま~す」
他メンバー(オフのまま)「・・・」
これ、なかなかのトラウマになりました笑。お互いがそれを恐れて顔出しできないという場面もあるのかもしれません。体感では後期からそれが少しずつ改善されたように思いましたが、未だに断固画面オフ勢が多数いる現状です。(*2022年度より対面授業が再会しています。2022.4.23追記)
希望者が履修できる英語上級クラスというのを受けていたのですが、1年間を通して授業時常に画面オンを求められたのはその英語のクラスだけでした。(そしてそれは体育以外で私が授業中に寝なかった唯一のクラスでもあります。)
さて、ここでその遠隔ならではの面白かったエピソードを一つ。zoomでの出欠確認はする先生としない先生といるのですが、授業の初めにその指示がなされるため、遅刻してzoomに入ると出欠確認をしなければならないのかどうか、分かりません。しかし大体の場合ぽつぽつと後から入ってきた学生が学番と名前を送っているため、後から入ってもそれで確認することができるのです。
授業開始時刻の少し前からzoomに入っていたある日の出来事、出欠確認を求めない先生だったため、時間になると授業が始まりました。すると、数分遅れて入ってきたある一人の生徒が、(おそらく)一か八かの勝負に出て学籍番号と名前をチャットに送ったのです。
必要ないと分かっている私は
あ、あの人遅れてきたから出席確認あると思ってるんだ・・笑
ぐらいの気持ちで見ていました。しかしその後、それよりも遅れて入ってきた人達がそれを見て勘違いし、次々と名前をチャットに送り出したのです。
面白いことに、さらにそれを見て、授業が始まる前からいた過半数の人も不安になってしまい、最終的にはほとんどの人が名前を送るという不思議な現象が起きてしまいました。
なんだか日本人の特性を感じたような出来事だったのですが、この話の一番のオチは、最初の方はそんな彼らを内心笑っていた自分が、最終的にはちゃっかり名前をチャットに置いて退室した、というところです。逆に先生がそれを見て出席を付け出したら、と想像してしまいました。
授業内容について
遠隔形式による授業に様々な思いがあったわけですが、実際授業の中身はどのようなものだったのか。世間一般では一応難関大学の枠に入っており、自分自身もそれなりの勉強をして入学した神戸大学です。どのような授業だったのでしょうか。これについても色々なことを考えながら受けていたわけですが、ここでは少しだけ紹介することにします。
まずは面白かった授業についてからお話します。1年の間で私の中で一番充実感のあった授業は、ずばり文化人類学です。私にとってこれはかなり革命的な学問でした。もともと異文化というものに興味があり、それを学んでみたい、それによって自分の価値観の変化を感じてみたい、という気持ちから高校生のときには卒業後カナダ留学を決断したほどです(この留学は結局コロナで流れてしまい、日本の大学に進学している状況です。)
そんな中でのこの授業は、自分の中の「当たり前」が崩れ落ちる音が聞こえるぐらい、面白いものでした。価値観が変わるというのがどういうことか分かりませんが、少なくとも多様な価値観のうちの一部を知ることができました。
また、学部の専門科目以外の教養科目もいくつか面白い授業があり、法律や経済、心理学の入門を少しだけ学ぶことができました。もともと私の所属する国際人間科学部は何か専門分野を持っているというよりは教養を学ぶ場であるため、どちらにしろ幅広く学びがちなのですが、他の工学や経済学などの専門の人たちも教養科目として様々な分野の授業を取ることができるのは良い仕組みなのではないかと感じます。
さて、大学での授業が全て魅力的だったかというと、がっかりしたものもあったのが正直な感想です。「グローバル」という言葉がやたらと教育の現場で使われがちな現代、まさにむやみやたらにグローバルを連呼していた印象が強かった授業。SDGsという言葉をとにかくいっぱい使った授業。それ自体が悪いわけではもちろんありませんが、良い感じの授業をしているけどあまり心に響かないなというものが多々ありました。曖昧な表現になり申し訳ないのですが、これに関しては他の受講生も同様の感想を持っていました。
また新たな発見だったのが、高校までは教科書に沿った内容だったのが、大学では教授の主観が入った講義を受けなければならないということです。講義の教科書として担当教授が出した本を買わされることも少なくありません。理系科目と違って答えのない課題と向き合うことが多かった大学の文系授業では、教授の考え方を一方的に吸収しなければならないことが多いです。それはそれで視点を増やすことができたという考え方もできるますが、実際かなり思想の強い教授の授業を聞いて、その思想に完全に心酔してしまう学生もいるのではないかと思いました。
もう一つ言いたいのが、大学の授業は長すぎるということです。単に90分間という時間が長く感じるというわけではなく、30分でまとめられる内容を90分かけて説明するのが大学の授業だと言うことです。同じような内容の動画はYouTubeで見れますし(特にオンライン期間は画面上で授業を受けていたのでまさに同じ)、むしろそちらの方が作り込まれた丁寧な動画になっていて、見ていてわかりやすいことが多いです。
これが良いのか悪いのかは分かりませんが、大学教授という権威のある人の口から講義を聴けること、そしてあれこれとゆっくり考えながら学問を追究できることに価値を感じる人がいれば、それは大学に入ってよかったと心から思えると思います。
サークルについて
大学生の醍醐味と言えば、サークル。的な風潮がやっぱりありますよね。私自身は
大学生は勉強してなんぼでしょ。
と思っていた側の人間でした。それでもやはり対面授業がない中でコミュニティを作りたかったのと、趣味をする場所が欲しかったので、サークルには入ることにしました。 入って唯一と言っていい良かったことが、人脈が広がったということです。圧倒的に広がりました。大学内でも大きめのところに入っていたのですが、たまにキャンパス内を歩く日があると、必ずそのサークルの友人に何人か会います。広い敷地で知り合いが誰もいないという心細さを感じることがなくなる、というのはかなりの大きなメリットだったと思います。
ただ入ったところが少し常軌を逸するようなイベントが多く、伝統に縛られて現代の風習にそぐわないことをしていたりと、私の正義感が拒絶してしまいました。ネガキャンはしてはいけないみたいなのでどのサークルか名前は書きませんが、宗教と違って抜けられないわけではないので、嫌だと思ったらそのコミュニティから抜けるというのも大事なことだと思います。
一人一人は皆いい人で、先輩も話せば優しく、同期も友達として大事にしたいなと思えるような人たちなのに、そのサークルで集団になってしますと怖いことも平気でできるような、それに関してはまさに宗教と同じだなと感じました。
少し前から思っていた個人面での性善説、集団面での性悪説に当てはまる事例をこのコミュニティで見たという感じです。
私は入るところを間違えてしまいましたが、かといって健全にそのスポーツを楽しめるサークルが他になく、友達と個人的に遊ぶ程度でこれから楽しもうと思っています。
正直、思っていたよりも飲みサーが多かったですね。日本の大学生が大学に求めているものがそういうものである、ということがよく分かります。
大学に入る意味とは
高校を卒業するときに大学でたくさん勉強しますと言うと、大学生のうちは遊ぶことも大事よと、何人かの先生に言われました。私が高校生のときに真面目すぎたからだろうか、かなり強調されました。大学は勉強するところであると信じていた私にとってかなり衝撃的な発言できた。
実際大学に入って授業を少しサボって遊んだりするときはそのときの言葉を免罪符にしているのですが、あれは本当に正しいアドバイスだったのでしょうか。今でも疑問に思っています。
たいていの場合人生に一度しか経験できない大学での勉強。せっかく受験に合格して授業料を払って入っているのだから、大学では学問にこそ時間と情熱を注ぎたいと常々思っていました。しかしどうも理想としていた大学生活と実際のそれとが異なっており、もやもやとする時期も長くありました。オンラインだったのもその理由のうちの一つでしょう。ただ、付き合っていた友達の影響もかなり大きかったかなと思います。
大学に入る意味って何だろうと、少し考えた機会がありました。春から新しく高校1年生になった友人が、なぜ大学に入らなければならないのか?大学に入るメリットは何なのか?とふと疑問に思ったらしいのです。
1年間大学生として過ごした上で暫定的に答えを出すとすれば、極論を言うと大学に入る唯一のメリットは、「大卒」になれるだけかなと思いました。日本の大学は一度入れば出るのは余裕ですからね。
熾烈な受験戦争を勝ち抜いて入った先の大学生活が、想像していたよりも堕落的で生産性のないものだったのは、たしかに自分の努力不足です。しかし授業はそのほとんどがYouTubeで見れるような内容のものばかりでした(理系や法学など専門の分野を学ぶ人は、ここで学ぶ意義があるかもしれません)。
実際、就活などの場面で○○大卒の人が評価されるのは、その人が○○大学で何かを学んだからというよりも、○○大学に入れるほど勉強がよくできる子だったからなのだと思います。つまり、高校生のときに努力した、そしてこれからも努力できる子であろう証明書のようなものが、大卒の肩書きの意義なのです。と、1年を終えて思った感想です。
それでもやはり、私は学問に一生懸命になる大学生活に憧れます。くだらないサークルの集まりなんて切り捨てて、自分がしたいことに時間を使う。そうして後悔のない日々を過ごしたいのです。
最後に
だらだらとした文章になってしましましたが、最後まで読んでくださってありがとうございました。この文章は色々な感情が渦巻いた1年を雑に書いてしまったものなので、自分の考えにじっくりと向き合えていないまま文章化されている部分もあります。温かい目で読んでくださればと思います。
また自分の中で考えがまとまったり新たな感情が出てきたりしたら、文章にしてみようと思います。
何か感想、質問、反論などがあればコメントくださると嬉しいです。よろしくお願いいたします。
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