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関東大震災から100年が経ちました

2023年9月1日、関東大震災から100年が経過しました。

マグニチュード7.9(推定)、死者・行方不明者は約10万5千人。木造住宅が密集した都市部で昼時でもあったことから焼死の割合が圧倒的に高かったようです。

(参考)報告書(1923 関東大震災)内閣府の防災情報のページより
https://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1923_kanto_daishinsai/index.html

元東京市長だった後藤新平は地震発生の翌日(9月2日)、保留にしていた内務大臣受託を決意。その夜には、帝都復興の根本策をメモにまとめたといいます。それが次の4つです。

1.遷都はしない
2.復興費は30億円
3.欧米の最新都市を採用して、日本にふさわしい首都をつくる
4.新都市計画のため、地主に対して断固たる態度をとる

復興計画は「惨害(さんがい:残酷な災害の意)言うに忍びざるものあるといえども、理想的帝都建設のため真に絶好の機会なり」として推進されました。道路や橋、公園に住宅といったインフラの再構築がなされたわけですが、このときのプランがいかに優れたものであったかを示すこんなエピソードがあります。

“震災から60年後の昭和58年8月30日、昭和天皇は記者会見で「復興に当たって後藤新平が膨大な復興計画を立てたが、いろんな事情で実行されなかった。もし実行されていたら戦災も軽かったのではと思う。残念だ」と述べられた。”産経ニュース公式サイトより引用

近畿地方には法隆寺をはじめとする飛鳥時代にさかのぼる古い木造建築がみられますが、東京にはそのような建造物は存在しません。山手線内側では東京大学の赤門(江戸時代)、23区では円融寺の釈迦堂(室町時代)が最も古いとされています。

東京は、関東大震災以外にも江戸の大火や東京大空襲と3度もの壊滅的な被害を受けています。その度に都市の再構築が試みられたと捉えるべきなのでしょうか。

首都圏特有の環状と放射状からなる交通網の増強は現在も進化し続けています。4400万人もの人が暮らす、数分も違わない正確な鉄道運行等世界に例をみない都市だといわれています。一方で新型コロナウイルスによる生活様式の変化は一部不動産の空洞化を招いています。

少子高齢化の進行とあわせて、都市とはどうあるべきなのか。見えない答えを模索する時期に突入していると思います。

参考文献:後藤新平の会 会報N0.28