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辛くなった時は帰ればいい

都道府県をまたぐ移動の自粛が緩和された。
様子を見て、緩和2週目に、仕事の都合がついたので週末に軽く実家に帰ることにした。やっと帰ることができた。なんなら、帰ってしまった、かもしれない。いやはや、帰って良かったのだろうか?とりあえず、実家に帰るのは、年末年始以来である。もともとは母親の誕生日の時期か、GWに帰ろうとしていたのだが、既にコロナムードに見舞われていたので我慢していた。しかし、今回ついにその機会が。普段通りの感染予防対策の徹底はもちろん行いながら。

この時期はすごく心が落ちていた。いろんな理由があったと思う。コロナによる連日の仕事からの解放。自由な時間を得たかわりにいろいろと考えてしまう日々。仕事の減少。働き方の模索。友人と会えない。心の内を話す相手がいない淋しさ。ひとりだけで完結する毎日。今でも続く仕事での小さなストレスの積み重ね。本当の夢を再認識する時間。人間関係。コロナの規制。帰省ができない。ショッピングができない。毎日ほぼ自炊のご飯。リラックス法の制限。自己分析。梅雨。SNSストレス。映画の見過ぎによる気持ちの浮き沈み。

全部が重なって、心の余裕が足りなくなってしまったんだと思う。そして、元来、ひとりが楽で好きな自分ですらこんなにもひとりでいることに悲しくなって辛くなって、惨めになった。誰かと一緒にいる幸せを感じている他人と自分を比べてしまっている傾向がすごく高くなってしまっていたからだと思う。

そんなこんなで、そろそろ限界な時に、ようやく自粛も緩和してきて、3ヶ月ぶりにプライベートで友人とご飯を食べた。自分が落ちていることを知ってくれてはいたので、ぽろぽろと話せることは伝えた。それでもやっぱり思っていることはうまく全部表現できなくてわたしの言いたいことは伝えられなければ、同時に、相手にも伝わらないだろうと思いながら。相手に求めるアンサーとして、今までは、解決法を言われると嬉しくなったり、それにハッとさせられることが多かったんだけども、今回一つだけハッキリしたことがあった。

今の自分は、今までの自分とは、異なる感情を持っているんだな、ということ。

少なからずアドバイス的なニュアンスの言葉を少しもらった時に、心が拒否反応を起こしたのがよく分かった。わたしは、今のわたしは、答えが欲しいわけではないんだな。今のわたしは、ただひとりの女性として、共感してもらって、慰めてもらって、今の自分の心を尊重してもらいたかっただけなんだな、って、はっきりとわかった。気づけてよかった。そんな等身大のひとりの女性としてか弱い自分が声をあげていたんだなってことに気づけたの。

だから、失礼ながらも、友人とのご飯は息抜きにはなったかもしれないけど、完全な心の安らぎには繋がらなかった。むしろ、喜ぶべき、お祝いすべき話題が出てくると自分がいかに黒い沼に落ちていっているかのような感覚に苛まれた。連絡が遅かったのはそういうことか、とか、落ち込んでいるのはわたしのほうなのかもしれないのに、なんで結局アポをとっているのはわたしなんだろうって、本当に惨めで汚くて忌々しい自分がどんどん表面化してきた。それも苦しくて仕方なかった。でもそれが、本当の自分なんだと思った。今の自分は、他人と一緒に喜びを共有できるほどの心の余裕なんてこれっぽっちも持てないことがよくわかった。

結局ひとりなんだな。が無意識に心の中で響く言葉だった。

だから、半ば勢いで、帰省したのは正解だったのかもしれない。自分の状況としては。もしかしたら、この判断によって失うものが出てきてしまうかもしれない。運命は残酷かもしれない。

でも久々の実家での暮らしは抗う術がないほど落ち着く心地よさだった。心が安心した。ゆるんだ。やわらかくなった。長期休みでもないのに帰っているのが変な感じだった。相変わらずの匂いで、空気で、感覚で、疑うものが何もなかった。
幼稚園生の朝にまだ寒くて、眠くて、母親のちゃんちゃんこに包まった記憶がぽっと思い浮かんだ。親の暖かさによって、心に灯がともった感覚でいっぱいだった。

わたしは母親や父親とは人生の悩みについて話す間柄ではないので、根本的な話は特にしていない。それでも、親と過ごすことが心の安らぎに繋がった。

ありがとう。また辛くなったら帰ります。死ぬまで一生親子ですからね。

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