人を優秀そうか否かでジャッジしていないか? ~ 週間社長の気持ち ~

こちらの投稿にたいしてありがたく内容を見たいというお声をいただいたので、原文ほぼままをこちらに転載します。社内向けに私が書きたいことを書いているものの一部です。誰でも書き込めるものなのでみんながコメント・質問を書き込む感じになっています。今回は元の私の書いた内容だけ抜粋します。以下原文です。

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今回のテーマは人を優秀そうか否かでジャッジしていないか?という話

なぜこれを書こうと思ったか

昔私は完全にこれだった、仕事において初めて話すときにこの人頭いいんかいな、話通じるんかいなという視点とか、仕事できるのかほんまに頑張ってるひとなんかいなという視点で見定めにいってた気がする(今もなんならちょっとはありそう)
そして最近この視点とか人の判断微妙やなーってめちゃ思ってきたので自戒も込めて書きたいとなった
最近自分より優秀な人を採用するというテーマの記事も出ていて同様のことを言ってるのではと思ったのもある。ユーザーの価値を前提にしたときに自分と比べて優秀かどうかは関係ない、むしろ歓迎すべきこと。面接はジャッジをする場所だけどそれが自分のためのジャッジになってしまっては意味がない。会社のために、成果をさらに出すためのアクションにしたい。

なぜ微妙か

仕事を一緒にするという前提で、まず仲間をジャッジするという行為にあまり意味がない。ジャッジして何がいいことある?ってなったときになーんにもない。
そして仲間はジャッジする対象ではなく一緒に課題解決をする人たちなので、どういう人間かを理解した上で一緒に成果に向かう必要がある。人を見るのはジャッジをする目的ではなくて理解をして一緒に成果に向かいやすくするためであるべき。
人をジャッジすることに意識が向いてしまっている時点で成果に向いていない、人を見ている状態になってしまている。これでは成果に向かうことができていない。成果を出すために信頼関係を作ろうとすること、はとても成果を向いたアクションだと思うが、人を見定めることが目的化した時点で前提が崩れてしまう。

さらに、見定めた上でアクションを変えてないか?

昔の私は、この人頭良さそうとか仕事できるからという理由で言うことを聞いたり、そうじゃないとジャッジした人に対してはどうやったら正しく物を考えられるようになるかばっかり考えてた。かなりきもい。もちろんどうやったら正しく物を見られるようになるかは成果を出すために考えていることではあるのだけど、それをお前が考えるな、そして目の前の課題に集中しろと言ってやりたい。
人を見定める傾向がある人は、人によって対応を変えがち。でもそれって成果を前提にしたときに真っ直ぐなアクションではないし、組織の信頼を損なう可能性がある。ていうかその人を信頼できてないのでは?と思ってしまう。

ではどう考えるべきか

全てはなんの成果を出すかから考えるべき。この人とこの成果を出しに行くことが会社として重要であるから、この人のことを理解しようとか、この人のこの意見は成果にむいているなぁ、いいなぁ、でもこういう視点もあるかも?みたいな感じでコミュニケーションしたい。はなから意見として取り入れないとかどうやって自分の意見を理解してもらおうかという感覚になっていたら要注意。
そして仲間を信頼することをベースの価値観にする、成果にむいていることは間違いないという信頼をして関係性を作っていきたい。

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