読書感想文を書きたい 『くるまの娘』宇佐見りん・『mid90s』

すごく久しぶりにnoteに自分の言葉を書いています。

宇佐見りんさんの『くるまの娘』は、読書離れしていたここ1年ほどでぼやけた読書のための脳みそをぐんと活性化させ、また本の虫に近づけた1冊になった。最近会った友人達全員が私の口から『くるまの娘』という単語を聞いたでしょう。またその話かと思わずに聞いて行ってください。

『くるまの娘』を主軸に、映画『mid90s』についても話していく。
『mid90s』を見ていなければ、私は『くるまの娘』についてもいい本を読めたなあと思うだけに留まって、こうしてnoteに記録することもなかった。

『くるまの娘』のあらすじとして紹介されているものを以下に引用します。

17歳のかんこたち一家は、久しぶりの車中泊の旅をする。
思い出の景色が、家族のままならなさの根源にあるものを引きずりだす。
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こっちは『mid90s』のあらすじ。

1990年代半ばのロサンゼルス。
13歳のスティーヴィーは兄のイアン、母のダブニーと暮らしている。 小柄なスティーヴィーは力の強い兄に全く歯が立たず、早く大きくなって彼を見返してやりたいと願っていた。 そんなある日、街のスケートボード・ショップを訪れたスティーヴィーは、店に出入りする少年たちと知り合う。 彼らは驚くほど自由でかっこよく、スティーヴィーは憧れのような気持ちで、そのグループに近付こうとするが…。
https://www.transformer.co.jp/m/mid90s/intro&story/

遅れてになりますが、ここから先の文章はネタバレどころの話ではないので「新鮮な気持ちで鑑賞したいよー」という人はどうか読まずに、かんこやサンバーンの気持ち、親の気持ち、仲間の気持ちに没入して消費してほしい。残念ながらカルチャーについて深く触れられる知識を持っていないので、登場人物の感情側から、この本、映画について書いていきたい。
このnoteが誰のことも傷つけないことを願います。


はじまりとストーリー

本の始まりは17歳のかんこの少し鬱屈とした独白のような曖昧な映像描写。
なによりもここではかんこの心情は多く語られず、屋上に向かって歩き続けるシーンなどは少し気味が悪く思えるかもしれない。
授業中に眠ったり授業中に出歩くかんこに朗らかに話しかける教師の姿や寝ているかんこに声をかける同級生の姿から多くの読者がこの『くるまの娘』という物語が、かんこの「問題」を「解決」する物語と思ったことでしょう。

『くるまの娘』を読んだ人はわかると思うが、これは誰が、何から自立する物語でもない。現状からの離脱、自立を求め、その必要性に疑問を呈し、自分以外の自我に視線を向けながら、終わりの来る幸せという解決策で手当をする。そういう物語だった。
自立、という現在の社会では大前提のようなゴールに疑問を向けるべく、すこぶる親近感の湧く、多くの人が見たことのある情景描写で寄り添い、受け入れ難いテーマが読者の身近に迫ってくる。
かんこの家族が見せる不安定さは、特異なようで誰にでも覚えがあり、誰であっても自分がああならないと断言することはできない。

また『mid90s』はスティーヴィーという少年が、スケートボードカルチャーに触れながら、どこで「自立しないか」を選ぶ物語である。
「女」であり続ける母親と暴力を振るう兄がいる家、スティーヴィーがたどり着いたスケボーショップとその向こうのパークは、頗る汚いトイレを境界線にスティーヴィーを板挟みにする。
作中で家族が姿を見せる子供はスティーヴィーのみ、親子でカメラの前に立つ人物が1人だけに限られているのは、一際小さい彼の「自立していなさ」を強調するためかと思う。
映画の冒頭で突然壁に叩きつけられる少年の姿に心痛み、ストリートファイターiiのTシャツを着て兄の部屋に忍び込む彼に保護欲のようなものも生まれる。
そこにある筋トレマシンや格好いいキャップを片っ端から手に取っては使ってみて、兄のラックにあるCDを手当たり次第に聞いて、アーティストの名前をメモする。
イアンの誕生日に食事をした際にはそこになかったCDをプレゼントする。プレゼントは不器用なラッピングが施され、ビリビリに破いて中身を見たイアンは何も言わずにラッピングを丸めてCDの上に置く。

「音楽を分かってないくせに」
兄のイアンはスティーヴィーの宝物を奪ってそうつぶやく。
見返してやると発言されたわけではないが、イアンの暴力を映す、またその後のスティーヴィーの様子にはそういう感情が見て取れる。
「見返してやる」という感情には同じようなことを上回ってする、同じようなことができる、もっと強い人物に、という考えがつきもので、スティーヴィーも例外ではないだろう。この加害者と同じベクトルに進んでしまうことに気づかない、いつか自分も絶対に、という実態の見えない「格好いい大人像」を自分に暴力を振るう兄に重ねる幼さが、観客の彼への親近感を増幅させる。

肉親からの暴力

この2作品の共通項として、「肉親からの暴力」というものがある。
『くるまの娘』でそれは、おかしいとは感じながらもある種、父の愛の一種として描かれ、「普通」はこんなことされないと気づくこと、それから逃げようとすること、それを受け入れること、それらがかんこという1人の少女のなかに同居しうる理由を語っている。
結局かんこは、あの家庭から逃げるという選択はしない訳だが、その選択に至るまでの心身の葛藤を読者は把握できない。
かんこの心情に対し文章は常に3人称視点であり、かんこから聞いた話のようであり、作中で話されているように彼女は流されやすく、自分の意思が希薄である。希薄、というよりも自分の意思であるという自覚が薄い、という印象がある。これは悪いことではなく、自意識の客観視ができているということだと思うが、故に判断に至る理由付けに感情を込められない。
その自意識を客観視したかんこの視点を3人称で語る物語は、いつでも物語になる。かんこからみた世界もまた同じような感覚だろう。
だから読者はこの本への接し方を迷う。
自分がかんこだったら、父親だったら、母親だったら、弟だったらどうしていたか。自分が彼らに接する機会があればどう助け船を出してやれば良いのだろうか。自分がかんこの周りで助け舟を出していた時、その助け舟はちゃんとかんこを次の陸地に運んでいけるんだろうか。つぎの「くるま」はどこで、その用意に責任を持てるのか。そもそもかんこに「くるま」は必要なのか。
一体この本は、私たちをどうしたいのか。

『mid90s』でスティーヴィーは兄からの暴力、またそれに気付かない母親のあり方について憤りを感じており、既に家庭の異常さに気づいていて、それを愛ゆえだとしている描写はない。これは児童虐待への国による意識の差でもある。この時点でとっくにスティーヴィーは後部座席を降りることを自分の意思で選んでおり、既に彼はスケートボードの上にいた。

『くるまの娘』を先に読了し、『mid90s』を見た時、『くるまの娘』で描かれていた親子像と自分の価値観の捻れ、日本との文化の違いというだけで済ませるにはあまりにも根深い部分で生まれた意識の差にゾッとした。父からかんこへの暴力は決して許されることでは無いし、かんこが許していた瞬間だって1秒も無かったはずなのに、幼いかんこが「変えていい状況だと気づかなかったこと」を認めていた自分が恐ろしい。

スティーヴィーとルーベンのパークでの取っ組み合いのシーンは、構造的にかなり辛かった。
兄からの一方的な暴力から逃れ、直前の夜には「友達も女もいないくせに」と言い放ったスティーヴィーは変わった形であれ復讐のスタートラインに立っていた。スケートボードが救ってくれたと、レイに連れ出され道端で世を明かし、ファックシットと共に酒やタバコを片手にパークを滑る。
一方のルーベンは、自分だけでなく妹にまで手を上げる母親から逃れ、たどり着いたスケボーショップではレイやファックシット、フォースグレードに若干の緊張を覚えつつ仲間として日々を過ごしてきた。そこに現れたスティーヴィーに先輩ヅラしていたところ、なぜかレイたちは自分よりもスティーヴィーに世話を焼き、サンバーンなんていうあだ名まで与える。レイにはあだ名がないから、ない方がいいんだとスティーヴィーには言ったものの認め難いブロマンスが彼らには生まれている。
執拗について回る疎外感と悔しさに、タイミング悪くスティーヴィーとの取っ組み合いが始まってしまう。
2人に上下関係はなかったはずなのに、喧嘩ではスティーヴィーが優勢で、ルーベンを一方的に見えるほど殴る。意識的かどうか分からないが私にはあのスティーヴィーが兄のイアンに重なって見え、ここでもか、またなのかというルーベンの絶望を想像した。

くるま

両作品、「くるま」の描写は特徴的だろう。
『mid90s』にはスケートボード、あるいは彼らのスポットへの移動手段としての車が登場する。

『mid90s』でレイを悲しみから救ったのはファックシットとともに現れたスケートボードであったし、それはフォースグレードやルーベン、サンバーンであっても同じだった。
「なぜ俺たちが板切れに乗ってるのか分かるか?どんな気分になるか?」
パークの住人たちとの会話の中でファックシットはこんなことを言う。これに対しての答えはこの映像の中で明文化されない。それはこの発言が質問ではないから。これについて、何事も当たり前に説明される現代のコンテンツの中で察する能力が低下した我々は、この会話の文脈であれこれ推察してみる。
前の仕事でやっていたデータ入力であっても、アーティスティックな想像力が必要で、そんな状況を分かっていても自分のスキルは古いままだ、その少し前に話していた「俺は滑るのが楽しい、毎日笑っていたい」「スケボーで稼ぎたい」夢を叶えるため、それよりもっと前に話していたこうなってしまえば友達だと分かっても話しかけてはもらえない、俺は気にしない、そこに答えがあるのか。
おそらくそのどれにも答えは無くて、我々がいくら考察したとしても、直接ファックシットやレイに聞いてみれば、拍子抜けするような答え、あるいはじっとこちらを眺めながら「え?全然違う話じゃない?」みたいな質問をされるだけ。そしてそれの全部に意味があって、私たちは「なんかカッケーな」と思う羽目になる。
してやられるが、そこには悲劇的な状況を強大なカルチャーを持った「趣味」に救われた人間が共感する感情がある。ファックシットがこの発言をした時にそんな意味を持たせたかは分からないが、『mid90s』という映画においてのこの言葉はそんな役割を持っているんだろう。

スティーヴィーにとって、スケートボードはどんな「くるま」だっただろうかと考えた時に、ルーベンの「80年代かよ」と言う発言を思い出した。
この映画の舞台はmid90s、つまり1990年代中頃。その頃から見た80sというのは10年ほど前、10年ほど前に流行りの型だったスケートボードをなぜスティーヴィーが持っているのか。スティーヴィーがサンバーンになる前、まだ移動には自転車を使い、よちよちとスケートボードを漕いでいた。前後に違いがあるスケートボードを中古で買っていたとしても、あそこまでボロボロになるだろうか。多分あのスケートボードは兄であるイアンの物だったのではないだろうか。イアンがまだスティーヴィーほどの年齢だった時、母が彼に買い与えたスケートボードを、スティーヴィーは大切に使い続けていたのではないだろうか。スティーヴィーにとってのスケートボードはまだ、スケボーショップのメンバーにとってのスケートボードのように強大な存在にはまだなれていなかっただろう。しかしそれでもスティーヴィーにはかなり強烈な救いだっただろう。
そのスケートボードもまた、兄、母からのものであるのも強烈な皮肉である。

スティーヴィーにとっての「くるま」はまだ、望んでもいないのに乗せられていて、その上降りようとすることを止められる暴走機関車であったし、スティーヴィーを助けに来たスケートボードという「くるま」も、プロペラが火花を出しているヘリコプターだったろう。暴走機関車のようにどこに突っ込んでいくかも分からない、助からないだろう事だけが確かな暴走機関車には、確かに燃料というものがあって、それさえ切れてしまえば線路が続く限り減速を待つことができる。
しかし猛スピードのまま暗闇のトンネルに突っ込む機関車、しかも乗っている理由もわからないとくれば、高くにつれて行ってくれて、運が良ければ安全な地上に下ろしてくれる墜落を待つヘリコプターの梯子を必死に掴むだろう。

では『くるまの娘』ではどうだっただろう。
『くるまの娘』に登場する「くるま」はかつて家族で色々なところに旅して、車中泊をして、みんなでサービスエリアのラーメンを食べたりした、そんなノスタルジーの塊だった。
地元を離れてもう3年になる私でさえ、帰省して親の運転する車の後部座席でゆっくりと動く車窓の田舎を眺めているとじわりと涙が溢れてくる。
ここに戻って来られなくなる日を思い、また乗られる日が来ることを願う。
運転席や助手席に座る両親も同じだっただろう。
段々と記憶を失っていくかんこの母親が、ここでこうしたよね、あれを食べたよねと思い出話のように話す「確認」はあまりにも痛ましく、目を背けたくなる。
しかしそれは許されないし、背けることはできない。
途中、かんこの母親が、思い出の再現に失敗し、「駄々を捏ねる」場面がある。あれは、確かでなくなっていく自分の記憶を同じ状況で上書きし、当事者の確認をもとに曖昧でなくするためだと説明できるだろう。
かんこの母親が耐えられない状況にある中で、楽しかった頃のロールプレイをする事で心の傷にとりあえず接着剤で蓋をするようなもので、それは完璧なロールプレイであればあるほど長持ちする手当になった。それが、一つでさえ傷つけられてしまうことは、それが単なるロールプレイであることの証拠になり、一層の惨めさと、もう元には戻れないという核心につながってしまうから。彼女の中ではっきり理由として出来上がっているかはわからないが、そこには彼女が「駄々をこねた」根本の理由があると思う。

かんこの母親が深夜、突然車を走らせ「心中する」という選択を見せたことは、かなりの衝撃であったと同時に読者に「終わり」を悟らせた。私自身読んでいてこのシーンに差し掛かった時、残りのページ数を確認してしまった。
しかしこの「心中」は成功せず、すこし度が過ぎたいつものヒステリーとして消化される。この出来事を通してかんこの中に、様々な家庭の問題を、ただのトラブルとして消化する選択肢が生まれる。
一出来事にする事で、この生活は続く。いずれ終わりの来る生活にはたくさんの耐え難い障害がありながら、それは今しか体感できないものなのだとする。
かんこが母親の「みんなで仲良くしていた頃に戻りたい、できることならそのままいつまでも幸せでありたい」という願いを叶えようとする動きはこの「心中」による心の変化も多く関わってくる。
点検中のメリーゴーランドに乗り込んで、父や弟が止める中、母親のカメラに向かって笑顔を作るかんこは母親の中で「あの頃の私の"娘"」であろうとする。

かんこの「くるまに居続ける」「くるまの"娘"であり続ける」という選択肢も、終わりの見えている家族の形の中で、端的であれ平和な関係性を保つための、幸せの形なのだと思う。あの物語に対して、どんな解決法を示すかというのは重要ではなくて、あれはあれで完結した答えの一つなのだと思う。

安心って言うのは車の後部座席で眠ることさ。前の席には両親がいて、心配事はなにもない。でもね、ある時、その安心は消え去ってしまうんだ。君が前の席にいかなきゃならなくなるんだよ。そしてもういない両親の代わりに、君が誰かを安心させる側になるんだ。
チャーリーブラウン『ピーナッツ』チャールズ・モンロー・シュルツ

かんこの乗っていた「くるま」の運転席にいる両親はとっくにハンドルから手を離し、選べるのは直進か停車か、その判断をするのもまた両親だ。
たまたま真っ直ぐの高速道路に乗っているだけで、道が曲がれば事故を起こすし、停車してかんこがくるまを降りたとしても、高速の後続車に追突されて両親は死んでしまう。

『くるまの娘』、『mid90s』に登場する子供たちを見て、『Hustlers』のディスティニーが見る夢を思い出した。
後部座席で目を覚ますと、乗っている車は下り坂を猛スピードで走っていて、運転席には誰もいない。運転席に移動してハンドルを持っても、制御は効かず、そのまま交差点に突っ込んで行く。

おわりに

長々と書いた文章であるけど、これが「読書感想文」ではないのには理由がある。
この両作品について、私が言いたい事は何も無いから。
ひたすらに素晴らしい描写と含まれた社会への疑問に対して、彼らは彼らなりに「解決しない」という選択をしているから。
「良い読書感想文」と言われる文章達ではよくこの本を通して学んだ事、どう自分の人生に反映させていきたいか、などが語られるがこの両作品に登場する問題達は、全ての人々が既に直面していてそれぞれがそれなりに「どうしようもない」という結論を出している。
彼らの物語の結末を私達は見られていないし、それは果てしなく凡庸な終わりかもしれない。それは私達も同じであるし、本、映画の結末と私達の位置は全く同じであると思う。終わりの来る生活に思いを馳せながら今できる幸せを消化する。

この文章を何とするかと言われれば、ただの記録としか言いようがない。

語り切れていないところはたくさんあります。間違っているところも。
この文章は完結していない。皆さんの鑑賞に役立てれば嬉しいです。

そういえば先日東京都写真美術館の「メメント・モリと写真」という展示を見に行こうとした。
同館の別の展示から見始めて結局見る事が出来なかったのでリベンジを約束している。

登場人物たちのメメント・モリ。

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