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0816:小説『やくみん! お役所民族誌』[26]

第1話「香守茂乃は詐欺に遭い、香守みなもは卒論の題材を決める」
[最終回]次のステップへ

<前回>

        *

 帰宅時間の目処が立たないから晩御飯は職場で出前を取ると、秀一から返信があった。この半年余りでそういう日の寂しさには慣れた。みなもは帰路にスーパーで自分用のお弁当を買って、アパートでそそくさと夕食を済ませた。
 公務員は定時退庁、というイメージとはかけ離れた実情を、秀一が就職して初めてみなもは知った。
「部署や時期にもよるみたいだけどね、22時に退庁して庁舎を見上げると、まだいくつも窓の灯りがついてたりするよ」
 新規採用1年目の秀一は、過重労働にならないようそれなりに配慮されているらしい。それでも定時で帰れるのは週に1~2度で、20時台がザラだ。時間外勤務手当が割増になる22時以降はよほど急ぎの作業がない限り退庁を命じられるが、時には日付が変わることもある。
 社会人って、大変なんだな。
 みなもの労働経験は家庭教師のみ、サラリーマン的な働き方とは違う。父しゃんも秀くんもサラリーマンだ。会社や役所という集団の中で仕事をする、それはどういう感じなんだろう。
 みなもにとって、今回のインターンシップは非常に刺激的だった。漠然と抱いていた「お役所」のイメージとは大きく異なる世界。しかしインターンシップ生が垣間見るものもまた、公務組織のほんの一場面でしかない。
 ぼんやりと頭を廻らせながら、パソコンに火を入れる。メーカーロゴが浮かび、まもなくwindowsのログイン画面。パスワードは指が覚えている。
 学務に提出するインターンシップ報告書を作らねばならない。しかしみなもの思考はその先に向かっていた。来週月曜日の文化人類学ゼミ、卒論構想の報告だ。ひとまず報告書様式のワードファイルを開いたものの、指はキーボードの上に触れたまま、動かない。
 何かを生み出そうと脳内で思考を巡らす時の集中力。例えば、サークル同人誌の課題で小説を書かねばならない時、目は開いていながら物を見ていない。音は鼓膜に届いても意識が向かわない。五感とりわけ視覚と聴覚が、脳内で紡がれるイメージに置き換わっている。今、その状態が降臨していた。
 これまで文化人類学の講義で聴いてきたこと。見慣れたものを、見慣れぬものにする。異文化に触れ、潜り、細部と全体構造の連環を把捉する。厚い記述。他者理解と自己理解。骨格と血肉。
「県のミッションと具体的な事務を繋ぐものとしては、後で『澄舞県長期計画』の体系図を見てごらん」
 夕方に野田室長から聴いたひとことが蘇る。
 マウスでブラウザを立ち上げ、google検索から計画PDFを開く。目次からそれらしいページを辿ると、三角形の図が現れた。頂点に澄舞の将来像、続いてそれを実現する五つの政策の柱、政策を具体化する施策群と、実際に県庁組織で行う事務事業。なるほど体系的に編まれている。
「消費生活センターは正義の味方!」
 たまたまニュースで見た二階堂の啖呵の意味、その少なくとも一端を、みなもはおばあちゃんの事件を通して感じ取った気がする。計画書のどこに位置づけられているかを探すと、政策の柱「それぞれの地域で安全・安心な生活ができる澄舞づくり」の下に施策「消費者対策の推進」、その下に事務事業「悪質商法事犯対策の推進」がある。
「60点でも合格というのが、現実なんだよ」
 美しく整えられた行政計画の事業体系と、限られたリソースで実務に取り組む公務員たちの現実の姿。骨格だけでは血肉の細部の動力は窺えない、血肉だけでは骨格の総合的な作用は見えない。
 文化人類学の基本はフィールドワークだ。研究者は研究対象となる異文化集団に密接に関わり、共に暮らし、五感で観察する。その集団の血肉と骨格の総体を感じ取り、民族誌(エスノグラフィ)としてまとめる。
 ──よし、これだ。
 みなもは心を定めた。ファイルの新規作成。指が滑らかに打鍵を始めた。

        *

 月曜日の文化人類学ゼミは、3年生の卒業論文構想報告会だ。該当者5人の中でも、香守みなもの報告は、ちょっとした波乱をゼミに引き起こした。
「澄舞県消費生活センターのフィールドワーク(仮)」
 そう標題を掲げたA3版の2in1資料を元に、みなもは構想を説明していく。インターンシップで見聞きしたこと。「お役所」というものへの自分の先入観に気付く経験。悪質商法の実態とそれに対抗する行政権限の仕組み。そして、それを支える一人一人の公務員の姿。
「胸を張って正義の味方だといえる仕事が、公務員のどのような働き方に支えられているのかを観察することが、このフィールドワークの目的です」
 持ち時間の20分を5分ほど余らせてみなもは報告を終えた。それはつまり、続く10分の質疑応答が15分に伸びるということでもある。「人間サンドバッグ」と呼ばれる4年生の中間報告に比べれば、3年生段階での構想報告は手心が加わる「人間パンチングボール」と表現される。
 真っ先に手を上げたのは、ただ一人の二年生、吉本範香だ。いつもの柔らかな表情と異なり、何故か目に厳しい色が宿っていた。
「インターンシップで少し経験したからそこでフィールドワークをするって、安易過ぎませんか? 思いつきで何かを観察して、意味のある民族誌が書けるとは思えません」
 いきなり重たい拳がみなものみぞおちを襲う。学術トレーニングである討論は真剣勝負、というのがこのゼミのモットーではあるが、それにしても学生間で相手を正面から「安易」と評するのは希だ。教室内にいくつかの笑い声が起きたが、戸惑いの色をまとってすぐ消えた。
 真剣勝負だからこそ、報告者は正面から打ち合わねばならない。
「ご批判ごもっとも。ごもっともだけれども、ビビビッと来たんだよね」
 この時に起きた笑いは、緊張した空気を緩和したいゼミ生たちの衝動も手伝って、大きかった。
「確かに、たった三日間経験しただけで、私は澄舞県庁のことをほとんど知りません。でも、知らない世界だからこそ県庁は異文化で、人類学的に調査をする意味はある筈だと思ってます。知っている人が当たり前の前提にしていることを、知らないからこそ根っこから考えられる、というか」
 入華陽染(いりはな・ひそむ)教授が声を出さずに苦笑した。講義で話している台詞をなぞっていたからだ。入華が感じたことを、範香が言葉にした。
「その論理は、知らない世界をフィールドワークすれば誰でも良い研究ができる、と聞こえます。でもそうじゃないですよね」
 鋭いフックによろめくみなも。
「香守さんの報告は、講義で聴いたことのある人類学の理屈めいたものを、自分のやりたいことにただくっつけただけに思えるんです。それは何も明らかにしたことにならない。何かを明らかにできる目処があるのなら、教えてください」
 アッパーが顎に決まった。みなもは天を仰ぐ。
「……今は、目処はありません。何かがあるに違いないという直感だけです」
 完敗。石川耕一郎准教授が助け舟を出した.
「まあ、フィールドワークはその過程で見えてくるものの方が大事だからね。問いは調査までにもう少し丁寧に設計した方がいいけれど、入口は直感的着想でも悪くはないと、僕は思います」
 石川先生、やさしー。
「それより気になるのは、そもそも県庁の参与観察って、受け入れてもらえるのかな。何か約束みたいなものでもしてるの?」
「いやー、特には。インターンシップみたいに大学から話を通してもらうようなわけにはいか」
「いかないねえ。インターンシップは県庁の公式事業で大学も連携してる。卒業研究は私的活動。そこは基本自分でやらないと」
 石川先生、容赦ねー。
「センターの担当さんとは仲良くなったし、メアド交換したので相談はできると思ってます」
 ここで入華教授が口を開いた。みなもに対する助言であると同時に、ゼミ生全員に向けたレクチャーでもある。
「仲良くなったというのは、錯覚だと思ったほうがいいよ。インターンシップでは県庁側はホスト、学生はお客様。社交上の笑顔に過剰に期待しちゃいけない。
「フィールドワークというのはね、調査者側の都合であって、インフォーマント(被調査者)には負担ばかりで何もメリットがない。相手に信頼してもらって受け入れてもらうのは、とてもデリケートで難しいことなんだよ。キャリアを積んだ研究者でも、研究したいと思う社会集団にいくつもフラれて、ようやく巡り会えた条件下でフィールドワークに臨むんだ。ある意味での偶然と幸運の上に、調査は成立するといってもいい。
「役所をフィールドワークの対象にしたいというのは、成功すれば画期的なことだよ。でもハードルは高いよね。役所でも民間企業でも、普通は人員に余裕はなく本来業務で手一杯だ。学術調査なんて受け入れて入れる余地はないでしょう。ましてや消費生活センターなんて、消費者相談や悪質事業者のデリケートな情報だらけで、部外者を受け入れることは基本的にタブーだろう。
「さっきの石川先生の問いかけは、そういう問題が背景にあるんだよ」
「ですね」入華の振りを石川が引き取った。「今回のインターンシップで香守さんがデリケートな消費者行政の一幕を見聞できたのは、家族のトラブルという偶然の上に成立したものだよ。それがどれだけ興味深くても、偶然に二度目はない」
 みなもは気持ちがしゅんとなった。せっかくビビビッと来たのに、やっぱり難しいのかなあ。その沈んだ表情を、範香はじっと見つめていた。
 入華はレジュメに目を落とし、4秒黙って何かを考え、徐にいう。
「とはいえ、アタックする前から諦めることはないさ。幸い三年生にはまだ時間がある。正面から調査できない場合は、できるやり方を考えればいい。偶然に二度はないけれど、もしかすると香守さんは幸運かもしれない。ね、石川先生、気付いた?」
「ええ、いますね」
 石川もレジュメを見た。末尾には、最終日に作った啓発ビデオのラストシーン、消費生活センターのみんなと全員で映った画像を載せていた。余白の穴埋めのつもりだった。
「香守さん、この写真の右の方にいる体の大きい人、野田彌さんだよね?」
 石川の口から突然野田の名前が出て、みなもは驚いた。
「あ、はい、そうですけど」
「役職は?」
「消費生活安全室長です。兼務で消費生活センター長」
「管理職だね、しかもセンターの責任者か。ふーん」
 石川と入華が曰くありげに顔を見合わせ、笑った。
「香守さん」石川がいう。「もしかすると、本当に微かなものだけど、希望があるかも知れないよ。ただ、仮にうまくいったとしても、県庁の参与観察はとても大変だと思う。本気でチャレンジする気は、ある?」
 一瞬、指導教官の示唆するところを捉えかねて、みなもは固まった。微かな希望──フィールドワークに入れる可能性。それは願ってもないことだ。
「はい、あります!」
 みなもは元気に応えた。
 大丈夫。私は、やる時はやる女なんだから。

<第一話ドラフト稿 了>

--------以下noteの平常日記要素

■本日のやくみん進捗
第1話第26回、2,683字から1,751字進んで4,434字でドラフト脱稿。年内に第1話終わったーっ!

■本日の司法書士試験勉強ラーニングログ
【累積325h15m/合格目安3,000時間まであと2,675時間】
ノー勉強デー。

■本日摂取したオタク成分
『SPY×FAMILY』第2期最終話、本筋をじわりと進めて終了。『四人はそれぞれ嘘をつく』第9話、まあなんというか馬鹿馬鹿しい笑いが魅力。『SKET DANCE』第55~59話、笑いと涙の安定。『バキ』第1~7話、やくみんがしがし書きながらBGV。初めてバキシリーズ原作読んだのはちょうどこの最凶死刑囚編からで、むっちゃ面白いんだよねこの辺り。

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