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0288:(GaWatch映像編004)『映画大好きポンポさん』

『映画大好きポンポさん』2021年/日本
監督・脚本・絵コンテ 平尾隆之
原作 杉谷庄吾【人間プラモ】

 本日ようやくこの作品を観ることができた。ひとことでいえば、あらゆる表現者・創造的人間を勇気づける映画だ。かなり構成・描写が練られているので全てをすぐに解析することは私の能力の及ぶところではないが、ひとまず原作愛読者として、アニメ好きとして、そして小説を書く者として、所感を書き留めておこう。

 あ、その前にひとつだけ。できれば原作(シリーズ第1作)を読んでから、映画を観た方がいい。表現の感動が何倍にも膨らむから。

(1)原作のこと

 私がなぜ本書原作を購入する気になったのか、まったく覚えていない。Amazonの購入履歴を確認すると2017年8月26日の発売当日にkindle版を購入している。もとはピクシブで公開されていたものだからTwitterで評判でも聴いたのか、それともAmazonの予約告知で表紙を見て映画話という時点で買いと決めたのか。その辺りのことはまったく思い出せない。

 しかし、作品を一読した時の鮮烈な衝撃は覚えている。

 この作品の主人公は一人ではない。標題になっているポンポさんはプロデューサーであり、間違いなく映画作りにおける最大の権力者だ。しかしプロデューサーは自ら映画を作る訳ではない。表現作品としての映画そのものの作り手のトップはジーン監督であり、彼がこの物語の中央をまっすぐに疾走する。そして、監督一人で映画を作れるわけではないこともまた自明だ。アルバイトに励みながら女優を目指すナタリーは、ポンポさんに見出され、いきなり新作映画の重要な役どころに抜擢される。この三人が主人公格といってよい。ポンポさんはプロデューサーとしてジーンやナタリーや製作現場が存分に映画作りに打ち込めるよう、上から俯瞰し、同じ目線でアドバイスをして、水面下で尽力をする。ナタリーは売れっ子女優ミスティアと生活・トレーニングを共にし、様々なものを吸収しながら、主演を務める伝説的男優マーティンと伍してフィルムの中に素晴らしい輝きを焼き付ける。そしてジーンは、映画オタクとしての人生を糧に、クリエイター魂を激しく燃焼させて、一本の映画『MEISTER』を撮りきる。

 これは、間違いなく表現者を描いた作品だ。一本の映画作品を巡って、プロデューサー、監督、役者、撮影スタッフなど、多くの人が「表現」の為に智慧を絞り、汗を流している。その情熱を描いた作品だ。作者・杉谷庄吾【人間プラモ】はアニメーターとのことで、作者自身が表現の現場に身を置いている。

 私もまた十代の頃から小説を書き続け、公務員になってからも同人誌等に作品を発表してきた。しかし、ある出来事をきっかけとして、2010年頃を最後に創作活動から遠ざかっていた。それでも、過去記事「やくみん覚え書き」に触れてきたように、公務組織で経験したいろいろなことをいつか小説に書きたいと、脳内でもやもや混沌を混ぜていた。ボンボさんに出会ったのはそんな時期だったから、映画作りに携わる人々の物語は心にとても響いた。

 しかし、この一冊で作品は完結しているようだ。もっともっとこの世界を愉しみたいと思うけれど、まあこれを一冊の宝石として愛読していこう。そう思っていた──ら、なんと翌年に2巻が! その後書き漫画によれば、1巻時点では作者は続刊を描く気がなかったけれど、そのうち自然と出版社のオファーを了承していたとのこと。その後もフランちゃん、カーナちゃん、オムニバスそして本年5月刊行の本編第3巻と、映画作りに魅せられた人々の物語は大きく広がっていった。出版される度に夢中になって読んだのはいうまでもない。現在高一の三男も、とうちゃんのkindleを勝手にあれこれ読む中で、ポンポさんシリーズは大好きな作品になっていた。

(2)映画を観るまでのこと

 だからポンポさんアニメ映画化の報を聴いたときは、二人とも小躍りして喜んだものだ。おそらく3巻が出る少し前のことだったと思う。しかし、6月4日の公開日が近づいた頃に公式サイトで上映館を調べると、私の行動半径にある2県の映画館は掲載がなかった。大都市部の映画館のみで、全都道府県の半分行かないくらいだったように思う。私と三男は共にがっくりした。

 映画は興行だ。ビジネスとして成立することが作品作りの前提条件になる。特にコロナ下の今、映画館が上映作品として選んでくれるためには、確実に客が入るという説得力がいる。人口(=観客の母数)の少ない県では特にそうだ。その事情は痛いほどに分かった。

 ポンポさん原作は間違いなく素晴らしい作品だ。映画化は必ずしも原作の素晴らしさを受け継ぐとは限らない。優れた映画ならば、いずれ当地でも上映されるだろう。そうでなくても、いつかAT-Xなどで放送されるだろう。人口規模の違いがそのまま文化機会の格差に繋がるのは田舎住まいとして悔しいが、ネット社会となりメディア系については随分とマシになった。ともあれ、この作品と縁の結ばれる日を待つしかない──。

 その日は予想外に早く来た。作品の評判は上々で、7月上旬から上映館が拡大されることとなり、そのひとつに当地の映画館も入っていたのだ。よっしゃあ!

 そのような経緯を経て、本日ようやく映画『映画大好きポンポさん』を観ることができた。大雨は去ったが公共交通機関が止まって休校となった三男も、これ幸いと連れて行った。

(3)映画のこと

 保証する。この映画は傑作だ。表現者魂の籠もった原作漫画を、むちゃくちゃ表現者魂を込めて再構成し、時間芸術に変換して、絵と音と音楽と声の総合作品として世に解き放った、最上級のエンターテインメント作品だ。

 上映時間はちょうど90分(その意味するところは原作を読んだ人なら分かるだろう。もちろん、映画だけで分かるようになっている)。同じ90分前後の映画でも、作品によって体感時間は異なる。私の場合、この作品は長く感じた。もちろん悪い意味(ダレる場面があるとか)ではない。基本的に知っているストーリーなのに、映画表現としての工夫が相当に凝っていて、密度が濃く細部に勢いがあるのだ。その密度、その勢いが、続く。まだ続く。90分とは事前に知っていたけれど、これだけのものを表現できる時間だったか? 一つ一つのシーン、シーン間の繋ぎ、構成、そして全体像。どれだけ集中すればこんな作品を作れるんだ。

 作品は大きく四つのまとまりに分かれる。第一段は下積み中のジーンとナタリーが映画『MEISTER』の監督と女優にそれぞれ抜擢されるまで。第二段はジーン監督の下で皆が撮影に臨む期間。第三段はクライマックスを撮り終えた後の編集作業。ここまででほぼ原作を網羅しているが、映画は更にオリジナルの場面として、ジーンが追加カットを撮るエピソードが追加されている。

 漫画表現と映画表現は異なる。この映画が原作漫画を心底敬愛し、映画作りをテーマとしたこの作品自体を映画で表現するという無謀な挑戦に、映画表現者として全力で挑み成功したものであることは、私が保証する(何の保証にもならんかも知らんが、40年以上のアニメファンとして断言くらいさせてくれ)。

 例えば第一段。原作ではジーンのエピソードとナタリーのエピソードがそれぞれに並行して描かれ、ポンポさんの部屋で引き合わされる場面で一本になる。映画はこれを再構成した。まず、視点をジーンに置いて、エピソードを描いていく。ポンポさんの部屋でナタリーと邂逅した直後、キュルキュルとコマが(時間が)巻き戻されて、今度はあらためてナタリーの物語が最初から描かれていく。このそれぞれのエピソードの中で、ジーンとナタリーは3度、すれ違っている。工事現場でのことは原作にもあるが、他のふたつは映画オリジナルだ。一度は、街中のナタリーの一瞬の輝きをバス(電車?)の中からジーンが目撃したこと。もうひとつは、ビルの入口ですれ違ったこと。ジーンの目から見たシーンの意味が、あらためてナタリーの目から表現され、観客は「そうか、あれはそういう場面だったのか」と得心する。とりわけ、ジーンがバスからナタリーを観てその映像性に感動する場面は、監督としてのジーンの才能、女優としてのナタリーの才能を最初に鮮烈に示す事で、その後の展開をしっかりと支えている。

 こんな具合に、この映画は「原作の焼き直し」などではなく、原作の魅力を十全に理解してそれを映画で表現する最上の技法を練り上げたものだ。それが物語のレベルで表現されているのが第三段、ジーンが編集作業に没入する最初の頃だ。マーティン演じるダルベール(『MEISTER』主役)とそのプロモーター(?)の会話。最初に、シナリオ通りに撮ったフィルムを淡々と繋いでみせる。次に、これではダメだと、映画としての見せ方を考えながら、別の編集をする。『ポンポさん』という映画の中で、『MEISTER』という作中映画を素材に、編集技術による視聴体験の圧倒的な差異を、こうまで具体的に示しているのだ。表現者目線で観ると、これは怖い。失敗したら途端に映画『ポンポさん』の説得力を大きく失うことになる賭けだ。その賭けは見事に成功し、観客としての私は魅了された。映画表現とはこのように作られるのか、と目からウロコが落ちた。ジーンが編集作業に没頭するシーンは、原作では僅か2ページあまりに過ぎない。映画版はそこにかなりの尺を用いて丁寧に克明に表現している。そもそもこの映画自体の表現の凝り方はまさに「編集の魔術」といえる。場面転換の工夫とか上述の時間の巻き戻しとか、むちゃくちゃ凝ってるなーと思いながら観ていた。それがこの第三段でメタ的に(どちらがメタに当たるのかは咄嗟に分からないが)表現されていて、素晴らしい。

 映画オリジナル展開の第四段にも言及しておこう。第一~三段(原作のストーリー)でオリジナルキャラクター・アランが出るシーンは、原作ファンだからかも知れないが、なんだか取って付けたみたいに思えた。しかし第四段に入り、ジーンが追加シーンを撮りたいとポンポさんに願い、一度解散したスタッフチームを再招集する労力と費用をポンポさんが引き受けたものの、銀行が融資を渋り事業が頓挫しかける。アランは一人の銀行員として、この事態をひっくり返すことに挑む(具体的な戦術は映画館で観て欲しい)。ここで得心した。アランは映画作りの表現現場とは何の関係もない存在に見える。しかし、そうではない。先ほど「映画は興行だ」と書いた。経済的基盤があって初めて映画を製作することができ、映画館に掛けられ、人々の目に、心に、魂に届くのだ。映画作りに関わる様々な立場の人たちへの愛を込めた原作『映画大好きポンポさん』、その映画化に当たって映画オリジナルの人物・エピソードとしてスポンサー関係に着目したのは、まさに慧眼ではないか。

 もうひとつ、第四段はこの作品の冒頭から密かに準備されていたことが明らかになる。作品の冒頭はポンポさん、ナタリー、ジーンのインタビューカットから始まる。実はこの辺りからしばらく、観ていて少しハラハラした。というのも、原作を読んでいる私にはキャラクターが分かるけれども、初めて映画で観た人にとっては説明がないままなので、唐突感を覚えるかもと思ったのだ。その感覚はじきに忘れてしまい、映画に没入した。そして第四段の危機的な展開の最後に、冒頭の映像の意味するところが明かされた。そうか、あれは、そういうことだったのか! 冒頭の違和感は小さなフックとして意識の底に沈み、ここで見事に引き上げられた。まさに編集の妙だ。

 エンドロールでは、登場人物たちのその後の様子が映し出される(全部静止画だったかな)。そのうちの一枚、アランがジーンと肩を組んで自撮りをしているシーン。背景には、映画の大成功を示すようにビルに大きく掲げられた『MEISTER』の広告。そう、原作には登場しないアランは、映画の中で間違いなく『MEISTER』チームの一員であったのだ。この映画は原作を正当に受けとめ、拡張することに成功した、そう確信させてくれる一枚だった。

 最初に「できれば原作を読んでから映画を観てほしい」と書いた。その理由は、この順に愉しむことによって、映画がどれだけ原作をリスペクトし、その上で映画ならではの表現を追求しているかが、よく分かるからだ。

 再度、保証する。この映画は傑作だ。そして、これも保証しよう。原作シリーズも間違いなく表現者魂を震わせてくれる。

(4)終わりに

 原作に出会った頃、小説『やくみん! お役所民族誌』はまだ混沌とした構想でしかなく、遠い将来に公務員を定年退職したら書こうと思っていた。その後まさかの早期退職を思い切り、今は家業や司法書士試験勉強の傍ら『やくみん!』連載準備を進めている。中期的生計不安の中、小説なんか書かずに司法書士試験勉強に集中した方がいいのでは、と理性はささやいている。しかし魂は、この小説を形にし世に出したいと叫んでいる。

 そんな時に、この映画を観ることができた。小説表現を志す者として、どれだけ勇気づけられたことか。心から感謝したい。この恩はもちろん、小説を書くことで世に返す。

■【累積2h2m】本日の司法書士試験勉強ラーニングログ
実績0分(この映画評書くのに時間を割いた、悔いはない)

■本日摂取したオタク成分(オタキングログ)
『捨ててよ、安達さん』第3話、この回かな、以前に評判聞いたの。

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