炎上について「やりすぎ」とは

 いわゆる「ゆきすぎ」の問題

「黒人の権利は守られるべきだが、BLMのやっていることは、あまりにもゆきすぎのようだ」という人がいる。
「女性の権利は守られるべきだが、昨今のフェミニストのSNSでの言説は、あまりにもゆきすぎのようだ」という人もいる。
「性的少数者の活動はよろしいが、同性婚だとか行政手続きの変更まではゆきすぎのようだ」という人もいる。
「職場でのパワハラや人権侵害は確かにひどいが、経営者にもそれなりの苦労があるものだ」という人もいる。


実際はどうか。たしかに、インターネットで流れる情報ではいささか「はめをはずし」ているところがみられる場合もある。
失言をした者を炎上させて、社会的に抹殺する。なにかというと大企業の役員や政治家の過去の悪だくみを掘り起こしてきて、インターネット中をひきまわし、「劣紳め! きょうこそ思い知ったか!」といって、言いたい放題のことを言い、なにもかも常軌をはずし、一種の恐怖現象さえつくりだしている。
これが一部の「中道」や「ノンポリ」の人たちのいう「ゆきすぎ」であり、「あやまりをただすのに、度をこした」ことである。
彼らのいいぐさにも一理あるようだが、実はやはり間違っている。

第一に、先に述べたようなことは、いずれも大企業の役員や政治家をはじめ権力者や、既存の秩序により利益を得る者たちだけに留まらず、不利益を被らない黙認者たちまで含め全員が、彼らや彼女たちをそのように追い詰めたの結果なのである。
いままでその勢力をたのみにしてのさばり、彼らや彼女たちを踏み付けてきたからこそ、このように大きな反抗をするのである。

反抗がもっともはげしく、騒ぎがもっとも大きかったところは、みな権力者の悪事がもっともひどかったところである。彼らや彼女たちの目には、少しの狂いもない。
だれが悪らつで、だれが悪らつでないか、だれがもっともひどく、だれがそれほどでもないか、だれはきびしく処罰し、だれは軽くてよいか、それを人々は非常にはっきり計算しており、不当な処罰をするようなことはめったにない。

第二に、既存の秩序により抑圧されてきた人々が、その秩序をひっくり返すというのは革命であり、革命は、客をごちそうに招くことでもなければ、文章をねったり、絵をかいたり、刺しゅうをしたりすることでもない。
そんなにお上品で、おっとりした、みやびやかな、そんなにおだやかでおとなしく、うやうやしく、つつましく、ひかえめのものではない。
革命は暴動であり、新しい秩序が既存の秩序をうちたおす激烈な行動である。
革命は、その最大の力をそそがなければ、何千年ものあいだ深く根をはってきた今までの秩序は決してくつがえせない。
何千何万の大衆を奮い立たたせて、これを大きな力にしていくには、大きな革命の激流がなければならない。

先に述べたような、いわゆる「ゆきすぎ」の行動は、大きな革命の激流によって奮い立った人々の力が生み出したものである。こうした行動は、革命の時期には、大いに必要なことである。

すべての既存の秩序におもねる顔役衆の権力を打倒し、顔役衆を地べたに叩きつけ、そのうえ足で踏みつけることまでしなければならない。

全てのいわゆる「ゆきすぎ」の行動も、革命的意義をもっている。率直にいえば、短期間の恐怖現象を作りださなければならない。
そうしなければ、決して反革命分子の活動を弾圧することはできないし、顔役衆の権力を打倒すこともできない。誤りを正すには、度を超さなければならず、度を超さなければ、誤りは正せないのである

中間派のこの「ゆきすぎ」議論は、既存の秩序の保守のための議論とは、表面上ちがっているが、実質的には、おなじ観点に立っているのであって、やはり特権階級の利益を守る理論である。
このような理論は、運動の盛り上がりをさまたげ、結局は、革命を破壊するものであって、これには断固として反対しないではいられない。

ってマクドで隣のテーブルの座ってた女子高生二人組が言ってた。


毛沢東選集第1巻 第一次国内革命戦争の時期
湖南省農民運動の視察報告(一九二七年三月)より
『いわゆる「ゆきすぎ」の問題』より引用

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