日記 4月1日は記念日

・4月1日だ。記念日だ。私のニート記念日だ。
丁度まるまる1年間ニートしていたことになる。
昨日の駅散歩の疲れで一日中寝ていた上、インターネット上はエイプリールフールで盛り上がっていたので、夜になるまでそのことに気が付かなかった。私は流行りやイベントの茶番性を痛々しく感じるタチなので、
「やってんなあ」と斜に構えていた。この日記に嘘は一つもありません。
 
やはり1年間ニートしていただけあって、私のニート観は落ち着きつつある。(ニートになりたての頃は「ニートは幸福でなければならない」論や「ニートは受動的に行動できるべきである」論を振りかざし、自分自身がその理想に追われ、疲弊しきっていた。)
今何かニートはこうあるべきと語るとするなら、私は「ニートは曖昧さを受け入れるべき」と言おう。
例えば「働く」「働かない」「憂鬱」「爽快」「幸福」「幸福じゃない」「生きたい」「死にたい」など、自分の中だけだとしても何を考え、何を決定するかを決断していたいとつい思ってしまうかもしれない。
それを、曖昧のまま、確立しないで生活を進め、ひたすらに受け入れる。
それがニートには必要なのではないかと思う。
多くのニートは「責任」が苦手だ。私も大の苦手だ。
決定を放棄し、感情も放棄し、抽象的なものを抽象的なままにしておく。
それが、結局ニートをニートらしく幸福に寄与するのではないかと考えている。
しかし、まだ1年しかニートしていないだけあって、この考えも特に練られてもいないし、未熟だ。もっと立派なニートになるべく、ゆるやかに精進していこう。

 
・記念日の私は午前中は全て眠りについやし、午後も散歩に出掛けようと思うだけ思って4時まで眠り、それから祖母に頼まれていた買い物をするべく近所のスーパーまで歩き、スーパーの情報量の多さに圧倒され泣きそうになりながらなんとか頑張り、帰り道は雨に降られた。
水無しで薬を飲めない私はロラゼパムを飲むのを諦め、早歩きで帰った。
家に着いてからは祖母とクリームコロッケを作った。
ホワイトソースを私が作ったのだが、レシピ通り作ったつもりなのだが、なんだかモロモロになってしまい、「作り直そうかなあ…」なんてしょげていたら、祖母に「大丈夫よ、きっと美味しいよ」と励まされ、何とか最後まで作りきれた。
味はまあまあ美味しかったから良かった。

 
・夜、小川洋子さんの文章がどうしても読みたくなり、小川さんのエッセイ「妖精が舞い下りる夜」の二つの話だけ読んだ。
二つしか読めなかった。内容にではなく、小川さんが紡ぐ言葉そのものに酷く感動し、涙があふれてきた。
特にこのエッセイに収録されている「輪郭と空洞」は本の序盤に出てくる話なだけあって、何度も読んだことがある話だ。
それなのに、たまらない気持ちになる。
感情が揺さぶられて、どうしようもなくなる。
励まされるわけでも、慰められるわけでもないこれら遠くて近い文章をこの全く大切でも何でもない記念日に読み、また明日からも、私はニートを続ける。

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