日記 渦、自殺、納得、

・悲哀感や憂鬱がデフォルトになった私の感情が、それらダウナーなものでも、躁が頭の中を暴れているアッパーなものでもないとき、ものすごく不安定になる。
今にも風の力で坂を転がり落ちそうになっている石を眺めているような気持ちだ。
もしくは、自分の身体や内臓が宙に浮いているような、無重力のような感覚がある。

ずっと「正しい自殺」「納得のいく自殺」って何だろうと考えている。
(2024/03/09の日記「生きるために「正しい自殺」について考える」参照)

誰かそれを教えてほしい。死ぬ理由が欲しい。胸を張って死にたい。

苦しいとか悲しいとかそういう病気の結果の感情ではなく、楽しいとか嬉しいとか思った時に死にたい、そしてその感情から逃げたいと思うのは、どうなんだろう。
感情は出来事や考えを自分の脳をトンネルとして通した結果に過ぎないが、それは自分自身を由来としているものだ。
すなわち、「指が折れたから腕を切断する」のような不適切な処置というより、「生きている限り指の痛さは逃れられないので、それを無くすために腕を切断する」に近いのではないだろうか。
結局それが最善とは言えないのだけれども、生きている限りその感情からは逃げられない。のであれば自殺は納得できる……?????

結局、「病気だから死にたいって感情が生まれている」と言われてしまえばそれまでで、この思考の渦も、なんの意味もない。
「生きている限りその感情から逃れられない」のかどうかは、人生かけないと証明できない事柄で、たった時間、数日、数か月、数年考えていたところで「納得のいく自殺」は出来ない。

しかし、私はやたらと「納得」とか「正しさ」に拘っているけど、自殺にそこまで必要なのだろうか?
死んだら“無”になると思っている私にとって「後悔する自殺」も「後悔しない自殺」も存在しない。
生の連続が途絶えた後に何もないのであれば、その“途絶え”に関して納得する必要なんてどこにもない。
存在するのは、生の連続が途絶えなかったその先にのみに存在する「生きてて良かった」という一方的な感想のみだ。

自殺が怖いから先延ばしにしているだけなのではないだろうか?
そうかもしれない。いや、きっとそうだと思う。
先ほどの日記でも書いた通り、その拘りは自殺を遠ざけてくれるけど、実際それを心から願う人の前では無力だ。
自殺が怖いなら先延ばしにすれば良い。無理にする必要はない。もちろんそんなことは分かっている。
分かっているが……どうしても、自殺が重大で慎重に行われるべき決定とは思えない。

どうせこれも、病気のせいですか。そうですか。

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