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美術モデルとミイラ

・月に1,2回あるかないかの美術モデルの仕事を始めて、今日で11か月になった。
初めての日の日記を見ると、ただ同じ姿勢で座っていることがいかに難しいかという事をつらつらと書いていた。
同じ姿勢で長時間いると、どこに重心を置いたら良いか分からなくなり、バランスを崩しそうになる、自分の身体から足の指などが分離したような感覚になる、そして同じ場所をずっと見ているから、目線がバグり自分が今どこを見ているのかが分からなくなると書いてあった。
そう思うと、この「何もしない」という仕事も板についてきたなと思う。
重心を置く場所が分からなくなったり、身体が分離したりしたような感覚になることは無くなった。視線も、どの程度動かしたら描き手の迷惑になるかも分かってきた。
相変わらず全身は痛くなるけど、それくらいで嫌な所も特に無い。
今日は物を持って固定のポーズだったのだが、そのせいで右手が腱鞘炎のように痛い。


(私の場合は20分毎に5分休憩があるので、そこまで深刻ではないのだが)ずっと同じポーズをして何時間も過ごしていると、身体のあちこちが痛みと熱をもってくる。
全ポーズが終わって、ふーっと息をつくと、最近読んだ小川洋子さんの「猫を抱いて象と泳ぐ」のリトル・アリョーヒンのことを思い出す。
リトル・アリョーヒンは小さなからくり人形の中に入ってチェスをする。
相手の駒を取ったり、対局時計のボタンを押せない彼を、素敵な女の子がサポートする。
彼はその女の子を「ミイラ」と呼んだ。
リトル・アリョーヒンとミイラは慎ましく、清らかな友情を築いていくのだが、その二人が交わす会話は(これは所謂の声による会話に限らない。二人の会話はとてもユニークだった)この物語の最後の最後まで美しいものだった。
ポーズを終えて、家路につくとき、関節や腕の痛みを冬の寒さが冷やす。
私にも、私にとってのミイラがいてくれたら良いのにと、リトル・アリョーヒンが羨ましくなった。
思わず羨ましくなる、そんな二人なのだ。

対局は二時間でも、その前の準備から後片付けまでを含めると、彼が人形の中に閉じこもるのは四時間を超え、タイルの床に転がって硬直した関節をほぐすのに一時間以上を要した。けれどそれを辛いと思ったことは一度もなかった。その一時間はミイラと触れ合える唯一のひと時だったからだ。
ミイラは自分など何の役にも立たないのだが、という遠慮がちな手つきで、肘、膝、腰、肩、踝、顎、指、ありとあらゆる身体中の関節を撫でていった。彼女のしなやかな掌は、どんな形の関節にもぴったりと寄り添い、その隅々にまで指を這わせることができた。ああ、自分の身体にはこんなところにも関節があったのか、と彼は目を閉じたまま思った。

小川洋子 猫を抱いて象と泳ぐ


・先ほど、この仕事を始めて11か月になると書いたが、変わったのは身体や視線の使い方だけではない。
脳の使い方と、脳の使い方に対する考え方が変わったなと思う。
というのは、依頼を受けだして最初の方は、唯一自由である脳だけは存分に使ってやろうと思って、無い日記を考えたり、何かの論題について考え続けたりしていた。
しかし、(これは何度も書いているが)無の刺激の中で考えることを強制するのとは極めて難しい。正直気が狂いそうになる。
それでも、しないといけないんだと謎の使命感のようなものに追われ、終わる頃には疲弊しきっていた。
帰り道には「温いプールに沈みたい」としか考えられないほどだった。

今書いていて思ったが、これも資本主義的な考えではないだろうかと思う。
資本とは、つまりお金になるもの何でもだ。
時間も体力も脳も、お金につながるなら資本に含まれる。
私は「無駄にしてしまった」と思うこと自体が資本主義的な考え方ではないかと思う。
勿論、私がなにか考えたり書いたりしたからといって、一円にもならないのだけれども、「使える脳」という資本を最大限有意義に使わなければならないという使命感は、資本主義から派生しているのではないだろうか。

その「脳の使い方に対する考え方が変わってきた」というのは、その考えがあってだ。
どうせ無を売っているのだから、別に何も考えなくても良いのではないのだろうかと思うようになった。
それで今日はbeatboxについて空想したり、リトル・アリョーヒンについて思いめぐらしたりしていた。
無駄とか無為とか、もう考えるのをやめにしたいと思ったのだ。
私はまだまだ無職の資本主義者だけど、無を愛する無職になりたいと思ったのだ。

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