狂った無職は短歌を詠もう
・なにかボタンが掛け違っているみたいに皮膚の内側がバグっている気がする。休んでも休んでも疲れている。食欲は無いのに食べても食べてもお腹が空く。お腹が空いているのに吐き気がする。
多分鬱の波なんだと思う。
視界がチカチカ点滅しているみたいだ。彩度がなんだかおかしい。
眩しいようにも見えるし、モノクロのようにも見える。
これは何度も書いてる事だけど、鬱の時って特に時間が滑らかで捉えられない。一日何をしていたか記憶に残らない。午前中みっちゃんと散歩に出掛けて、その後みっちゃんの家で古代イスラエル人の幕屋の模型を見せてもらったことは覚えているけど、その後何していたかが覚えていない。
スマホからnote以外のSNSを消したから、SNSをだらだらと見ていたわけではないことは分かるけど、動画を観ていたわけでも読書をしていたわけでもないのに、気が付いたらこの時間になっていた。
ふと、LINEの自分一人用のチャットルームを見たら、新しい短歌が出来ていた。
そうだ。多分、多分天井を眺めながら短歌を作っていたんだ。
ここ数日元気が出ないから自室で寝っ転がってずっと短歌を考えている。
そこまで良い作品が出来るわけじゃないし、自分としてもまだ気に入る作品が出来るまではいかないのだけど、短歌にも短歌を考えるのにもハマっている。
まだ数冊の歌集を読んだことがある位で、きちんとした作り方を学んだわけではないから作るにあたっての考え方も正しいのか分からないけど、自分が考えていること、考えたい事を具体的な言葉にしてそれを組み上げていくのはとても楽しい。
私の場合、だいたい一つ入れたい言葉を考え、それを結句(最後の7の部分)に入れる。
それに合わせて四句も考える。それが出来てから初句、二句、三句を考える。
わざとらしく難しい言葉を使わないということは穂村弘さんの短歌で学んだ。
等身大の自分の考えた事をテーマに書くということは萩原慎一郎さんの短歌で学んだ。
自分が美しいと感じているものについて熟考するということは木下龍也さんの短歌で学んだ。
・短歌について延々と考えていると、短歌と無職って相性が良いのではないだろうかと思えてきた。
無職をやっている人で宗教や哲学を熱心に学ぶ人は多いけど、それはやはり考える時間、自分と向き合う時間が多いからだと思う。
本を読む時間も山ほどある。鏡と本とインターネットしかない自分一人の部屋で延々と自己と対話し、ますます傾倒していく。そうやって鋭利で面倒くさい厄介思想人間クンが生まれるというわけだ。
そして、考え考え、だんだんと自分の思想がゲシュタルト崩壊していく。
自分が考えていることに何か意味があるのか、自分が信じ探求している物は全て空虚なハリボテで、真理なんて無いのではないだろうか。
そこで考えることを短歌に置き換えてみる。
短歌は1冊の好きになれる歌集に出会えれば、自分がどんなふうに作りたいか、どのように吐露したいかがうっすらと見える。
その歌人になり切ったつもりで、自分がぐつぐつと煮込んだ思想をリズムにあてはめて作ってみる。
ずっと思想そのものについて考えてきたところ、その思想を言葉にする、それも短歌にするということに脳みそを使うことにする。
思想や哲学や宗教の本とは違い、歌集は学ぶための本ではなく、寄り添ってくれるための本だ。
自分の言葉をどのように組み立てたら良いか、どの視点で書けば良いかヒントを与えてくれる本だ。
歌集は1冊一気に読む必要はない。好きなページをパラパラと開き、目に入った歌を一つ読むだけでよい。
一ページに作品は多くても8首くらいで、情報量が実に少ない。
天井を眺めながら短歌を作り、思い詰まったら歌集を開き、ひとつひとつゆっくり噛みしめる。そしてまた短歌について考える。
時間はゆっくり過ぎるのを感じるだろう。
短歌の世の中での役に立たなさもちょうど良い。
急いで作る必要なんて全くないのだ。
誰も期待していない。
ただ、脳の中に煮えたぎる思想を花束のように飾り付け自分の部屋に飾るようなものだ。
そういう短歌を作れたらいいと思う。
最後に今日一日天井を眺めながら作った短歌を並べて終わろうと思う。
「天井を眺めて二酸化炭素吐くわたしを律儀に責める秒針」
「“生きてる”が面倒くさくて重たくて死んでしまいたい お腹が空いた」
「誰一人解を知り得ない希死念慮 神が身を屈め因数分解」
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