日記 脱コンテンツ

・自らの希死念慮や生き続けていることへの疑問視と真っ向から向き合うのが嫌で、日記を書くことも、人と話すことも、さらにはぼーっとすることさえも避けて生活しがちになった。
主治医の「攻めの井上」先生に「1日10時間以上は寝ないでください」と言われたにも関わらず、予定をキャンセルしてまで寝ている。
起きている時間は食事をしているか、YouTubeで「オードリーさん、ぜひ会ってほしい人がいるんです。」を見ているかしかどちらかだ。
オドぜひを見ている時間以外はずっとバッググラウンド再生のように「死」について考えてしまう。オドぜひのくだらなさに生かされている。
 
・半年前とかの日記を読むと、希死念慮に対するメタ認知に嫌悪感を抱いていたことが分かる。
無職は幸福でなければならない。幸福な無職こそ正真正銘の無職だと思っていた。
そう思うと、今は感情に対する感情が自由だなと思う。
自分をコンテンツとあまり思わなくなった。
「自分はこういう人間です」と型にはめる必要はないと理解しているような気がする。
幸福ぶることも不幸ぶることも無くなった。
本を読むのも、義務感やプライドに動かされて読むことは無くなり、気の赴くままに本を選び、途中で読むのをやめてしまうこともある。
能動的に行動できることを理想としていたが、それすらなくなりつつある。
肯定を含みつつ、かつ自分はつまらない人間だと理解したような気持ちでいる。
実際本当につまらない人間になった。生きる意味も死ぬ理由も探すことから目を逸らし、ただ二酸化炭素を製造するだけ。それでも、オドぜひと睡眠のみに一日を費やしても、なんの罪悪感も落伍者意識も芽生えない。
 
先週日記を書いた日は、思考の渦にいてどうしようもなく混乱していたけど、今は凪だ。
生きるのやめてしまいたい気持ちはあるけど、今は言いたい事も聞きたい事も思いつかない。
とりあえず、とりあえず今日は死なないで、寝ようと思う。

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