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ヒロイック・ファンタジー小説「兄弟と古屋敷」

第一幕

 私たちの廃屋探検も、これで最後の一部屋だ。かつての客用寝室もまた、軋みや腐食、カビ臭さと薄暗さに満ちていた。
 金になりそうな家具調度は、全て失われている。唯一、残っていたのは玻璃の姿見だ。当時も今も硝子で作った鏡は貴重品である。競売のために持ち出すには壊れやすい厄介物とみなされたのだろうか?
 祖父の遺産目録に目を通して、玻璃鏡のことは知っていた。だが、実物を見るのは初めてだった。

 なんとはなく鏡を見つめると、兄さんが剣を振りかぶる様子が映っていた。ちょっとしためまいも感じた。
「よせって、冗談は」
 笑いながら振り向くと、カレン兄さんは怪訝そうな顔で立っている。
「なんのことだ、アレン?」
 鏡像ではない実体の兄さんを見つめる。手にしているのは角灯だけで、利き手は空にしている。剣は鞘に収まっていて封印されたままだ。
「いや、なにって」
 再び前を見ると、兄の鏡像が剣を振りかぶって、いままさに振り下ろそうとしている。
「兄さん…」

読者の皆様へ:「兄弟〜」とタイトルが始まる本シリーズは一話読み切り形式です。たしかに、本シリーズ内の他作品で起きた事件は、本作に関わっています。しかし、他作品を購入されていなくても大丈夫なよう、説明を入れてるのでご安心下さい(単行本にまとまる前のエルリックやディルヴィシュみたいなことが、やりたいんだなと思っていただければと思います)。
 210313追記のお詫び:上記に事実誤認があり、お詫びいたします。エルリックもディルヴィシュも、作中の時系列と同じ順番で発表されていました。
 まず、単行本にまとまる前のエルリックは作中の時系列と同じ順番で雑誌に発表されていました(『この世の彼方の海』早川書房、2006の「解説」による)。また、ディルヴィシュについてもほぼ同様です。「《氷の塔》」(1981発表)のあとに「血の庭」(1979発表)がくる点をのぞけば、作中の時系列と同じ順番で発表されています(『地獄に堕ちた者ディルヴィシュ』東京創元社、1988の「解説」による)。
 以上のように「単行本にまとまる前の(中略)幸いです。」の箇所は誤りでしたので、訂正いたします。事実確認を怠っており申し訳ありません。
主要登場人物(カバー袖のアレ)
ダームダルク・・・アーク兄弟の兄。鎖鎌を持つ。
バーキャルク・・・アーク兄弟の弟。新月刀を持つ。

カレンディル・・・貴族ニルダリ家の当主、男。
アレンベル・・・・同上。カレンディルの弟。
ジラ・・・・・・・召使いの女性

 西から見た鳥返し連山は急峻なことで名高いが、桟道あるいは崖をうがって作られた道を通って連山を東に越えると、なだらかでさえぎるものが少ない、豊かな動植物相を有する丘陵地帯が広がっている。低地とちがって重厚な湿気も苛烈な暑気もないバキン=ユエセサール高原は、シンダラン随一の名勝である。高原の名は、かつてこの地の絶景を賛美した遠国の詩人の名前にちなむ。土地者の詩歌では常春の大卓と謡われる場所だ。
 山の端に太陽が隠れようかというころ、ある丘の頂上で二人の若者が野営の準備をしていた。丘の上から見渡す限りほかに人影はない。しばらく行ったところにある、石造りで二階建ての古びた屋敷だけが、周辺で唯一の人家だが、館の窓に灯りはない。

 男たちは、白鹿毛の馬を一頭だけ連れている。乗馬用であり、荷馬ではない。
「あの黒鹿毛には申し訳ないことをしたなあ」
 男たちのうち天幕張りをしているほうが呟いた。青い腰帯を動物の装飾がある金物で留めていて、鎖鎌を提げている。鎖の一端には分銅ではなく蹄鉄をつけている。
「そこの白鹿毛にもだ。二人乗りはもう御免だと言ってるよ」
 もう一人の男が応じた。腰帯は緑色で、大振りな新月刀を飾り気の無い鞘に収めている。荷物袋を覗き込み、磨り減った銅貨でも買える糧食と、女王の刻印がある金の延べ板とを交互に見つめて、ため息を付いた。
 男たちの傍らには、湿った南方でも使える二振りの木弓がある。熱地特有の年輪が無い木で、自らの手で作り上げたものだ。青い帯の男の矢筒には僅か数条の矢があるのみで、緑のほうの矢筒は空である。
 二人が顔を上げると、女王から賜った白鹿毛が草をはんでいるのが目に止まった。つけているのは手綱とハミだけだ。馬の背中にも、男たちの荷物にも、鞍はない。

 なぜ追われる羽目になったのか。まるでリスト・マーロが書き上げたような、大臣と将軍が織りなす宮廷陰謀劇のとばっちりをうけたと、いうのが真相だが、二人の若者には知る由もない。
 二人の考えでは、死体を提出することなく怪物退治の報酬を受け取ったのち、実は怪物が生きていると判明した。ゆえに怒り狂った君主が、報酬を取り返すために追っ手を遣わしたと、いうことになっている。怪物は倒したが死体を残さなかった。ゆえに同じ姿の怪物が再び現れたからといって、同じ個体とは限らない。したがって、自分たちの失敗とは言えないと、いう言い訳は無駄であると二人は考えている。
 手にした報酬のいくらかは逃走中に失われた。残る報酬のいくらかも、二人で一頭の馬に乗る自分たちを見た国境番を黙らせるための賄賂として、手放さざるを得なかった。一人が騎乗してもう一人が徒歩と、いう上下関係をほのめかす在り方を、この二人は是認しない。仮に二人称を使う必要があれば「アーク兄弟」とまとめて呼ぶよう、相手に注文をつけるくらいだ。
 二人が後にしてきた土地はアウンタ女王領といい、現在の場所はファトラーム王領という。どちらも王という称号を持つものが治めるにはいささか狭い場所であるが、シンダラン南部は群雄割拠の地として有名である。狭小な王土は、ごくありふれたもので、国のあり方も場所によりけりである。

 緑の腰帯の男が、背嚢のなかの乏しい糧食を見つめるのをやめて顔を上げた。
 雄鹿が一頭、立派な角を振りかざして、夕暮れ時の丘を歩いている。矢頃に収まるかどうかの際どいところだ。
「兄者、もらうぞ」
 低く呟くやいなや、緑の腰帯に新月刀を佩いた男は、流れるような身のこなしで、雁の羽をつけた葦柄の矢をつがえ、絹糸の弦を顔まで引き絞った。
「愚か者ッ!」
 もう一人の、兄者と呼ばれた鎖鎌を提げた男が、弓を構えた弟を押し倒した。矢は明後日の方向へ飛んでいき、唸りを上げる弦が鎖鎌の男の手にミミズ腫れをこしらえた。
 アーク兄弟は、もつれて草地に倒れる。
「何をする!」
 弟が叫んだ。
「おぬしこそ!」
 兄も、負けじと怒鳴り返す。
 お互いがにらみ合ったときにはもう、鹿は矢の届かないところへ逃げていた。目の前で食事を下げられた怒り、いやそれ以上の怒りが、弟の目に燃えている。
「俺が邪魔なら、その手で殺してみせろ。兵糧攻めにしようなどと姑息な手を考えるな」
 話しながら、弟は新月刀に手をのばそうとした。
「兵糧攻めは姑息?」
 対する兄は、鎖鎌に手を伸ばすことなく、空にした両手を弟へ向けてみせた。
 相手が武器を取ろうとしないのを見て、弟は手を止めて柄には触れず、再び口を開く。
「卑怯と言ってやろう、度胸のない奴らが使う手さ」
「まだ若いの。草原にいた頃、一度でも城攻めに加わったか?」
「ない」
 手の位置はそのまま、弟が答える。
「じゃろう」
 兄は、相変わらず素手だ。
「うるさい。たまたま兄者は城攻めの機会に恵まれただけで、年など俺と大して変わらんだろう。それより、一体どうして狩りの邪魔をした」
 弟は新月刀の鞘を叩いて、腹立たしそうに問いかけた。
「もしも、とりあえず、もしもと、いうことにしておこう。この土地が誰かの持ち物だったらどうする?まして相手は鹿だ」
「あの屋敷は空き家だぞ」
「ああ、たしかに、たしかに、あの屋敷に人の気配はない。とはいえ、もしかすると、このあたりが誰かの猟場であるかもしれんだろう」
 鎖鎌の兄がゆっくりと話しかけると、新月刀の弟も不承不承にうなずいた。王あるいは貴族が、鹿を所有物と見なしていたらと、いうわけだ。
「火も駄目じゃ。わしらはお尋ね者だからな。少しでも煙はいかん」
「ああ、分かったよ。互いに追われる身でいるうちは、殺さないでおいてやる」
 弟は、降参の仕草をしてみせた。
「おうとも。わしを姑息呼ばわりしたことは見逃してやる」
 兄は、わざと音が立つように鎖を揺すってみせた。

「兄者、あの屋敷を見ろ」
「灯りがついたな」
 前方の古屋敷の窓が明るい。日はだいぶ傾いており、屋敷の灯りは目立った。結構な数のろうそくを要するだろう灯りが、垂れ幕越しに漏れている。中には暗いままの場所もある。窓にガラスはなく、開け放たれた鎧戸と、涼風に揺れる垂れ幕が見える。
 つる植物が石壁を我が物顔で這い回っているものの、窓や扉の前では払ってあるようだ。ときおり人影が垂れ幕に映ったが、同時に三つより多くの影が表れることはなかった。
「不用心じゃの」
 星明かりの下、煙突から白いものが昇るのを見て、兄が呟いた。
「追われる身の俺たちと違って、明るくしようが、飯の匂いを広めようが、気にしなくてもいい連中というのがいるのさ」
「あの館に住む者たちは、わしらのしでかしたことを知っているじゃろうか?」
「分からん。だが、兵舎には見えない」
「俗世を離れたい貴族の別荘じゃろうか?」
「できれば、噂好きではないことを願うね」
「わしらは、あの屋敷の住人の土地に、天幕を張っているんじゃないか?」
「なにをいまさら」
 二人とも、追われる身だというのを忘れて、辺り構わず怒鳴り声を響かせたことを呪った。どちらも口をつぐむと、堅パンを硬木で作った短剣の柄と、まな板代わりの大石で挟撃する仕事にかかった。
 欠片があたりに飛び散るが、蟻も小鳥も無視している。糧食を忌々しげな顔をしながら口の中に放り込むと、革袋に詰めたぬるい水を口に含んでふやかし始めた。どんな葡萄酒でも買えるだけの黄金を持っているというのに、酒そのものを持っていないことが口惜しい。

 屋敷の方角から、小麦のパンを焼き上げ、野禽の肉を野草や香辛料と一緒に煮込む香りが漂ってくる。
 刻一刻と日が沈んでいく中、二人は継ぎ接ぎのある天幕と、二階建ての石の屋敷のあいだで目をさまよわせている。
 野営は嫌いではない。むしろ好きだと、いうほど単純な話でもない。野営をすると幼い頃を過ごした故郷の北の草原を思い出す。天幕を張るたびに、なぜ自分たちがはるばる南へやってきたのか、己を見つめなおすきっかけとなる。
 とはいえ、自分たちよりも金のかかる生活を見せつけられながら、味気ない糧食を奥歯で擂り潰し、粗末な天幕に身体を潜り込ませることに、平然としていられる者がどれほどいるだろうか。いわゆる文明的生活を一切知らない蛮人であれば平気だろうが、渋い顔で堅パンを噛み砕いている二人は、すでに文明の味を知っていた。

***

 弟が、屋敷の玄関にある木の大扉を叩いた。力を入れると穴を空けてしまいそうなくらいに古びた扉である。弟は新月刀を佩いたままだが、手をかけてはいない。鎖鎌の兄が少し下がったところで馬の毛並みを整えている。
 穴の空いた庇を支える柱の陰に、取り払われたつる植物が押し込められている。番犬は見当たらない。このごろ富貴の人々のあいだで流行っている、見張り梟を収めた籠もない。ときどき夜行性の翼ある生き物が見えるが、どれも野生らしい気ままな飛び方をしており、手懐けられた様子はない。
 しばらく待つと扉が、開いた。出てきたのは使い古した麻のお仕着せをまとった、土地の者らしくない顔立ちの娘だ。決して軽くはない扉のはずだが、重そうな素振りは見せなかった。手にはあかぎれやまめがある。
「どちら様ですか」
 娘の声には、わずかではあるが、どこか期待するような調子があった。
「僕はバーキャルクというものです。あそこにいるのが…」
「ダームダルク。そやつの兄じゃ」
 召使いが訝しげな表情をした。
「驚かせたなら申し訳ありません。異母兄弟なんです」
 弟のバーキャルクは、よそ行きの声音で問いかけた。決してわざとらしくない、社交界でも通用する口調だ。
「すみませんが、どのようなご用件でしょう。主からは何も伺っておりません」
 アーク兄弟は密かに、娘の用心深さに感心した。不用意な召使いなら「旦那様から」あるいは「奥様から」伺っていないと答えて、家族構成や家庭の力関係を明かしてしまう。いま目の前にいる娘は、見知らぬ来客に余計な情報を与えない対応を、そつなくこなしている。
「はい、どうか主様のお慈悲を頂けないかと…」
 弟が、さぞすまなそうな態度で訴えかけた。
 召使いは眉をひそめるかと思いきや、実際には少しうつむいた。
「ジラ、誰が来たんだ?」
 奥から男の声が聞こえてきた。
「少々お待ちくださいませ」
 ジラとよばれた娘は扉を静かに閉めた。兄弟が娘の態度について思いを巡らせる暇もなく、すぐにまた扉が開いた。
「失礼いたしました。お客様、どうぞお入り下さい」

 屋敷の玄関に足を踏み入れると、二人の男が並んで迎えに出てきた。アーク兄弟と同じくらいの年頃で、土地の者らしい容貌をしている。どちらもよく似た顔だ。年上に見えるほうが一瞬だけ眉をひそめたが、すぐに笑顔を作って挨拶を述べる。
「お初にお目にかかります。私はカレンディル、ニルダリ家の七代目当主です。当家は、いま玉座におわしますファトラーム王の遠御祖のころから、すなわち王朝が始まったときより臣従してきた譜代の家系にございます」
 相手は慣れた様子で口上を述べたあとで、隣に立つ男の紹介にかかる。
「こちらは弟のアレンベル」
 館の主達は両名とも作法通りの仕草をしたが、口を開いたのは兄のカレンディルだけであった。
 どちらも汚れのない絹地の服を着ており、佩いている剣は模様入りの紙を鍔元に貼り付けるという形で、封印されている。
 カレンディルと名乗った若者が佩く剣は、ファトラーム王領で主流をなす形であり、拵えは貴石を象嵌した派手なものだ。アレンベルのほうは、木と真鍮で作った地味な刀装で、剣そのものもアウンタ女王領で多くある形のものだ。
「改めまして、僕はバーキャルクといいます。こちらが兄の…」
「ダームダルク」
 いつでも武器を抜けるようにしつつ、あえてアーク兄弟は本名を口にしたが、カレンディルもアレンベルもとくに表情を変えない。
 作法にかなった身振りをして、バーキャルクがひとつ尋ねる。
「ここは国境に近いし、人里離れたところですが、物騒じゃありませんか?」
「いいえ、特になにもない、平和な土地ですよ」
「そうですか、それはよかった」
 バーキャルクは安心したように頷いてみせた。兄のダームダルクは、口を開こうともせず、微動だにしない。詐欺同然の怪物退治の話は、まだ広まっていないらしいと、二人は察した。
「なにはともあれ、はるばる北の草原からいらっしゃった北方人のお客様が、この先祖代々の屋敷にいらっしゃるとは、またとない幸運です。一生にそう何度もない機会に違いありません。私共のもてなしが北国育ちのお二人のお気に召せばよいのですが、どうか、おくつろぎくださいませ」
 慇懃な対応をする館の主の態度に、客たちは余所者を歓迎しない雰囲気を感じ取ったが、いつものこととして受け流した。北方人の顔をしているだけで野蛮人と蔑まれることに、二人はもう慣れていた。
 召使いは、命じられるよりも早く、白鹿毛の端綱をひいて厩のほうへ向かっていた。

第二幕

 玄関を入ったところの内装もまた、掃除こそされているが外装と同じように古く傷んでいた。天井の隅には蜘蛛の巣が張っていて、壁には安物の板切れが打ち付けてあり、床はあちこちで軋んだ。
 さりげなく周りを見渡したかぎりでは家具がほとんどない。貴族の住居にはつきものの細密画の施された壺や大きな額縁に入った絵、背の高い鉢植え、飾り物の武具、といった類が全く見当たらない。
「よろしければ夕食をご一緒下さい」
 厩に行った召使いのジラに代わって、カレンディルが案内役となった。
 やはり古びた見た目の食堂には、四人が座ってなお余る食卓が鎮座し、卓上には蜜蝋のろうそくをとりつけた燭台と、まだ湯気を立てている夕食がおいてある。カーリー窯で焼き上げた小麦のパンと、香辛料を利かせた野禽の煮込みだ。葡萄酒もある。
 床や壁に比べると、机や椅子といった家具は真新しく見える。使い込んだ家具にはつきものの、傷や日焼けがない。

 立ったままでいるアーク兄弟に、カレンディルが笑顔を向ける。
「ご安心してお召し上がり下さい。世間では、元の住人の身ぐるみを剥いだ悪党が、館の主人になりすまして客に眠り薬を盛って金目の物を奪い取る、なんて手口があるそうですが、私はそんな下郎ではありません」
 料理と葡萄酒について、カレンディルは自ら毒味をしてみせると、着座するよう促した。
「ありがとうございます」
「かたじけない」
 かくして食事が始まった。アーク兄弟は、貴族の食卓にふさわしい食べ方を、そつなくこなしている。安宿で同じことをしたら他の客たちの失笑、下手をすれば怒りを買うこと間違いなしだ。
「奇妙な屋敷だと思っているでしょう」
 カレンディルから切り出してきた。アレンベルは黙って座ったままである。
「ええ、まあ、なんとはなく」
 弟のバーキャルクは曖昧な返事をして、酒を口に含んだ。
「荒れ果てた別荘で家具だけは真新しいなんて、おかしいと思うでしょう」
 相手の口調には、玩具を見せびらかす子供のような響きがあった。
「あなたがそうおっしゃるなら、そうなんでしょう」
「もしよければ、お互いの身の上話でもどうでしょう?」
 カレンディルが酒を勧めながら問いかけた。
「僕は構いませんが、兄さんは?」
「ああ」
 アーク兄弟は曖昧な笑顔で応じたが、荷物と武器は手元に置いたままだ。
「ええと、お兄さんのカレンディルさんのほうが御当主でよろしかったですか?」
「はい。弟は補佐役です、私たちは、それなりに仲良くやってます。先祖代々の土地を守っていかないといけませんから」
 カレンディルは「私たち」を強調して答えた。
「僕たちも仲良くやってます。お互いに補い合ったり、足を引っ張り合ったりしてます」
 軽く笑いながらバーキャルクが応じた。
「あなたがたこそ、慣れない土地で不安じゃありませんか?とくに南方の言葉は難しいから」
「ええ、おっしゃるとおり。それにまあ、実のところ、不安というより不便です。南方の方々は僕たちを怖がって、まともに相手をしていただけない」
「まあ、それはそれは大変ですねえ」
「ええ、大変なんですよ、南方でやっていくのは」
 バーキャルクの言葉を聞くと、カレンディルは満足げに頷いた。
 食事と歓談の最中、アレンベルは黙りきりだった。料理にも申し訳程度に手を付けるだけだ。二人分の食事を三人で分ける形となったが、カレンディルもアーク兄弟も物足りない表情はしていない。アレンベルは無表情だ。
 続いて話題になったのは館の来歴だった。カレンディルたちの祖父の代に、別荘としてこの屋敷が建てられた。一族はファトラーム王領に拠点を置く貴族であり、わけあって数十年にわたり屋敷を放置していたのだが、いまでは屋敷をめぐり兄弟で対立しているのだという。弟のアレンベルは財務の点から、都の本居と高原の別荘のどちらか片方を手放すように主張するが、兄のカレンディルは先祖代々の財産を手放すなど言語道断と、いう立場だ。
「と、いうわけで、私たち兄弟は年甲斐もなくケンカをしてしまい、弟はふてくされて無言を貫いているのです」
 カレンディルは、のどが渇いたというように葡萄酒をごくりと飲んで、話を続ける。
「アレンは別荘が廃屋同然になっているのを見て、気味悪がって入ろうとしなかったんですよ。でもまあ、片付けは手伝ってくれましたがね」
 相手方の事情には深入りせず、バーキャルクは質問を繰り出す。

「カレンディル殿、先ほど片付けと言われましたが、何人でこの屋敷を切り盛りしているのですか?ジラという召使いは大層働きものですが、彼女一人では大変でしょう」
「私たちと召使いの三人だけです」
 屋敷の主はごく自然に答えた。
「それはそれは、ご多用の折、おもてなしいただき感謝します」
 弟のバーキャルクは頷きながら答えた。
 兄のダームダルクは、話に耳を傾けながら静かに盃を傾けている。
「今度はあなた方の話を聞かせて下さい」
 そう尋ねてきたカレンディルに、バーキャルクが語って聞かせたのは、嘘と真実の混ぜあわせだ。これまでに何度か使ってきたものに、最新の事情を加えてひとひねりしてある。
 ダームダルクとバーキャルクは北の草原を余すこと無く征服した大王の息子である。いまなお存命の父は異常なまでの長寿かつ、数え切れないほどの子宝に恵まれている。父は末っ子が生まれたお祝いに、アウンタ女王領から取れる金を所望した。買付のための使者として選ばれた兄弟は、貨幣の代わりに貴重な香料を持って南方まで旅をしてきたが、ある嵐の晩に宿の屋根が吹き飛び、雨によって香料が全て駄目になり、金の買付ができなくなった。手ぶらで帰るわけにもいかず、金策のために南方の熱地をさまよいはじめて今に至る。
 館の主たちは、口を挟まずに聞いていた。
 ダームダルクもまた黙っていた。盃を傾けながら部屋の様子を探ると、柱に横方向の刻み目が四つあることに気づいた。印はどれも低い位置にある。身長の記録らしい。

「アウンタ女王領ですか、実は私たちは、あの土地で長いこと過ごさざるをえなかったのです。山の向こうには先祖代々の土地があるのにと、毎日歯噛みして鳥返し連山を眺めていたものです。北の大山脈をも越えてみせる渡り鳥になれば、あの山の向こうに戻れるんじゃないか、故郷に帰れるんじゃないかと思わない日はありませんでした」
 長広舌を終えると、カレンディルはふたたび酒で喉を潤した。
「余所者だからと、嫌がらせでも?」
 皮肉ともとれる笑みを浮かべながら、バーキャルクが尋ねた。
「亡命の身でした」
「もう少しお話いただけますか?」
「ええ」

 カレンディルによれば、ファトラーム王領に拠点をもつ貴族であるカレンディルとアレンベルが、アウンタ女王領で亡命生活をおくる羽目になった理由は、屋敷の来歴と同じように祖父に遡るのだという。アウンタ女王領の近くに祖父が別荘を建てると、ファトラーム王の父が、謀反の疑いをかけて祖父を処刑した。連座をおそれた家族は、幼いカレンディルとアレンベルを連れて女王領へと逃れるも、受け入れられたのは幼子二人だけで、両親もまた処刑された。つい最近になり、ファトラーム王の宮廷で孫たちは謀反に無関係という裁定が下り、二人は赦されて先祖伝来の土地と屋敷に戻ることを許された。
「残されたのは文字通り土地と建物だけです。家具や装飾も取り返そうとしたのですが、他所から来た商人たちを相手どっての競売にかけられたとのことで、ああ、先祖伝来の宝物達が汚れた血の流れる余所者どものいやらしい手で触れられたのだと思うと、ああ…」
 目の前にいる客たちもまた余所者であると、いうことを忘れたかのように、カレンディルは大いに嘆いた。
 アーク兄弟は悪口を聞かされても、表情一つ変えなかった。
「それはそれは、心中お察しする」
 長話の労をねぎらうかのように、兄のダームダルクがカレンディルへ酒をすすめると、相手は喉を鳴らして飲みほした。
 バーキャルクも、酒でくちびるを湿らせた。
「何が腹立たしいって、弟のアレンが『家具が少ないから掃除が楽だ』なんて言ったことです。こいつはアウンタ女王領を気に入っている。先祖伝来のものが余所者の手に渡ったことは気にもとめてない」
 カレンディルが激昂しているのは、酒の勢いばかりではないようだった。

「なるほど。僕も兄さんも、うんと年上の兄によって良い放牧地から追い出されたり、やっと手に入れた種馬を奪われたりと、悔しい思いをしましたよ。あれ以来、やはり世の中を渡っていくには、強力な後ろ盾が必要だと思うようになりました。少なくとも僕はね」
 バーキャルクは苦いものを飲み込みながら語った。
「良い放牧地?いいえ、土地の良し悪しの問題ではないのです。あなた方は、先祖伝来のものを奪われた、この悔しさをお分かりになっていないようだ」
 カレンディルは拳で机を叩こうとして、すんでのところでとどまった。手は震えており、目も血走っている。視線はどこか遠くを睨みつけている。
「カレンディル殿の御武勇をもってすれば、ものを取り返すのは簡単でしょう」
 バーキャルクが自身の佩刀をはたきながら答えた。
「私たちの剣は封印されているのですよ」
 カレンディルは声を震わせながら答えた。
 蝋燭の炎が一瞬、ゆらめいた。
「ああ、馬鹿な弟が失礼な事を言ったようで申し訳ない。どうか、許してやってほしい」
 ダームダルクが机の下で弟の足を蹴りつけながら詫びた。
「大変申し訳ありません」
 バーキャルクもまた、兄に貸しを作った悔しさをこらえながら謝った。
「まことに申し訳ございません。剣を封印されているあなた方の心中をお察しできなかった、僕の不徳の致すところです」
 バーキャルクは再び詫びの姿勢をとった。
「ええ、まあ、お分かりいただければ良いのです」
 詫びの言葉を重ねると、カレンディルは表情を和らげた。
「剣の封印を甘受したおかげで、良いこともありました。別荘から馬で二日のところに、どんな名目であれ他の貴族の私兵は近づいてはならぬと、いう勅令を頂けたのですから」
「それはそれは、おめでとうございます。王からの信頼の証ですね。名誉なことです」
 今度はバーキャルクがカレンディルに酒をすすめた。
 周囲に敵兵はいない、屋敷にいるのは三人だけ。アーク兄弟は今夜の寝床が安全であることを確信した。残る心配はアウンタ女王領からの追っ手だが、かつて自領で匿っていた人間の住む土地に兵を入れることすなわち裏切りともとれる行為を、女王は避けるだろうと思えた。
 結局、最後までアレンベルは口を開かなかった。

***

「ジラ、お客様をお部屋に」
 カレンディルが命じると、召使いのジラが客間への案内をした。娘はあかぎれの目立つ手で角灯を持ち、油断している足を待ち受ける穴の空いた階段を上り、不意にうめき声を上げる廊下を歩いていった。
 月の出ない夜で、二階の廊下は暗い。壁にも照明はあるが、火のついていないものばかりだ。空気は埃っぽくてかび臭い。
「こちらでございます」
 客用寝室らしい部屋の前で、召使いが立ち止まった。扉は年季の入った木製だが、取手は真鍮製で新しいものだ。
「ところでジラさん、一つよいかな?」
「何でしょうか?」
 扉を開ける前に兄のダームダルクが問いかけると、娘は平坦な調子で答えた。
「美味しい夕餉をありがとう」
「ええ、本当においしくて、生き返るような心地でした」
 弟も兄に負けじと賞賛の言葉を送る。
「とくに煮込みがうまかった。野禽は誰が仕留めた?」
「私です。弓矢を作って仕留めました」
 とくに誇る様子もなく、召使いは淡々と答えた。
 兄弟は揃って感心のため息を漏らした。
「家は狩人なのかい?」
「そういう訳では」
「主の方々は狩りをされないのかな?」
「そのまえにこちらから一つ…」
 ダームダルクの質問には答えず、ジラが口を開いた。
「こんなことをいうと、おとぎ話を信じる娘だと思われるかもしれませんが…」
「なんじゃ?遠慮するな」
「あなた達は魔法をお使いになりますか?」
 ジラの質問を聞くと、弟のバーキャルクはニヤリと笑ってダームダルクを見やった。視線を受けて兄は顔を背けた。
「兄さん、魔法は得意ですよね?」
「魔法使いと称した覚えはない」
「このあいだ『わしには魔法が見える』と、岩を指差して得意げに語っていたじゃありませんか?僕の記憶違いですか?」
 兄が顔をそむけた方に回り込みながら、弟は畳み掛けた。
「こちらの立派な娘御が言っているのは、そういう意味ではないと思うがな」
「はい。もし魔法が本当にあるとするならばの話ですが、悪霊祓いとか呪い師とか、その手の人です。探してるのは」
 娘は大きくため息を付いた。
「申し訳ありませんが、仕事があるので戻らせていただきます」
 ジラはもう何も言わず、階下へと去っていった。

 アーク兄弟は用心深く寝室の扉を開けた。鍵はない。
 内装は他の部屋と同じで古く傷んでいる。一つだけの窓から差し込むわずかな星明かりを頼りに観察すると、家具は飾り気のない寝台が二つと、大きな鏡があるだけだ。窓には垂れ幕と鎧戸がついて、いまは開け放ってある。床に穴は見当たらない。手探りしたところ、扉には閂はついていない。
 弟はさっそく、寝台の様子を確かめにかかった。暗いところでも目につくような大きい虫や蛇の類は見当たらない。近づいて見ても十分に清潔な布団である。そもそも使われた形跡が無い。安堵の息を漏らして寝転がると、満足な笑みを浮かべた。藁ではない、綿だ。草地での野営とは、比べ物にならない快適さだろう。
「明日もここに泊まりたいなあ」
 弟は大きな独り言を口にしたが、返事はない。
 兄は鏡に注目していた。大きくて長い姿見で、扉を開けて真正面にある。いまは暗くて使いようがないが、成人した男の全身を映すのは容易い。鏡の枠は木製で幅広である。手探りしたところでは精緻な彫刻を、端から端まで施しているようだ。探る指を彫刻からより内側へと滑らせる。
「玻璃鏡じゃ!」
 鏡面を触ったとき、兄は思わず叫んだ。
「まあ、明日の朝にでも…」
 弟はあくびを交えて答えた。
 兄は姿見の方を向いて立ったまま動かない。どこか具合が悪いかのように、首を捻ったり唸ったりするばかりである。見ようによっては、珍しく風邪を引いた人間が、気だるさに戸惑っているような光景だ。
「兄者、身繕いなら朝にすればいいだろう。夜じゃ大して見えんぞ」
 返事はない。

「それとも、盗み出す算段か」
 弟が冷やかすように言うと、兄が突如として外套を持った腕を振って、布で鏡面を覆い隠した。布のせいで鏡の前に立っても、腰から下しか見えない。
「おい兄者、俺の目に当たるところだったぞ」
 夢のような寝心地を味わっていた弟が抗議の声を上げた。
「いいか、この鏡は見るな。使うな。わしには魔法が見える」
 相手に構わず、兄は宣言した。
「また『魔法が見える』か。鏡を魔法と間違えるくらいに疲れているのか?だったら早く寝るがいい」
「違う。文字通りの意味じゃ」
 兄の言葉に、弟は寝返りで答えた。
「わかったわかった。どうせ鏡なんて、俺たちには無用の長物さ」
「とにかく、見るな。絶対に見るな。わかったか?」
「ああ、わかったわかった。さっさと寝かせてくれ」
「うむ」
 兄もまた寝台に横たわり、綿の感触を楽しんだ。
 黒くかび臭い空気も、とろりとして不気味な鳥の声も、二人の眠りを妨げなかった。

***

「腹が減ったの」
「俺もだ」
 朝になっても、召使いは食事の報せを持ってこなかった。
「それにしても、放牧地の話をしたとき、カレンディル殿は随分とお怒りだったな。俺が恥を忍んで本当の話を聞かせてやったというのに」
 なんとはなしにバーキャルクから話を切り出した。
「おぬしが酔って下手を打ったのが悪い」
「そういう兄者のほうが飲んでいたろう」
「あんなものは水よ」
 ダームダルクは胸を張って答えた。
「そうかい」
「要するに、広いようで狭い南方には、南方の考えがあるのじゃ。北方のように、強い者が王となる。王が身罷れば、子孫か近所の者のなかで強い者が王になる。もし負けたとしても、殺されさえしなければ、遠くでそれなりにやっていけると、いうわけにはいかんのよ。実のところはもう少しややこしいがな」
 兄が短い講義を終えると、二人揃って腹が鳴った。
「『遠くでそれなりに』と、いうがな、こうして南方までやってきた俺たちは、朝飯にも困っているのだぞ」
「ううむ」
 沈黙が訪れた。パンを焼く匂いと、高価な香辛料で風味を付けた豆の煮込みの香りが漂ってくる。外は明るくなりつつある。
「兄者、外套をどけてもいいか」
 弟が姿見を指差した。
 木枠は複雑な杢を持っていて、屋敷が建つはるか前に芽吹いた木を使ったことが、一目瞭然である。昨晩は見えなかった彫刻飾りも、日の光のもとでよく見て取れる。どうやら戦争の一場面らしく、攻城戦において撤退を選んだ攻囲側に対する、籠城側の逆襲を描いているようだ。
「おい、鏡を見るな」
 勝手に鏡の覆いを外そうとしているバーキャルクを、兄が押し留めた。
「ちょっと使うだけだ。少しは身繕いしないと、館の主に追い出されかねん」
「駄目だ。とにかく見るな。そのままにしておけ」
「なぜだ?」
 仕方なくといった調子で弟は手櫛をかけ始める。髪は脂ぎっており、フケが床に落ちた。
「わけは言ったじゃろう。とにかく食堂を覗くとしよう」
 兄の言葉に対して、弟は肩をすくめるだけだった。
 二人は身支度よりも、普段の習慣に時間をかけた。寝台の足とドアノブを、絶妙な長さにした切れやすい細引で結びつける。結び目は真似するのが難しい複雑なものだ。ドアの前には藁をばらまく。侵入者を防ぐことはできないが、入れば跡が残る仕掛けだ。同じく、普段からの習慣で二人とも荷物を背負って武装している。
 外套は鏡に掛けたまま、二人は部屋を出た。

 階下の食堂では、すでにカレンディルが食事をしていた。高原の日ざしが柔和な照明となり、小鳥たちのさえずりが楽団の演奏となる朝食だ。アレンベルは昨晩と同じく、少ししか手を付けていない。アーク兄弟が朝食の席に現れたとき、カレンディルの顔が曇った。
 見たところ、食卓にあるのは二人分だ。
「申し訳ありません」
 カレンディルが、すまなそうな顔になって話し始めた。
「召使いが二人分しか食事を用意しなかったのですよ。気の利かない娘で本当に申し訳ない。お二方がお帰りになるなんて伝えてないのに…」
 話しながら厨房のほうを睨みつけている。洗い物の音が微かに聞こえてくる。
「いえいえ、僕たちもお暇させてもらおうと思っていたんです」
 余所者ですからと、皮肉を付け足したくなるのをこらえて、バーキャルクが返事をした。
「いえいえ、とんでもない、どうか、お客様、今晩もお泊りください。もちろん夕食付きです」
「そんな、申し訳ないです」
 バーキャルクが表情を作って答えた。隣でダームダルクが小さく唸ったが黙殺した。
「いえいえ、お客様を一晩で帰したとあっては、ニルダリ家の名折れです。どうか…」
 カレンディルは、アーク兄弟をじっと見つめている。
「それでは、ありがたくご厚意に預かるとします」
 弟が作法通りの仕草をすると、兄もしぶしぶといった様子で弟にならった。
 屋敷の主は思案顔で料理を見つめている。
「カレンディル殿、わしらの朝食のことなら結構。召使いを追加で働かせるには及ばない。馬を遊ばせるついでに、なんとかしよう」
「それは結構なことです」
「ああ、それで、厩はどちらかな?」

 外馬屋は、厨房を通り抜け、勝手口を出てからしばらくのところにあった。中は古いながらも清潔で、アーク兄弟のほかに人影は見当たらない。ぼろぼろの厩舎のなかでも状態の良いところに、白鹿毛がおさまっている。馬は飼葉桶と水をほとんど空にしていたものの、ほどほどに満足している様子だ。
 いまは八頭用の厩舎に一頭きりだが、しばらく前に二頭の馬がいた痕跡があった。黒や焦茶の抜け毛、見慣れない蹄の跡だ。
「貸し馬で引っ越しか?」
 弟のバーキャルクがつま先で、馬の足跡を指した。
「じゃろうな」
「貴族とは名ばかり、馬にも不自由する身か」
「人のことが言えるか」
「すみません、いま支度いたします」
 アーク兄弟の会話を娘の高い声が遮った。勝手口のほうからジラが仕事用具一式を抱えて小走りでやってくる。
「大丈夫。馬の面倒はわしが見る」
「僕もそのつもりです」
 返事を聞いて、召使いは明らかにほっとした様子だ。
「助かりました。朝ごはんはいかがなさいますか?」
 娘が落ち着いた声で問いかけてきた。
「大丈夫、わしは何とかできる」
 兄の言葉を追いかけるように、弟も頷いた。
「よかったです」
「その朝餉のことじゃが…」
 兄のダームダルクは周囲を見渡し、声を低くして続ける。
「何人分の朝餉を注文されたのかな?今朝のカレンディル殿は」
「二人分と、仰っていました」
 ジラが申し訳無さそうな顔で答えた。
「そうか」
「ああいう方でいらっしゃいますから、私から『お客様の分は?』とは言えず…」
 土地のものとは異なるところのある容貌の召使いは、すまなそうに述べた。
「いや、気にしないでくれ。それよりも、喉が渇いたと馬が言っておる」
「ありがとうございます。道具は置いておきます。川の場所はご存知ですか?」
「いいや」
「しばらく歩くことになります…」
 ジラは話しながら厩舎の床をひっかいて、要点を得たわかりやすい地図を書いた。人と馬の両方に有毒な草の密生地や、鳥が食べているからといって手を出してしまう人間が絶えない猛毒の果樹の場所、油断していると兵士でさえ大怪我をするような獣の縄張りも教えてくれた。
「ありがとう。本当に助かる」
「礼は要りません。ついでに薪拾いと、ご自身の洗濯もお願いします」
 召使いは真顔で言い切った。
「館の主たちにも同じことを?」
 愉快そうにダームダルクが応じた。
「こちらから頼みはいたしませんが、手が足りなければやらざるを得ないことはご理解してらっしゃいます」
「そうか、それはなにより」

「でも…」
 娘の目に不満そうな色が浮かんだ。
「でも?」
「本当は都の居館で働きたいんです。都なら、他の屋敷に仕える使用人たちがいるでしょう。庭先で垣根越しにおしゃべりしたり、出入り商人の小僧に頼めば下手なりに文通ができるはずです。仕事のこととか、ご主人達のこととか、自分たちのこととか…。もっと自分と同じような人たちがいる場所で、要するに使用人仲間が、心置きなく話せる仲間がいるところで働きたいんです」
 ジラの話をきいて、兄弟は顔を見合わせた。
 お互いが王位継承候補である以上、必要に迫られて協力することはあっても、ある程度は距離を置かざるを得ない。本当ならばしたくはないのにすると、いう点だけを取れば、館の主達とジラとの関係は、自分たち兄弟の関係と似たようなものだ。
 もしも兄弟が、自分たちもまた仲間がいない身なのだと境遇を語って聞かせたら、ジラは喜んだことだろう。とはいえ、思っていた以上に話好きらしい娘に、兄も弟も素性を明かす気にはなれず、ただただ頷いて話を聞くばかりだった。
「それにしても、お兄さんと張り合いながら礼儀正しい客人を演じるのは大変でしょう」
 ジラは微かな笑みをバーキャルクに向けると、素早く館へと戻っていった。

「おぬしは、いつまであんな館に留まる気じゃ?」
 教えてもらった川で、兄弟は洗濯をしている。馬は草と水の両方にありつけるよう、綱を長く取って手頃な木につないである。兄弟の目の届かないところに行こうと思えば行けるが、人の目を盗んで獣や蛇の潜んでいるような茂みに入り込む、愚かな馬ではなかった。
「ほとぼりがさめるまでだ」
 弟が短く返した。
「わしは気に入らんな」
「なんだ、余所者嫌いの屋根の下で寝るのがいやか?食事に毒をもられたり、布団に蛇を仕込まれたわけでもないだろう。飯も寝床も申し分ない」
「話を逸らすな」
「アレンベルのことか?意地っ張りなだけだろう」
「わしらと同じくらいの年だぞ。ろくに飯も食わずに生きているのは妙だろう。ケンカをおっ始めたのがいつかは知らんが、食ってないならもっと、やつれているはずじゃ」
「隠れて食ってるのさ」
 弟のバーキャルクは洗濯の手を止めずに答える。
「では、今日の朝飯を二人分と頼んだ屋敷の主が、わしらを今日の夕飯にまで招いたのはなぜじゃ?おかしいじゃろう」
「そんなことはないさ」
「ほう」
 兄のダームダルクは片方の眉を吊り上げた。
「カレンディルは、いつもの癖で朝飯は二人分と注文した。召使いは主人の言葉を疑うわけにはいかないから、素直に二人分の食事を作った。主人はお詫びとして、俺たちを夕飯に招いた。これだけのことさ」
 ながらで弟が応じた。
「だがな…」
「要するに、鏡さえ見なければ良いのだろう?」
「分かった。折れよう。おぬしは鏡を見ない。わしは、おぬしの言い分を認める」
 兄がため息をついて言った。
「俺たちはお尋ね者なんだからな。あちこち動いて、珍しい北方人の顔を大勢に晒すよりも、たった三人しかいない、わざわざ訪れる客もいないだろうボロ屋敷に隠れるほうが安全なのは、兄者にも分かるだろう」
「分かった分かった。温かい飯と柔らかい寝床の誘惑に負けたことを隠すには、たいそう上手な言い訳じゃ」
 二人は水をかけあい、笑いあった。洗濯はすんだ。あとは適当な木の枝で干すだけだ。薪拾いと馬の世話は、交互にやればよい。

 それからしばらく、アーク兄弟は朝晩の食事が確実に保証されている堅い屋根の下での生活を楽しんだ。自分たちの洗濯と馬の世話、客間の掃除をしながら、召使いのジラの手伝いもした。人手が足りるようになったのか、屋敷の主達の家事姿を見ることはなかった。
 ある日、たらふく水と草をつめこんだ馬を連れて、兄弟が館に戻ったときのことだ。
 屋敷の裏手で、ジラが野禽の毛をむしっていた。傍らには弓矢がある。
「おや、ジラさん。今日も成功か」
 兄のダームダルクが呼びかけた。
「ええ」
 召使いの娘は、視線を動かすこと無く答えた。
「なあ、一つ頼みがあるんじゃが…」
 兄は近づいて腰を下ろした。
「なんですか?」
「もしよければ、その羽根をいくらか、譲ってくれないか。矢作りに必要なんじゃ」
 兄の後ろで、バーキャルクも頷いている。
「構いませんよ。好きなのをどうぞ」
「かたじけない」
「ありがとうございます」
 兄弟は揃って礼を述べた。
 ジラは兄弟に構わずに作業を続けていたが、手つきは幾分丁寧なものになり、むしるというより抜き取るような仕草に変わった。
「しかしまあ、本当にいいのかい?カレンディル殿が羽ペンを欲しがったりしないのか?」
「いいえ。ペンなら、もっといいのをお買い求めになりました」
「そうか」
 ダームダルクは口をつぐむと、弟とともに羽根の選別にかかった。

***

 羽根を手に入れた次の日の朝食後、アーク兄弟は食堂の窓から見える木立の中に、猪の姿を一瞬だけ見た。大きな犬かそれ以上の体躯である。
「夕飯は猪がいいな」
 カレンディルも気づいたらしく、皿を下げに来たジラに話しかけた。アレンベルは申し訳程度に食事を口にしたあと、すぐ部屋に引き上げていた。
「かしこまりました」
 召使いは淡々とした態度で厨房に引き上げた。アーク兄弟は、その背中をなんとはなく眺めていた。とくにそれ以上の会話もなく食事を終えると、カレンディルも部屋に戻って、アーク兄弟は皿を持って厨房に入った。
「わしは厩に行くよ」
「僕も」
 皿を洗い桶につけながら、アーク兄弟はジラに告げた。
「わかりました」
 兄弟は、勝手口を抜けて厩へと向かった。風が、木と草と土の匂いを運んでくる。
 ごく自然と、猪の話題になった。
「兄者、あの猪はうまそうだったな」
「ああ、煮るもよし、焼くもよし」
「宮廷風に蒸したり揚げたり」
「おぬしのいう宮廷風はどうもあやしい」
「実際に見たのさ、王の食事を作る特別な厨房でな」
「そうかい」
 他愛のない会話をしながら、馬の毛並みを整え、汚れた敷き藁を始末する。あとは新鮮な水と草のあるところまで連れ出すだけだ。
「ジラさん、今日も狩り、か?」
 ダームダルクとバーキャルクは、馬を連れ出したところでジラを見かけた。狩りに行くようななりをしているが、召使いが持っているのは弓矢ではなく、厨房で使う一番大きな焼串だ。茶色にぬれば槍と間違えてしまいそうな代物である。
「ああ、ちょうどよかった。馬を借りられませんか?」
 ジラは串やらナタやらの荷物を壁に立てかけて、兄弟がひいている白鹿毛を眺めた。体つきや毛並み、脚が丈夫かどうか、子細に観察しているようだ。ジラは馬の周りを歩いて、馬体を余すところ無く見ている。
「馬が、どうかしたかな…」
 ダームダルクが不安を隠した顔と声で尋ねた。バーキャルクも兄と似たような表情だ。
「猪狩りに借りられないかと」
 対するジラは何ということはないという調子だ。
「猪狩り?一人で?」
 ダームダルクは心の片隅では安堵のため息をつきつつも、別の意味で驚いていた。
「一人では大変じゃろう」
「ええ、運ぶのが」
「狩りのことを言ってるんじゃが?」
「慣れてます」
「まるで何頭も仕留めてきたかのような言い方じゃな」
「二頭仕留めました。館の主が引っ越してきた時に」
「どうやって?」
「そんなことより、馬を貸してくれるんですか?」
 召使いはじれったそうな顔をしている。兄のダームダルクは心配顔のままだ。
「ああ、ジラさん。僕たちの馬なら貸しますよ。僕たちも連れて行ってくれるならと、いう条件づきで。いいでしょう、兄さん?」
 沈黙を保っていたバーキャルクが口を開いた。
「ううむ…。まあ、いいだろう」
「ありがとうございます」
 ジラは返事を聞くなり、焼串を抱えて木立の方へと歩いていった。アーク兄弟は無言で見つめ合い肩をすくめると、馬をひいてジラを追いかけた。

 道を外れるとそれなりに背の高い草もある。高々と照る太陽を浴びながら、ジラはナタで、アーク兄弟は両腕で、丘陵という黄緑色をしたうねりのある浅い海を切り開きながら、草地と森林の境目を目指している。
「ジラさん、俺たち、猪を勝手に獲って大丈夫なのか?」
 屋敷を離れ、もはや猫をかぶるのをやめた声でバーキャルクが問いかけた。
「大丈夫です。林の中もカレンディル様の土地で、全ての動物を狩る許可をいただいてます。引っ越してきたときにも、馬を借りて猪狩りをしました」
「本当か?」
「大丈夫じゃよ。もしも、わしらを密猟者呼ばわりして追い出すつもりなら、留守にした隙に矢傷のある鳥の死体を部屋に放り込まれたりしたはずじゃ」
 最後尾のダームダルクが口を挟んだ。
 話しているうちに、伐採されずに残っていた木々の姿が、一本二本と、どんどん大きくなってくる。
「それよりジラさんや、どうやって猪を狩るんじゃ?」
 ダームダルクが、二本しか残っていない矢筒を見ながら問いかけた。ジラは弓矢をもってきていないし、弟のは空だ。
「待ち伏せます。泥浴びした身体をこすりつける木の上で」
「その焼串を投げるのかな?」
 再びダームダルクが問う。
「いいえ、飛び降りて刺します」
 あまりにも大胆な狩猟法に、アーク兄弟は目を丸くした。
 召使いは、兄弟には構わず淡々と歩いていき、森林の中に入った。真昼の日差しを樹冠が遮って、寺院の敷地を少し暗くしたような空間が広がっている。木々の密度も下生えの高さも、歩くのに困らない程度だ。ときどき吹き抜ける風が、団扇のように大きな葉をざわめかせる。兄弟には、この場所が人の侵入を拒む密林ではなく、備えさえしておけば十分に楽しめる場所だと思えた。
 ジラがふたたび口を開く。
「あなた達二人には、勢子をお願いします。一人だと、ひたすら待つだけで面倒ですが、勢子に追い込んでもらえるなら、猪が泥浴びにやって来るのを待たずにすみます」
「勢子か。馬に乗るほうがいいだろうなあ、兄者?」
 挑戦的な調子で、バーキャルクが問いかけた。
「おぬしのほうが適任だと、でもいいたいのか?」
「あながち間違いでもあるまい」
「信じがたい話じゃ」
「ほう、言ったな」
 兄弟の間で見えざる火花が散りはじめた。ジラはさりげなく動いて、兄弟からは見えづらい場所につくと、地面からいくつかの小石を拾い上げて、兄弟のもとへ戻った。
「お二人に質問です」
 険しい顔のまま、アーク兄弟は召使いを見つめた。相手は怯む様子もなく、握りしめた片手を突き出した。
「この手の中に、小石が入ってます。二で割れる数ですか?」
「正解したら、馬に乗って勢子の仕事ができると、みていいのかな?」
 バーキャルクが問いかけると、ジラは頷いた。
「俺は、割れない方にかける」
「わしは、割れる数じゃ」
 兄弟の返事を聞くと、ジラはすぐに手を開いた。石は三つだった。
「よし、俺の勝ちだ」
 バーキャルクが得意げな笑みで宣言すると、ダームダルクは無言で肩をすくめた。
「それでは、あの木に追い込んで下さい。良い狩りを」
 ジラは、森の中でもひときわ存在感を放っている広葉樹の大木を指差した。
 兄弟の返事を待たずに木へと駆けていき、焼串とナタを背負ったまま、軽々と上りはじめた。ごつごつとした節があるので登るのは簡単そうだが、もしも節がなかったらば手がかりが無くて登れないくらい直径の大きい老木である。
 兄弟が唖然としているうちに、ジラは十分な高さにまで上りつめた。
 ただ立っているだけの兄弟に向けて、ジラが苛立たしげに手をふる。
「では兄者、俺の乗馬術をとくと見るがいい」
 気を取り直したバーキャルクが、鐙無しで馬に飛び乗ると、森の奥へと駆けていった。ダームダルクもまた、念の為に弓を張ってから、辺りを探りながら歩きはじめた。

 偏屈な館の主のことを忘れて、木漏れ日を浴びながら緑の大地にひとり馬を走らせると、いうのは、弟のバーキャルクにとって良い気晴らしであった。
 しばらくすると、猪の痕跡を見つけた。追われる身の自分たちが追う側になっている皮肉を、兄であればどう表現するのだろうと、馬の上で思いながら跡を辿るうちに、梟のように鋭い耳が他の四足の音を聞きつけた。
 聞こえてきた方を見やると、堂々たる体躯の猪がいた。背中には針のような剛毛が生え、下顎から突き出した牙は雪をいただく北方の大山嶺のようだ。獲物がいるのはジラが待ち伏せている木と自分の間である。
 弟は掛け声を張り上げた。
 木々の間を音の矢が突き抜けていく。属する氏族につたわるものだが、生まれた頃から聞いているおかげで、特段の思い入れはない。
 驚いた猪が走って逃げ出す。
 間髪入れずに、バーキャルクは森の中でできる限りの速さで馬を走らせて追う。
 兄のダームダルクも弟の声を聞きつけた。続いて、猪の短い足が作り出す音と、馬の長い足が作り出す音とが混ざった、複雑な拍子を聞きつけた。手にした鎖鎌がじゃらりと音を立てる。
 兄の見たところ、逃げ行く猪は、ジラの待ち伏せる大木を、やや逸れるようなコースで走っている。
「ちょい左じゃ」
 ダームダルクは何気ない手首の一振りで鎖を飛ばした。猪の走路の横を分銅代わりの蹄鉄で打ち付けると、土塊が猪の脇腹にふりかかる。
 猪は僅かに進路を変え、ジラが潜む大木へ頭突きをかけるに至った。
 太い幹が揺らぐ寸前に、ジラは音もなく大枝から飛び降りていた。まるで木の葉が落ちるかのように自然な仕草であったが、逆手で握りしめた焼串は正確に猪の急所を貫いていた。
 猪の目から、命の光が消えた。
「お見事」
「やったな」
 アーク兄弟は心からの賛辞を送った。
「さあ、早く内蔵を出して、帰りましょう」
 ジラは服に刺さった剛毛を、僅かに顔をしかめて引き抜きながら言った。
「よし、わしが解体しよう」
 弟に睨みを効かせながら、ダームダルクが短剣を取り出した。
「おい、兄者…」
 不満げな声でバーキャルクが応じる。
「いいです。私がやります。素人がやると不味くなります」
 兄弟はぐうの根も出なかった。鹿や猪といった大物は、地主の勘気に触れるのを恐れて滅多に狩ったことがないからだ。草原にいた昔日に狩らないでもなかったが、いずれにせよ二人で力を合わせて解体するというのは、アーク兄弟の本意ではなかった。
「まあ、ジラさんが慣れてることは認めるよ。じゃが…」
「なんです?」
 剛毛を取り終えて、解体用の刃物を取り出したジラが、視線を猪から逸らさずに聞いた。
「ああ、なに、カレンディル殿に、剥製の趣味があるかなと気になってな」
「いいえ。そうしたものは特に」
「そうか、それじゃ物は提案なんじゃが…」
 ジラは兄弟に背を向けて、解体を始めている。
「牙と骨をくれないかな、鏃にしたいんじゃ」
 ダームダルクは、仕事の邪魔をするなといいたげなジラの背中に伝えた。
「わかりました。終わるまで、見張ってて下さい、内蔵目当ての動物が来ると面倒です」
「かたじけない」
 この日の晩餐は、香草をきかせた猪のシチューで、カレンディルは大満足の様子であったが、アレンベルの食欲をかき立てるにはいたらなかった。
 アーク兄弟は、猪の牙と骨を以て鏃を削り出し、先日にジラが獲ってきた矢羽と、洗濯に出向く川辺の葦とを合わせて、矢を補充することができた。

 それから数日、兄弟が朝食の席に顔を出すたびに、カレンディルはどことなく困ったような表情を浮かべていたが、開き直って居候を続けていた。
 そんなある日の夕食時のことだった。
「明日の夜は宴会なんです。お二人もぜひ出席してください」
「僕らがですか?」
 バーキャルクが、早口な高い声で聞き返した。兄のダームダルクは堅い顔で沈黙している。アレンベルは無言でこれといった反応を示さず、相変わらず少食だ。
「はい、大勢の人をお招きする予定です」
「随分と急なお話ですね」
 バーキャルクは両手を大きく上げてみせた。
「別段、急な話ではありませんよ。都に残しておいた代々の家来のカタリが、数日前にやってきて、提案を持ってきてくれたのです。『ニルダリ家の再興を示すために、先祖伝来の高原の別荘で舞踏会でもどうか』とね」
「家来の方は馬で来たのですか?お屋敷で見たことはありませんが、伝書鳩でも?」
 今日にいたるまで、厩に真新しい馬の痕跡は無かった。
「馬ですよ」
 落ち着いた返事だ。
「いつ来られたのですか?」
「四日前です」
 カレンディルは先ほどと変わらない調子で答えた。
「僕たちは毎日、厩に行ってますが、他の馬は見ませんでしたよ」
「家来は馬を玄関先につないだのです。私がすぐに快諾すると思ったのでしょう。先祖伝来の別荘に他の家を招待する、素晴らしいじゃありませんか。実際、私が良しと言ったら『もう全て手配済みです』なんて言うじゃありませんか。思わず笑ってしまいましたよ」
 語り終えると、まだ一杯目も空にしていないのに、カレンディルは声を上げて笑いはじめた。
 アーク兄弟の手には汗が滲んでいた。足元においた荷物を、両足でじっと挟み込む。背嚢にはアウンタ女王から、結果としては詐欺同然の手口で受け取った、女王の刻印がある金の延べ板が入っている。
「すみません『手配済み』と、いうことは、家来のかたは僕たちのことをご存じないはずで、そうなると僕たちが舞踏会に出席しては、料理が足りなくなったりしませんか?」
「ご心配にはおよびません。カタリは吝嗇家ではありませんから、あなた方がいても料理は余るに違いありません」
 外堀が埋まった。財務を気にしているはずのアレンベルは、何の反応も示さない。
「でも、失礼ですが、お屋敷が手狭になってしまうのでは?」
「ご安心下さい。屋外にも会場を広げられるよう、篝火も注文しています」
 内堀も埋まった。脇の下がじっとり濡れる。
「でも、僕たちは北方人ですよ。こんな野蛮人が宴会にいたら、みなさんは楽しめないでしょう。とくに踊りなんてとてもとても」
「ははは。ご安心下さい。舞踏会は仮装することになっています。余分な仮面や衣装だってあります。北方の野蛮人の仮装だってあるでしょうし、北方人なら踊りが下手な方が面白いに違いない。でしょう?」
 バーキャルクは、面白いのはお前たちだけだろうと、喉まで出かけたのを押さえて、穏やかな言葉を選ぶ。
「つまり、僕たちが辞去するには及ばないと?」
「はい。そのとおりです」
 城は陥落した。カレンディルは、これまでに見せたこともないような笑顔をしている。
「明日の夕方には衣装が着きます。どうか何卒、お部屋の鏡を使って、とびきりの仮装にしてくださいませ」

 アーク兄弟は、二人だけで二階の客用寝室へ向かっていた。今晩は月が出ている。角灯が無くても、窓から差し込む明かりだけで十分だ。足元を見るにも、鏡を見るにも。
 兄のダームダルクが、普段の習慣どおりに、扉を僅かに開く。
 細引は内側のドアノブから寝台の足へ結び付けられたままだ。部屋を出たときのままに見える。
 結び目を解いて、さらに扉を開けるが、入り口の真正面にある姿見が視界に入らない幅で留める。床に散らしておいた藁は、やはり出たときと同じに見える。
「大丈夫だ、兄者」
 後ろから覗き込んでいた弟が言った。
「ああ、大丈夫じゃ」
 言葉とは裏腹に、兄が扉を押す手つきはやはり慎重だった。ガラスの鏡が視界に入る。外套は掛かったままで、映るのは腰から下だけだ。
 ようやく、兄は安堵のため息を付いた。

「しかしまあ、困ったことになったぞ」
「元はといえばおぬしのせいじゃ」
「そういう兄者も、温かい飯を楽しんでいたじゃないか」
「そういうおぬしの心配は、わしらがここにいると知れ渡ることだけじゃろう」
「もちろん。舞踏会の客が何人いるか知らないが、剣や槍を使えるやつが何人もやってきたら、二人だけでは勝てんぞ」
 普段の兄弟喧嘩のように、声を荒げたりはしない。押し殺した声での口論だ。
「おぬしの心配は、運が良ければ無用に終わる。殺し合いになるのは、客の誰かが、わしらの詐欺事件を知っていてかつ、わしらの首を手土産にアウンタ女王から報酬をせしめようと思った時だけだ」
「事情通で、金に困っているやつだけが、俺たちを殺しに来る。と、いうことだな」
「そうじゃ。最悪、残っている金の延べ板で買収すればいい」
 金を手放すと聞いて、弟のバーキャルクは気の進まない顔をしたものの、結局は首を縦に振った。
「兄者は、姿見が心配か?」
 ダームダルクは真剣な顔で頷いた。
「なぜ、そんなに心配なのだ?」
「館の主たちは、少なくともカレンディルは、余所者嫌いじゃ。なのに、わしらを引き止めて、舞踏会に出席させようとしている」
 兄弟は二人とも黙り込んで、なぜ館の主が「部屋の鏡」を使って仮装の準備をするように告げたのか考え込んだ。弟には皆目見当もつかなかったし、兄も魔法の鏡だから危険だと、証拠もなしに言い張ることの虚しさを知っていた。
 兄は寝台の木枠を指で叩き始めた。いい加減なニス仕上げの、ざらついた触感が返ってくる。
「おぬし、この屋敷で他に鏡を見たか?」
「いいや。見ないな。この玻璃鏡だけだ」
「鏡面仕上げの家具はあったか?」
「いいや。白木か、つや消しだ。あったとしても、いい加減なニス塗りだ」
「ああ、せめて窓までガラス張りにした、豪奢な屋敷であれば」
 壁に開けた穴を、垂れ幕か鎧戸で塞ぐだけの作りの窓を見つめて、ダームダルクが毒づいた。二人は窓穴を見つめると、何も言わずに背嚢から崖登りにも使える丈夫な綱を取り出し、寝台の足に結びつけようとした。

「逃しませんよ」
 ノックもなしに扉が開いた。突然のことだったが、開け方は兄のダームダルクのように用心深く、鏡を見ずにすむ幅だ。
 二人は舌打ちをして得物に手をかけたが、聞こえてきたのがジラの声だと気づいて、警戒を緩めた。
 兄が扉へ近づいて、細く開いたドアのすきま越しに向こうを見た。相手は灯りを持っていないが、回り込んだ月明かりで僅かに顔が見える。やはりジラだ。
「知っていますよ。あなた達の秘密を」
 兄弟は冷や汗をかいた。自分たちの手が短剣へと伸びていることに気づくと、殺したり脅したりしたら、ファトラーム王領でもお尋ね者になると思い、手を遠ざけた。
「召使いというのは噂話が好きなんです。このあいだ、カタリさんから面白い話を仕入れました」
 兄弟は沈黙を続ける。カタリは屋敷の主の家来で、都にいたという。もしも都にまで自分たちの悪名が広まっているならば、猟犬みたいに鼻のきく狩人が動き出すかもしれない。
 この屋敷と詐欺犯を、世間が関連付けるはずはない。北方人の客二人が屋敷に泊まっていると、ジラがカタリに告げていない限り。巷に広まっている噂は、詐欺師はアウンタ女王領からファトラーム王領の方角へ逃げたといった程度だろう。とはいえ、狩人の立場で考えれば、国境付近の山野に詐欺犯が潜伏していると思い、国境にほど近いこの屋敷を疑うこともあるだろう。
「安心して下さい。誰にも話していません」
 アーク兄弟は、安心するどころではなかった。本音を言えば、いますぐにでも逃げ出したい。だが、逃げ切れる自信は無かった。相手が、こちらからは見えない場所に武器を隠している可能性がある。ジラが食卓に野禽や獣の肉を供したことは、二度や三度ではない。窓から逃げ出そうが、廊下に飛び出ようが、射殺されるだろう。
「他にもありますよ。あなた達の馬、アウンタ女王領の焼印がありました。居候するくらいにお金がないのに、王様の馬を持ってるなんて、変ですよね?」
 ジラの表情は読めない。声音は冷静そのものだ。賭け札をやらせたら、さぞや儲けることだろう。ジラの気に入る行動を取らないと、この先しばらく強請られ続けるような気がしてきた。
 無言の時が続く。窓の外からは、不気味な夜の鳥の鳴き声が入り込み、閨の中のかび臭い空気が重くのしかかってきた。
「わかった。望みを言ってくれ」
 沈黙を破ったのは兄のダームダルクだった。弟も頷いている。
「アレンベル様を元に戻して下さい。昔はもっと食べる人でしたし、お話もしました」
「ジラさん。もしかしてアレンベルのことを?」
 大きなため息が返ってくる。
「勘違いしないで下さい。ただカレンディル様が先祖先祖とうるさいのに疲れたのです。大体、カレンディルさんに任せていては、給金が未払いになるのも時間の問題です」
「本当にそうなのか?」
「本当です。どうせアレンベルさんも、召使いの人数をケチるのは同じはずです」
「ジラさんなら、失業しても他の屋敷なり、賭博師なりで食っていけそうだがな」
「いいから、助けてくれるんですか。くれないんですか」
 弟の押し殺した笑い声が聞こえてきたが、兄は歯噛みしてこらえた。
「わかった。助けよう」
「では、私は口をつぐんでいます」
「では、お休み」
 ダームダルクの言葉に返事はなく、ただ床の軋む音だけが聞こえた。

 再び、アーク兄弟は顔を突き合わせた。
「わしは、いますぐ、この忌々しい魔法の鏡を叩き割りたい。証拠はないが、この鏡には人心を惑わす何かがある。アレンベルも姿見を見たに違いない」
「分の悪い賭けだな。アレンベルが正気づくとは限らないし、弁償しろといわれたら困る。もう金を手放したくない」
「諦めろ、金は」
「いやだ。たとえ…」
「誰かを斬り伏せて逃げだしたら、ここでもお尋ね者じゃ。あの娘を敵に回したら、わしらが死ぬかもしれん」
「…。分かったよ」
 二人とも無言になり、扉と窓を交互に見つめて、項垂れた。
 今夜はなかなか寝付けなかった。今となっては、屋敷の主達の奇妙な振る舞いを説明できるものは、一つしか無いように思えた。アレンベルの挙動不審も、カレンディルが姿見を使わせようとするのも、全ては鏡のせいではないかと。

第三幕

 翌日、アーク兄弟は荷馬車の音で目を覚ました。太陽の眩しさに目を細めつつ、窓から外の様子を伺う。二人の憂いなど全く気に留めていないような快晴だ。
 朝早いというのに庭先は人と馬と物でごった返している。賓客が到着する前に、宴会の資材を運んできたらしい。どの馬も荷物の重さに喘いでいるようだった。
 ある馬車からは人ばかり降りてきた。臨時の雇い人なのだろう。必ずしも土地の人間ばかりではない。北方人こそいないが見慣れない顔立ちも混ざっている。いずれにせよ、男女を問わず、賞金稼ぎのようなのは見当たらない。
 荷降ろしをすませた馬車は来た道を引き返していく。ところどころで、道を邪魔したとかしないとかのケンカが起きている。御者達の罵り声が二階にまで届いてきた。高原に構えた貴族の別荘よりも、規律のなってない軍隊の野営地にふさわしい言葉である。
 窓から慎重に観察を続けると、二人は奇妙なことに気づいた。
「なんじゃ、積荷の護衛らしいのがおらんぞ」
「貴族の私兵は近づくなと、いう勅令のおかげだろう」
「カレンディルが雇った兵には関係あるまい」
「人里離れた土地に三人だけで住むような奴だ、不用心なのさ」
「たしかに」
「あるいは、いよいよ財布が危ないのか」
「うむ」
 話を切り上げた二人は、いつものようにして階下へと降りていった。
 食堂では、すでにカレンディルが食事を始めていた。アレンベルも席についているが、あまり手を付けていないようだ。
「おはようございます」
 にこやかな調子でカレンディルが挨拶をした。アレンベルは無言であり、兄弟に気づいた様子もない。
「召使いから聞いたのですが…」
 アーク兄弟は思わず身を固くするところだったが、かろうじて自然体を保った。
「お二人も宴会の準備を手伝って下さるとのことで、本当によろしいのですか?」
「ええ、そうなんですよ」
 手伝いを申し出た覚えはないが、バーキャルクは話を合わせた。ダームダルクも頷いている。
「助かります」
 カレンディルはゆっくりと高原の朝食を楽しんでいる。アーク兄弟も相伴にあずかった。決して種類豊富な献立ではないのだが、飽きの来ない食事だ。
 いつもより厨房が騒がしい。洗い物の音ばかりではない。ジラを含む数人からなる、大声のやりとりも聞こえてくる。
「今日の宴会にはどれくらいの人が?」
 いつもよりは急いで食べながら、バーキャルクが探りを入れた。
「そうですね、招待客だけで三十人ほどです」
「どんな人が来るのですか?」
「譜代であれ外様であれ、高位の貴族をお招きしています。本当なら、初代カートル王の時から王朝に仕えていた方々だけを招いて、後から服属したような余所者は呼びたくないのですが、ニルダリ家の復興を広く知らしめるためにはやむを得ません」
「高位の貴族、ですか」
 バーキャルクは適当に頷いた。
 聞き手に回っていたダームダルクは、同王朝の系図を目にしていたことを思い出した。かつて別用で、ある文書館に忍び込んたときに見たものだ。王朝成立に関わった重臣の署名が残る系図によれば、初代の王には実子が無かった。代わりに、初代カートル王の祖父の妹の血を何らかの形で引いている男子ファトルを養子にとり、その血脈が現在のファトラーム王に通じている、とのことだった。
 ふと思い出した過去には構わず、ダームダルクは食事を続けた。
「なにはともあれ、ご準備のほう、よろしくおねがいします」
 一足早く食事を終えたカレンディルは自室へと去り、アレンベルも後に続いた。
 やがてアーク兄弟も朝食を平らげて、カレンディルたちの皿といっしょにして、皿を厨房へと返しに行った。

 アーク兄弟は祝勝会や故郷の祭りに参加したことはあるが、支度をする側にまわったことはなかった。
 今日の厨房は、ある種の戦場であった。かまどの熱気や、大鍋から立ち上る湯気、いくつもの香草が混ざり合って作り出される空気のなかで、刃物が次から次へと食材を断ち切っていく音や、石鉢の中で香辛料を叩いて潰す音がする。
 ジラは、まるで将軍だった。熱気あふれる厨房全体を見据える位置に立ち、よく通る声で雇い人たちに采配を振るったり、質問に応えたりしている。ときには、砂糖菓子目掛けて伸びてきた小僧の手をつかむことさえした。雇い人たちの一人は、ジラの筆跡がある指示書を片手に、他の雇い人たちに指図をしている。
 ジラの活躍は厨房だけにとどまらない。すきを見ては他の部屋に入ったり、庭先に出たりして、他の雇い人たちに指示を出し、状況を確認していた。届いた品物が注文通りかどうか、表と照合するのもジラの役割だった。
 カレンディルは、計画の大部分をジラに任せているらしい。
「ジラさーん、わしはどうすればいい」
 頃合いを見計らって、ダームダルクが声をかけた。
「あなたは外です」
 大股に歩いてきたジラは「あなた」に力点を置いて、服の袂から取り出した指示書をダームダルクの手に押し付けてきた。大勢の前で名前を口に出されては困る立場だと分かっていますよと、言わんばかりだ。書類には、宴会が始まる夕方までにすることとして、天幕張りや篝火の据え付け、見苦しい庭木の手入れ、荷馬たちの落としものの片付けなどが挙げられている。期待されているのは、実務と監督の両方のようだ。
 幸い、使われている文字と言葉はアーク兄弟にも馴染みのあるものであった。
「あなたは中です」
 バーキャルクにも指示書が押し付けられた。銀食器磨きと、厨房で使う水くみ、朽ちかけている床と壁を補強したり、毛織物を広げて見苦しい箇所を覆い隠すことが、仕事とされている。仕事の種類こそ違うが責任の範囲は兄と同じだ。複数の雇い人を束ねることが期待されている。

 日中のアーク兄弟は、戦陣にいるような忙しさで、屋敷から誰にも見られずに逃げ出すことなど不可能であった。
 太陽が山の端に触れようかという頃になってようやく、アーク兄弟は前線を離れ、客用寝室へと引き上げた。カレンディルは何度か面倒な口出しをしたあと、演説の練習を理由にして部屋にこもった。アレンベルは姿を見せない。ジラはといえば、相変わらず厨房で猛将の形相をしており、話しかけられる雰囲気ではなかった。
 料理人と給仕の数名を残して、雇い人たちはみな離れた野営地に引き上げ済みだった。いまでは天幕をはじめとする準備を済ませた庭先に、馬車が次々とやってきていた。
 馬にも車体にも豪奢な飾り付けをしてある。程度の差こそあれ、金箔張りの彫刻を持たないものは一台もない。中から出てくるのは、乗り物と同じくらいに飾り立てた貴族たちだ。中には馬車ではなく、立派な乗馬で来た者もいるが、護衛らしき姿は無い。
 客を降ろした馬車は、朝方の荷馬車と違って去っていくことはなく、庭先に駐めたままだ。馬車を駐める位置は、家の序列に応じて決まるようだった。弟のバーキャルクとしては、ファトラーム王領における貴族社会について学び、今後につながるコネを作り出す一助としたかったが、今はほかに優先すべきことがあった。
「一体どうする。アレンベルを助けるといっても、話しかける余裕がない」
 弟は、兄のダームダルクに力なく語りかけた。傍らには外套の掛かった魔法の鏡がある。
「ちょっとおどろかすなり、涼しい夜風に当てるなりすれば、正気づくじゃろう」
 兄が肩をすくめて答える。
「本気で言ってるのか?」
「冗談に決まっておろう」
 兄は忌々しそうに、鏡の方へ手を振った。もう片方の手は鎖鎌につけた蹄鉄をいじっている。
「その蹄鉄も冗談か」
 再び弟が兄に語りかけた。弟もまた腰帯に挿した短剣をいじっている。
「冗談と言えば冗談。本気と言えば本気じゃ」
「ほう」
「分かっておるくせに。からかいおって」
「代わりなんだろう。投げ捨てた分銅の」
 兄はなにか口を開こうとしたが、雑談の終わりを告げるかのように、部屋の扉が叩かれた。聞き慣れない叩き方だ。
 アーク兄弟が返事をしないでいると、ドアノブが回された。すかさず二人の手は得物に伸びる。
 アレンベルであった。封印されたままの剣を佩いている他には武器はもっておらず、小脇には何らかの荷物を抱えている。動作は緩慢であり、敵意は感じ取れない。
 兄弟たちがじっと見守るなかで、アレンベルは荷物をさしだした。畳まれた衣装と仮面が二組ある。仮装舞踏会のために用意されたものであろう。
 兄弟が荷物を受け取ると、アレンベルは黙ったまま仮装と鏡を交互に指差した。
「あんたの身に何があった?」
 兄のダームダルクが、アレンベルを見つめて問いかけるが、返事はない。無表情だ。
 荷物を置いたアレンベルは、もはや何も言わずに扉へと向き直り、部屋を出ていった。
「せっかく当の本人が来たというのに…」
 弟のバーキャルクのつぶやきには、嘲りの調子が混ざっていた。
「うるさい。とにかく、着替えろ」
 兄は与えられた仮装を睨みつけながら言った。狭い部屋に反響する自分の声に、思わず顔をしかめる。
 実に浅薄な作りをした、上から軽く羽織って紐で結ぶだけの仮装で、草原の民が使っている本物と似ているのは色使いくらいなものだ。衣装と仮面の製作者が力を入れたのは、南方人が北方人に期待している野蛮さを滑稽なまでに盛り込むことであって、本物を模倣することではないようだった。仮装をした者を南方人が見つめたらば、「自分は『あちら側』ではなくてよかった」と、確実に思えるような代物である。
「ああ、わかってるよ」
 弟もまた苛立ちを込めた返事をした。
 悪いのは相手じゃないと分かってはいるが、兄弟はお互いに敵意を向けはじめていた。
 着替えながら、ダームダルクはアレンベルの表情を思い出していた。二つの力のせめぎあいに苦しむ心の悲鳴が、瞳に浮かび上がっているように見えたのだ。一見したところ人心を惑わす夢柳の葉の煙を吸ったようにも思えたが、ダームダルクのなかにある直感が、真実は違うと告げていた。自称魔術師なら誰でも知っているような例の葉による力ではない、簡単には手に入れることが出来ない本当の魔法の力が、アレンベルに働いているように思えた。
 あの青年の双眸には、魔法の鏡による外からの力と生まれ持った内なる力との、熾烈な戦いが映っていた。いまのところ戦況は内なる力にとって圧倒的に不利で、特別な手をうたねば逆転の目は無いように思えた。すでに外力は精神の堀と城壁をいくつもの地点から乗り越え、内力の根源が立て籠もる高塔の入り口に殺到していた。塔がどれほど高く、最上階へと続く螺旋階段がどれほど長かろうとも、王が討ち取られるのは時間の問題と思えた。
「こっちはもう着替えたぞ。何をそんなに手間取っている。え?」
 兄の物思いを、聞き手を小馬鹿にしたような弟の声が破った。
 魔が差したと、言うべきなのであろう。
「おい『胸の』結び目がほどけているぞ」
 そう言って兄は、鏡を指差してみせた。

「なんだと?」
 弟は、反射的に鏡のほうを向き、勢いに任せてガラスの鏡面を覆っている兄の外套を振り払い、鏡像と向き合った。
 鏡像がバーキャルクをじっと見つめている。
 鏡の真正面に立った弟のバーキャルクは、鏡像の自分が口を開いたように思えた。実体たる自分が動けば鏡像も動くのが道理である。だが、自分が鏡に語りかけた覚えはない。再び鏡像の自分が口を開いた。鏡が語りかけてきている。
「余所者を殺せ」
 鏡像の甘美な声に耳を傾けると、鏡の木枠に刻まれた戦争の一場面が真に描いているものを理解できた。かつてこの地に攻め入った「余所者」たちが、逆襲にあって敗走する場面なのだ。土地の人間は敵に一切の容赦を加えなかった。自分もまた古の先例にならって「余所者」を皆殺しにせなばならぬと、バーキャルクは確信した。まずは傍らにいる北方人からだ。
 鏡面から目をそらしている兄のダームダルクには、ただ弟が鏡の前で立ち尽くしていると見えた。いや、弟はただ立っているのではない。何かに聞き入っている。鏡あるいは鏡の中に潜む何者かが、弟によからぬ話を吹き込んでいるのだ。根拠はないが、確信はあった。
「わしが悪かった。馬鹿な真似はよせ」
 兄は、ただならぬ妖気を感じていた。二つの寝台の間に置かれた鏡を見ないようにしながら、振り払われた外套を手探りする。兄から見て左前方にある鏡へと、再び覆いをかぶせようという考えだ。
 伸ばした手が外套に触れた。布地を持ち上げた瞬間、兄のダームダルクの耳は鞘走る音を聞きつけた。
「余所者に死をっ!」
 かまいたちさながらの風が、外套を握る兄の手をかすめた。
 もしも、ほんの少しでも手を引くのが遅かったら、弟が振り下ろした短剣により指を断ち切られていたことだろう。
「余所者っ!」
 首を狙って振り上げられた刃を、兄のダームダルクは間一髪のところでかわした。
「余所者っ!」
 もう片方の手首への一撃も、なんとかよけた。
 昼間の過酷な戦いがなかったかのような動きだ。自分よりも楽な仕事をしていたわけでも無いだろうに、相手はあたかも薄刃の包丁を扱うように軽々と、分厚い刀身の短剣を振るっている。
 弟は短剣を引き戻し、武器を持っている手だけを相手に見せる構えをとった。
「正気は失っても剣の腕前は変わらんな」
 兄は、左半身を相手に晒すような形で、弟に向き合った。鏡よりむしろ、扉のほうが見える姿勢だ。代わりに相手の剣と自分の心臓の距離が近くなる。
 相手の様子が、鏡を見る前後で変わったのは明白だ。弟の双眸はアレンベルと同じである。先ほどの叫びからして、魔法の鏡が弟をそそのかしたと見ていいだろう。自分たち草原の民は、余所者を余所者であると、いうだけの理由で殺しはしない。
 すでに弟は必殺の突きの準備に入っている。
 兄は自分のすぐ後ろに寝台があることを呪いつつも、あえて素手で待ち受けた。
 必殺の突きが迫る。刀身が薄暗がりのなかを矢のように突き進む。
「カアァッ!」
 兄は突き出された弟の手首を掴み、寝台へと押し下げた。
 もう片方の手で胸ぐらを掴む。
 目をつぶると裂帛の気合とともに、渾身の力を込めて片手で弟の体を持ち上げ、左へと振り出した。
 横薙ぎの踵落としが鏡に決まる。
 ガラスの砕ける音と木材が割れる音が同時に、狭い部屋で反響した。
 背中から床に落ちた弟は、苦悶の叫びを上げた。
「何をするっ!兄者ぁ!」
 床には大小様々のガラス片が散らばっている。
 バーキャルクは自力で立ち上がった。深手は負わずに済んだようだ。
「すまん。大丈夫か!?」
「大丈夫なものか!正気か!?」
 叫び返してきた弟の目を、ダームダルクがのぞき込む。
「正気じゃ。間違いない」
 元通りだ。魔法の鏡が持つ得体のしれない力は、退散したと見える。
「要するに兄者、鏡を割ったのか?」
「ああ、そのとおりじゃ」
 兄もまた、衣装を羽織って答えた。気分のいいものではないが、捨てずに持っておけばどこかで役に立つだろう。
「わかった。とりあえず、アレンベルの様子を見にいこう。金の延べ板を何枚で済むかな…」
 二人が思案顔になった刹那、階下から悲鳴が聞こえてきた。
 アーク兄弟は、荷物と武器を持ち、仮面だけを部屋に残して飛び出した。あまりの素早さに貸衣装が、母衣のようにたなびいていた。

 梟のように鋭い兄弟の耳は、悲鳴は食堂からだと察知した。どこに穴があるか覚え込んだ階段を、二段飛ばしで駆け下りて玄関に降り立つ。
 仮装した貴族たちが、外へ続く大扉の前で恐怖の叫びを上げている。誰もが屋外へと逃げようと押し合っているせいで、人波が停滞している。
「北方の蛮族の到来に、みな驚いておるな」
 兄のダームダルクが、顔だけは真面目にして言った。
「料理はお預けか」
 弟のバーキャルクは、兄を無視してひとりごちた。
 二人とも息を乱すことなく状況を探っている。
 食堂から玄関へと、競技場の騎手姿の者が現れた。体格からして男のようだ。騎手にしては非常に大柄だが、仮装には他にも奇妙な点があった。片手に鞭ではなく、真っ二つに割れた大皿を持っているのだ。食前には見たくないものが、割れた皿の縁から滴り落ちている。
 騎手が大皿を最上段に振りかぶる。背筋の凍るような光景を目にして数名の招待客が卒倒した。
「させるか」
 すかさず兄が鎖を振り出し、相手のみぞおちに分銅代わりの蹄鉄をお見舞いした。暴れ馬の蹴りにまさるとも劣らぬ一撃である。
 食らった男は気を失い、手から離れて砕け散った大皿の上に、尻餅をついた。頭を打たなかったことに、兄弟は胸をなでおろした。詐欺罪に加えて、貴族殺しの汚名を着せられては御免である。
「押すな、並べ」
 押し合いへし合いを続けている者たちを叱り飛ばすと、弟は食堂へ飛び込んだ。続いて兄も駆け込む。

 食堂では既に複数の死人が出ていた。
 壁のランプと、開け放った窓から差し込む篝火の明かりが、会食の場で起きた殺戮の結果を明らかにしていた。中央にある大きな食卓こそ元の位置のままだが、酒も料理も全て床にぶちまけられている。壁と床を覆っていた毛織物は見るも無残なありさまだ。昼間の準備が全て水の泡である。
 死者のなかには皿のような鈍器ではなく、剣で斬られたような者もいる。
 生きている招待客もいる。帯剣こそしているが、恐怖のあまり手が震えていて、一人として剣を抜いていない。雇い人たちは殺されるか、逃げ出すかしたようだ。
 兄弟はアレンベルとジラを探したが、先に目に入る者がいた。
 カレンディルだ。禍々しい笑みをたたえて、奥に据えた演壇に立っている。仮面を脱ぎ捨てた顔には、恐怖ではなく歓喜が表れている。屋敷の主は封印を引きちぎって剣を抜いた。
「時は来た。余所者という名の雑草を先祖代々の当地から抹殺する」
 カレンディルは剣を掲げて叫んだ。隣には銅鏡で作った正十二面体を被った道化が立っている。薬でも盛られたらしく、周りの騒ぎに動じる様子もなくじっとしている。十二面体には、食堂にいる者たちの鏡像が映っている。
 道化の被り物に映り込んだ鏡像のカレンディルは、必ずしも実体の映し身ではなかった。
 鏡像のカレンディルが、震えている列席者のうち海賊に扮した者の鏡像に斬りつけた。実体のカレンディルは不動で、実体の海賊も無傷である。動いたのは鏡像で、斬られたのも鏡像だ。
 海賊の鏡像と実体は、無傷のまま手の震えを止めて、背筋を伸ばした。
 同じようにして鏡像のカレンディルが実体のカレンディルとは関係なく動いて、鍛冶屋に扮した者の鏡像と、トカゲのような面を被った者の鏡像に切りつけた。斬られた二人の実体は海賊と同じく、居住まいをただした。
「さあ、一働きしてもらいますよ」
 壇上からの呼びかけに応じるようにして、鏡像を斬られた三者の実体がアーク兄弟を見据えた。
 カレンディルの鏡像によって鏡像を斬られた者は、実体を操り人形にされるようだ。アレンベルも、きっと同じように斬られたのだろうと、アーク兄弟は推測した。
「おい、兄者。玻璃鏡を割ったのに、どういうことだ?」
「鏡にのめり込みすぎたんじゃろう。どんな鏡を使っても、映し身の化け物を作り出せるようになったに違いない」
 ダームダルクが答えると、食堂にカレンディルの笑い声が響いた。
「おっしゃるとおり。あの姿見と私は長く付き合い、鏡の奥義を極めました。一枚割られたところで問題ありません」
「ほかの鏡がある限り、じゃろ?」
「ええ。割れるものなら割ってご覧なさい」
 カレンディルは道化の被る銅鏡を指差した。

「ニルダリ家の若造よ!余所者を雑草呼ばわりとは、外様である私たちハンカーオイン家への当てつけか!」
 怒りの叫びを上げた男は仮面を投げ捨てると、飾り気のない白木の鞘を払い捨てた。手にしているのは黒玉の柄頭をもつ、よく手入れのされた剣である。
 現れた顔は、外様と言われれば納得するような顔であり、カレンディルの容貌とは明白な相違があった。
 怒れる男は実体のカレンディルに向かって構えた。
「当てつけ?いいえ。除草です」
 実体のカレンディルは不動だ。
 鏡像のカレンディルが動いて、黒玉の柄頭の剣を持つ男の鏡像に切りつけた。
 ハンカーオイン家の男の実体が、裂傷を負って倒れ伏した。致命傷だ。斬られた男の鏡像もまた同様に倒れている。
 アーク兄弟は驚愕のあまり目を見開いた。鏡像によって鏡像を斬られると、操り人形になるのだとばかり思っていたが、実体を斬ることもできると、目の前で証明された。
 実像のカレンディルが、アーク兄弟を見つめて語りかける。
「本来であれば、あなたがた余所者は、この屋敷に来た日に玻璃鏡を見つめて、ひとりは死んで、もうひとりは私の人形になるはずだった。上手く行かなくて残念です。代わりに、先ほどの三人に協力してもらいましょう」
 実体のカレンディルが、剣の切っ先を使って合図を出した。
 海賊と鍛冶屋とトカゲ面が、アーク兄弟に向かってくる。
「そこの三人も外様です。最初の脚本とは違いますが、外様による余所者殺しの始まりです」

 弟のバーキャルクは新月刀を抜いていない。兄のダームダルクも鎖鎌の鞘をつけたままだ。研いで磨き上げた刀身に、カレンディルの鏡像が映るのを恐れてのことである。
 食堂は壁のランプと、外の篝火のおかげで、鏡を使うにも戦うにも十分な明るさだ。中央には大きな長四角の机があり、床には料理と死体が散らばっている。奥にはカレンディルと道化の立つ演壇がある。
 兄が召使いのジラとアレンベルを見つけたのは、部屋の奥のほうであった。控えめな仮装をしているが、封印された剣を佩いているからアレンベルに違いない。壁に片手をついて、召使いを壁の隅に追い込み、勝手口のある厨房へ逃げられないようにしている。
 もう片方の手は、剣の柄に伸びたかとおもえば離れ、離れたかと思えば伸びる。
 ジラは吐き気をもよおすような状況を目にしながらも、気絶することなく歯を食いしばって耐えている。
「待っておれよ」
 低く呟くと、ダームダルクは蹄鉄をつけた鎖をゆっくりと回しながら、アレンベルの背中目指して、不安定な足場を慎重に進んでいった。
 立ちふさがったのはトカゲのような仮面の者、おそらくは男だ。派手な色の蛇を全身に巻きつけたような仮装をして、手にした金色の殻竿を勢いよく振り回している。竜巻の生まれる島にいるとされる龍使いの格好だ。作り物の蛇が、部屋中に飛び散った汚れのせいで、明暗差の激しい斑模様の蛇になっている。
 いくら龍使いとはいえ、所詮は仮装にすぎず、魔法らしいものは見えない。龍と同様に、龍使いもまたおとぎ話なのだろうか。ふとダームダルクは考えたが、早く行かねばジラの身が危ないと、雑念を振り払った。
 トカゲ仮面の武器も見せかけにすぎないと見て飛び込んだ刹那、龍使いはダームダルクの両目の高さで竿を薙いだ。
 予想外の反撃だ。
 兄はかわしこそしたが仰向けに転んだ。服が液体でぐっしょりと濡れる。外様と呼ばれただけあって、譜代以上に荒波を乗り越えてきたのだろう。
 兄が尻を擦って後ろに逃げるところへ、龍使いが連打を繰り出す。
 ダームダルクは鎖を張って受ける。
 両手がふさがった以上、反撃は足を使うことになる。敵がそう考えることを見越して、あえて兄は捨て身で鎖鎌を投げつけるふりをした。
 トカゲ仮面の注意が上半身にむいた隙に、ダームダルクは相手の脛を思いっきり蹴りつけた。
 敵が倒れゆくあいだに、ダームダルクは起き上がる。
 すぐさま龍使いの鳩尾と肋を蹴りつけて食卓の下へ放り込んだ。卓上ではバーキャルクが大立ち回りだ。
 ダームダルクの数歩先では、アレンベルがとうとう封印を破った。剣を半ば抜きかけている。後ろから羽交い締めにしようとも考えたが、カレンディルの動き次第では自分がやられてしまう。
 一計を案じたダームダルクは鎖を回転させはじめた。
 狙いを察したのだろう。奥の演壇に立つ実体のカレンディルが剣を構えて、アレンベルとダームダルクの間に入り込もうとした。
 咄嗟にダームダルクは転がっていた大皿を、実体のカレンディル目掛けて蹴り飛ばした。
 相手は胸に皿の一撃を受けると、たたらを踏んで引き下がった。
 とうとうアレンベルが得物を抜きおえて、片手で振り下ろそうとした刹那、ダームダルクは剣に鎖を絡ませた。即座に鎖を引き戻して武器を落とさせる。
 ダームダルクは、足元に転がってきた剣を、素早く死体の下に隠して、鏡として利用されないようにした。
 アレンベルは呆然とした様子でいるが、まだカレンディルは実体、鏡像ともに健在である。
 ダームダルクはバーキャルクに目配せした。

 兄が食堂の片側で殻竿使いとにらみ合っていたころ、反対側では弟のバーキャルクが鍛冶屋と海賊に扮した二名と対峙していた。
 鍛冶屋のほうは、火照った顔を表すような赤い仮面をして、大ハンマーを持っている。本物の鍛冶屋なら片手で振るうが、この偽鍛冶屋は両手で抱えている。相手の得物を素早く観察すると、金槌ではなく木槌だ。舞踏会に重い荷物は馬鹿らしいと思ったのかもしれないが、頭で受け止めたくはない。
 海賊のほうは、仮面こそふざけた代物だが、衣装は本物らしさが伝わってくる逸品だ。かつてバーキャルクが出会った海賊の装束そっくりである。もしかすると、賊を囚えて取り上げた服なのか、あるいは貴族の地位を手に入れる前は賊だったのかも知れない。提げている海刀は灰色に塗った木刀のようだが、撲殺には十分な品と見えた。
「武術は得意なので?」
 問いかけるも、二人の敵はともに無言で武器を構えて、少しずつ進んでくる。床に散らばる料理や、倒れている死体を足首でかき分けるような形だ。
 不安定な足場を嫌って、バーキャルクは食卓に飛び乗った。
 奥の演壇へ進もうとすると、脛を目掛けて槌と刀が振り出された。
 弟は舞踏のような足さばきで攻撃をかわすと、お返しとばかりに鞘に収めたままの新月刀を振るい、ホウキで掃くようにして下段を薙ぎ払った。
 鞘が手首を打つと骨の砕ける音がして、相手は二人とも武器を落とした。鍛冶屋に至っては、痛みのあまり気絶したようだ。
 鞘は無傷である。飾り気はないが丈夫さでは申し分ない。
 バーキャルクが横目で見ていた十二面体の中で、鏡像のカレンディルが剣を動かしはじめた。バーキャルクのほうが脅威であると見たらしい。実体のカレンディルは、ダームダルクの相手に向かうところだ。
 十二面体に映り込んでいる鏡像の斬りを受け止める、あるいは躱すことはできるのか。鏡の中での間合いが実際の間合いと同じようなものなのか。確信が持てない。
 鏡像のカレンディルが仕掛ける。
 対するバーキャルクは、足に組み付こうとしてきた海賊の胸ぐらを掴むと、自分と鏡を被った道化のあいだに持ち上げた。
 おかげで、バーキャルクは鏡に映らなくなった。
 いま十二面体の銅鏡に映り込んでいるのは、持ち上げられた海賊とカレンディルの鏡像である。
 鏡像のカレンディルが斬りつけたらしい。海賊は背中に手を回して絶叫を上げたが、バーキャルクは無傷である。気分は悪いが、自分が鏡に映らないようにすれば、鏡像のカレンディルの手にかかる心配はないらしい。
 バーキャルクもまた、ダームダルクに目配せした。

 一瞬の目配せで、アーク兄弟はお互いが成すべきことを理解した。
 バーキャルクが海賊の亡骸を、実体のカレンディルに投げつけて転倒させた。
 時同じくして、ダームダルクは仮装を道化に投げつけて、銅鏡の十二面体を覆い隠した。
 もはやカレンディルの鏡像を作り出すものは、どこにも存在しない。
「でかしたぞ、兄者!」
 バーキャルクは、死体を押しのけて立ち上がろうとするカレンディルの剣を弾き、手刀をいれて気絶させた。すぐに背嚢から縄を取り出して、縛り上げる。
「鏡はわしが包んでおこう」
 幸いにも、衣装は銅鏡の多面体を包み隠すのに十分な面積をもっていた。こちらも綱で結んで、布が外れないようにした。
 被り物が取れた道化は、虚ろな目で彼方を見ている。
「お二人とも、ありがとうございます」
 ジラが声をかけてきた。ケガは見当たらない。
「私からも、感謝の言葉を贈ります。この屋敷に越してきた日から記憶が曖昧なのですが、あなた達は決して強盗ではなく、むしろ私たちの救い手であると、ジラから教えてもらいました」
 アレンベルの言葉はあながち間違いではない。二人の北方人が、南方人を縛り上げたり、なにかの包みを大事そうに抱えたりしているのだから。蛮人が屋敷へ略奪に入り込んだといっても、通用する眺めであろう。
「ああ、それよりあんた、お腹が空いたじゃろう」
 ダームダルクが、アレンベルの目を見つめながら言った。
「ここしばらく、あなたはロクに食事をしてないんですよ」
 バーキャルクも、よそ行きの口調に切り替えて、相手を気遣う。 
「ご心配ありがとうございます。でも、私にはまだやるべき仕事があります。誰が亡くなったかを確かめて、事情を説明しないといけません」
 アレンベルは、食堂に倒れ伏している貴族たちを見やった。
「雇い人を呼び戻すのは、私が…」
 ジラが話していると、アレンベルの腹が鳴った。
「ああ、ジラ、さっきはああ言ったけど、よければ私もついていっていいかな。何かを食べたい気分じゃないけど、仕事をしようにも力が出ない。外の会場に行けば何か食べられるものが残っているだろう」
「はい、たぶん」 
 ジラはアレンベルの腕を掴んで支えながら、厨房から勝手口を通って外へ出た。
「わしの勘違いには違いないんじゃろうが、あの二人、意外と似合っておるわい」
「兄者、仲人稼業で食っていくなら、早めにそう言ってくれ」
 アーク兄弟は、なんとはなく壁のランプを見つめながら話し合った。
「仲人か。悪くないな」
「だろう?」
 バーキャルクがニヤリと笑う。 
「で、おぬしが王になると」
「ち、バレたか」
 二人の笑いが、食堂に響いた。

 雇い人たちは遠くまで逃げたらしく、ジラとアレンベルはなかなか戻ってこない。
 代わりに、それなりの人数の招待客たちが戻ってきた。食堂入口の扉から、様々な仮面が覗いているが、誰一人として足を踏み入れない。
 食堂は腐食動物を待つばかりとなった戦場のようなありさまだ。
「どうも…」
 弟はなるべく気弱に、自分たちもまた被害者であると、相手に聞こえるよう呟いた。
 アーク兄弟は、床も壁も汚れて、死体がいくつもある部屋に立っている。服もひどい有様だ。
「北方人だ!」
 貴族の誰かが、兄弟の顔を指差して叫んだ。
「賊だ」
「強盗にちがいない」
 最初の一声が呼び水となって、恐れと怒りの入り混じった声が次々と上がった。
 兄弟が見つめると、貴族たちは一瞬静かになったが、退くものはいない。
「相手は二人だ」
「二人きりだ」
 ふたたび口を開いた貴族たちは、ひそひそと相談を始めている。
「討ち取れ!」
 武人の面をつけた貴族が、腕を指揮刀のように振って叫んだ。
 貴族たちが食堂へ雪崩込んできたときにはもう、アーク兄弟は厨房へ駆け込んでいた。
 自分たちが殺したのではない、鞘を払ってもいないと、いう自己弁護は通じそうにない。
 兄弟は厨房に入ると、すぐに洗しを見た。
 石鹸水が大きな洗い桶に溜めてあり、脂ぎった料理の皿をつけてある。
 何も言わずに二人は、桶を持ち上げてひっくり返した。
 厨房の床に石鹸と油の混ざった水が、皿ごとぶちまけられる。大桶も床に転がした。
 二人は勝手口から外に飛び出した。

 幸いにも近くに灯りはなく、太陽はすっかり沈んで辺りは暗い。後にしてきた厨房からは、どんな鐘つきも鳴らしたことがないような賑やかな音と、人々の悲鳴が聞こえてきた。ジラとアレンベルの姿は見当たらない。
 勝手口から外馬屋まではひとっ走りだ。毎日厩に通っていたおかげで、道は覚えている。
 月明かりの下で睦み合っていた者たちが、兄弟の足音を聞きつけたようだが、悲鳴を上げるでもなく、すぐに元の仕事に戻った。仕事を始めたばかりの夜の神が、愛する者たちと逃げる者の両方へ味方しているようだ。
 厩は満室だった。普段よりも馬と干草の匂いが強い。貴族たちの乗馬がいるのだ。破れ屋根から差し込む月光が、黒玉のような馬たちの瞳を輝かせている。
 誰の従者かわからないが、見張りが一人、角灯を片手に立っていた。目を見開いた馬番の顔を、灯りが露わにしている。
「騒ぐな、大人しくしていれば…」
「ひぇっ」
 兄のダームダルクが、どろどろの服で脅し文句を口にすると、相手は卒倒した。
 倒れた拍子に角灯が割れて、満タンの油が一気に燃え上がり、運び込まれていた大量の干し草に火がついた。
「水は!?」
 悪態をつきながら、兄が靴で炎をもみ消そうとしたが、火の広がる速さに思いとどまった。
「ない!」
 手近な馬の水飲み桶に手を入れた弟のバーキャルクが叫び返す。どの桶にも火を消せるほどの水はない。
 煙が厩に広がりはじめ、馬たちが騒ぎ出す。
「馬を放つぞ!」
 そう叫ぶやいなや、弟は片っ端から綱を解きはじめて、駿馬たちを外に送り出していった。全部で八頭だ。屋敷までの道中をともにした白鹿毛の背中に、兄が気絶した見張りを放り上げた。鞍を付ける手間はとらず、兄弟も馬上の人となった。
 炎と煙から逃れようと必死で、無人の馬たちが厩の外に飛び出して、少しも歩調を緩めずに疾駆していく。
 厩からは月明かりを覆い隠すような白煙が上がりはじめた。
 先頭をゆくのは、堂々たる体躯の黒馬だ。
 アーク兄弟は膝だけで乗馬に合図をいれつつ、他の馬に触れたり呼びかけたりして、黒馬を先頭にした突撃隊形を作り上げた。自分たち二人は黒馬の斜め後ろだ。
 勇士が突き出す槍の穂先さながらに、どの駒も疾走している。
「こっちだ!」
 北方人の強盗を捕まえようと即席の義勇軍がきた。屋外にいた招待客と合流したらしく、数が増えている。
 だが、誰一人として突進する馬たちの前に留まろうとするものはいなかった。邪魔者たちは蜘蛛の子をちらしたように逃げていく。
 庭先に並ぶ篝火さえ、馬たちを止める役には立たなかった。
 さきほど逃れてきた炎熱と白煙にくらべれば大したものではないし、他の仲間達は、小さな火をものともせずに走っているのだからこの道で間違いないと、いう馬の気持ちが、兄弟には手にとるようにわかった。
 かくして、客達の驚きの声と、燃え盛る厩を残して、アーク兄弟は夜の丘へと消えていった。

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