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【和風怪奇短編小説】山伏、舟ひっくり返すこと

(あらすじ)越前国は甲楽城の渡しで船頭を営む塩次しおつぐのもとに陰陽師と山伏が喧嘩しながらやってきた。船頭は厄介事は御免、はやく対岸に渡って休もうと、渡し賃をもっていた陰陽師だけを乗せて船を出すも、山伏の怒りをかったのか、海は荒れに荒れて船は思い通りに動かない。

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 甲楽城の渡しはいつもこうなんですよ。人がイナゴみたいに、失礼、お客さんのことじゃないですよ。浜辺は両岸とも、国府みたいににぎわってるってことです。と、私が語っていると舟がゆれた。

「こら、千代丸、あばれないで。…すみません」

 恐縮する母親に、私は笑顔を見せた。

「ご心配なく。こんなの揺れのうちにはいりません」

「うちの子はいつもこうで」

「そんなこともあろうかと、お子さんがじっとして聞きいるような物語があるんですよ」

1

 あの日も甲楽城の渡しは賑わっていた。

 まけちゃあくれんかい、だめだ、そこんとこをどうにかさあさあ、だめだ、んなこといったっておれはこんなにヤセなんだたいした荷物じゃないんだ、わかったわかったはやく渡し賃を出せよ、ちょいまっとくれ、しゃべくってるあいだに隣はもう三人目の客だ大損だ、ほらモノだ、あいどうも。

 天は客と船頭の攻防など意にも介さない。東の山の頂きには白い宝珠がかがやき、西の海には空の青を何倍にも煮詰めた藍がみちている。渡し守にはありがたいおだやかな日だ。

 あいにくと、私はついていなかった。客取り競争には負けどおしで、日が出て一刻はたつというのに、一人の客も取れていなかった。いつもなら一人か二人は渡しているころだが、今日はよそに客をとられてばかりだった。やっと一人捕まえたかと思ったら、忘れ物があるとかで逃げていった。

 まけちゃあくれんかい、だめだ、そこんとこを…。なんだと、なんだとはなんだ、そっちこそなんだ。

 またしても始まった押し問答を、別の声が押しのけた。男の声だった。それも二人分。言い合う二人の声は、しだいに近づいてきた。聞きとれる言葉のなかには、坊さんや都人がつかうようなややこしい言葉もまざっていた気がした。まちがいないのは頭からつま先まで喧嘩くさいということだ。

 板子一枚下は地獄。舟をあやつっていようがいまいが、人は昔からそんなことをいう。揉めている客たちを乗せるのもまた地獄だ。いまにも底が抜けるんじゃないかとひやひやしながら、舟の上で行司をつとめる羽目になったことさえある。

 男二人の口げんかが近づいてきた。人並みを眺めていると、めんどうな輩たちがどこを通るのかなんとなくわかった。連中は人々の群れを押して二つに割っていく。竹を割ったみたいにすっぱりふたつに、とまではいかないが、時間をかけて薪にナタを食いこませていくときみたいに、じりじりと男たちは近づいてきた。今日の客たちはみな分別があるみたいで、だれも喧嘩する奴らのじゃまをしようとしない。

 男たちは、わたしの舟のほうへやってくる。かたや山伏のような格好をしたいかめしい面構えの大男、かたや狩衣をきた狐みたいな痩せぎすの小男だった。

「貴公など恐るるに足らず。白山にかけて、三宝はどんないかさまをも暴くさ」

 大男が気炎を吐けば、

「よくいう。護摩の煙がなければいかさま一つできぬくせに」

 小男も負けじと切りかえした。

 呼びこんだおぼえはないのだが、二人連れは私の舟にちかづいてきた。客は歓迎だが、やっかいなのは別だ。どうか別の渡し船にいってくれ。

 およそ修験とかその手のはあやしげなのがおおい。あの二人に、渡し賃の持ちあわせがあるかあやしいものだ。あったとしても、まともなものだとはおもえない。

 うたがっていたせいだろうか。願いも虚しく二人連れの両方と目があった。一人が同時に二人と目を合わせるというのはおかしな話だが、そうとしか思えない感覚だった。

「船頭さん、あっちの山伏はどうでもいいから、このしがない陰陽師をのせとくれ」

 狩衣の小男が、つつと走りよってきて、折りたたんだ紙を私に差しだした。アメンボが陸地にいたらこんな動きだろうかと思うような、不気味なまでに軽やかな足取りだった。幻をみたのかと思ったが、考えすぎだろう。ただすばしっこいだけにちがいない。東の空にかがやく白日は、小男の影を地面に黒々と作りだしていた。私が客の顔を見ると、小男の額はきもち汗ばんでいた。

 小男が突き出してきた紙切れは、人の形をした折り紙だった。童子につくってやるようなもので、折りたたんだせいか、厚みがあった。式神とかいうインチキを真っ先にうたがったのはいうまでもない。

「とってくったりはせんよ」

 小男は私の心配を笑い飛ばすと、紙のそばで片手をてばやく動かし、なにか音を立てた。私には何の音か分からなかった。

「もう一度、ゆっくりやってみせよう」

 私は小男の手元をにらみつけた。小男がもういちど手を動かす。生じたのは指で紙を続けざまに三度はじく音だった。人差し指、中指、薬指で一回づつ。私が見ていると、小男はさらに三度はじいた。こんどは音と音のあいだの切れ間がわからないほどの早業だった。

 音のおかげで、私は紙の中に、なにがしかの堅いものが入っていることがわかった。

 紙というのもなかなかありがたいものではある。だが、船頭の仕事で食いつないでいるものとしては、包み紙よりも中身のほうが大事だった。

 何を包んでいるのか確かめようと、私が包みを手に取るやいなや、小男はひらりと舟に跳びのった。私は小男のねめつけるような視線を感じた。中身をたしかめるなど無礼千万といいたげな目つきだ。

 私にできることは、客をいち早く向こう岸に送ることだけのようだった。

 それにしても、手にした折り紙は二人分の船賃としては軽かった。中身があるのは確かだが、物足りなかった。

「お二人ならもう少し」

「あれは連れじゃない」

 小男がしゃくったあごの先に大男がいた。渡し場に仁王立ちして、他の客を五尺かそれ以上に遠ざけている。大男のいるところで二つに別れた人の流れは、すぐまた一つになって、やがて何艘もの渡し舟のもとへと散っていく。人の流れを変えるのは三宝のおかげだろうか。いや、ただ大男の体格と、さっきまで騒ぎちらしていたせいだろう。

 荷物が軽いならそれで結構、と私は声には出さず、紙包みを懐にしまった。

「向こう岸までは?」

「そう長くは」

 海は青々としていて、風も大したことはなかった。いざ出発せんというそのとき、

「のせろ」

 胴間声が渡し場に響きわたった。大男だ。

 私はとっさにもやいをといた。

「聞こえなかったか」大男は、ただ声だけを投げつけながら迫ってくる。思ったとおりだ。懐からなにも出さない。

「だんなさま、甲楽城の渡しは初めてですか?」

「うむ」

「越前国は?」

「何度も来ている」大男は鼻嵐を吹いた。

「まさかよそでは渡し賃がただ、なんてことはないとおもうのですがね」

 言い終わるより先に、私は船を岸辺から突き放した。

「なんと無情な。生まれてこの方、かような仕打ちは受けたことがない。似非渡し守め。恐れを知れ、罪業を知れ」

 大男は目を血走らせ、口角泡を吹きながら水に入ってきたが、膝丈まで水に浸かるとさすがに諦めたか、立ちどまって腕組みをし、こちらをにらみつけるだけだった。山で熊と睨み合った男の話を聞いたことがあるが、もしも白い熊がいるならこんな感じだろうかと思うような有様だった。

「連れじゃないといいましたけど、あの人の名は?」

「私は白熊と呼んでいたよ、そういう船頭さんは?」

塩次しおつぐといいます」

「私は小太郎だ」なにがおかしいのか、小男はクツクツと笑いながら名乗った。

 私がえっちらおっちら船を進めていくなか、小男は涼しい顔で船べりにもたれていた。仏像みたいに笑いさえしている。何が面白いのか、私の知るところではない。

「やっこさん金槌じゃないかしらん」

「渡し場で泳ぐ物好きはいませんよ」

「もしもね、やっこさんが金槌だったら」狐みたいに痩せぎすな小男はなおもつづけた。連れではないという大男との間に浅からぬ因縁があると想像させるには十分だった。

「あんまり寄りかかると落ちますよ」

「金槌だったらさ」

「だったらなんです?」春の日差しの眩しさにあてられたか、つい私も荒っぽくなった。

「私の船賃はただってのは?」

「博打はしません」

「私もしないよ」

「いましてたじゃないですか」

「勝ち負けがあるから博打なんだ。私のは違う」小男は一瞬岸を見た。「私は必ず勝つからね」

 よくしゃべくる客が相手だと、喉がかわいて困る。私の当惑をよそに、小男は大海原を眺め、潮風のにおいや揺れさえも楽しんでいるようだった。私からすれば沖合に白波が出始めたのが気に入らなかった。

2

 私は船を進めつづけた。にやにやしている小太郎も、いまだ岸辺で根を張ったかのように立ちつづける白熊も無視した。私はずいぶん漕いだつもりだが、まだ対岸は遠い。汗を浮かべてはたらく私を、小男が笑っているかのようにも思えてきた。

 不意に船の外板を叩く音がした。空耳か。いや、違う。音は、どん、どん、と二度聞こえて、それっきりだ。波が舟を叩く音とは似ても似つかない。

 小男はあいかわらず笑っている。いたずらっぽく輝く二つの瞳を、私の背後に向けている。口に出さずとも、顔で語っていた。何が起こっているかは分かっているが言わないでおこう、そのほうが面白いから、と。

 船幽霊の類だろうか。いや、いまは昼間だ。こんな時間から幽霊など。あの手のものは月がいい塩梅に照っている夜に出る。なぜ月夜に出るのか。話し手が聞き役を怖がらせるためだ。つまるところ幽霊譚というのはすべて作り話のはずだ。ならばなぜ、私はこうも恐れるのか。

 どん、と再び船を叩く音がした。

「早くしないと溺れてしまうよ」

 小男の言葉が、鞭のように私に作用した。私が速く舟を漕ぎ始めると、

「そっちじゃない、そっちじゃ」

 小男が歯を見せて笑った。

 もう一度、船を強く打つ音がした。

 とうとう私は振り向いた。手が船べりをつかんでいた。人の手だ。指は五本あって、真っ白だった。手の向こう側、すなわち風波の立つ水面に、青ざめた男の首が突きだしていた。

 私は悲鳴を上げたにちがいない。小男の笑いがより大きくなったから。この狐めいた客は、船をつかんでいる手が幽霊やその手のものではないと分かっているからこそ、すくなくとも自分たちに危害は加えないと分かっているからこそ、笑っていたにちがいない。

「鰐だ」

 青ざめた男が叫ぶと、私は我に返った。遠くに見間違えようのない三角も見えた。私は男に向きなおると、自分でもおどろくような素早さで、男をいきおいよく船に引っぱりあげた。男は片腕に深手を負っており、傷口からは血が流れ続けていた。

 つい目を海のほうへそらすと、鰐のヒレはますます大きくなってきていた。血のにおいが奴らを惹きつけるのだろうか。黒い三角は船の上にいてさえ不安をかきたてた。

「ほい」

 小男が、小ぎれいな手ぬぐいを差しだしてきた。どこにしまっていたのだろうか。突然にものを取り出すというのはいかにも奇術師じみていた。

 私が傷口をしばりあげるあいだ、男は歯を食いしばって耐えていた。

「御仁、命拾いされたな」小男が笑いかけると、

「親切でたすかったよ。船頭さんが」鰐にやられた男は吐き捨てるようにいった。やはり、小太郎は男に気づいていながら、何もせずにいたのだ。

 たとえ口げんかでも、船の上での騒ぎはごめんだ。私は話の流れをかえようと、助け上げた男に名をたずねた。

「丘次郎」

「いかなるわけで丘の人が鰐なぞ相手に?」小男が話をうばった。

「おれの連れが言い出したんだよ。酒の肴に、鰐の一匹でもって」

「お連れさんは?」

「さあな。昔からあんたみたいなやつだったからな」

「信心深いと」

「いまごろ寺にいって経を上げてくれって頼んでんのかもな」

 丘次郎は、私が船を進めている方角にむかって、忌々しげな視線をなげかけた。

「酒の肴なら、川でも野でもとれるでしょうに」私もつい口をはさんでいた。

「鰐はでかいから食い甲斐があるって連れが言ったのさ」

「あなたはどう思ったんです?」

「やめとけって言ったに決まってんだろ。人喰いだったらどうすんだって、止めたさ。鰐という鰐はすべて人を喰うもんだって言ったら、あいつは『んなこたない』って聞かねえんだ」

「ほおほお」小男は身を乗りだして話に聞き入っていた。

「そしたらあいつはさ『平気さ。行くのはお前だから。賭けの負けがこんでんだろ』って」

 弱みをにぎられている者は、無茶な頼みを聞かざるをえない。私も何度か聞いたことのある話だ。

「人喰いは鰐だけじゃないよ」と、いう小男の言葉が、私と丘次郎の注意をひいた。聴衆をえた小男はしたり顔になって続けた。

「熊もだ。でっかい熊ほど、人の味を覚えてるもんさ」

 やれやれ。おしゃべりな客を乗せると、楽しいときもあるが気が滅入るときもある。今日は後者のほうだった。

「船頭さん、でっかいつながりで気になったんだがよ」と、丘次郎が岸辺を指差した。私が出発した方角だ。

「あの白い袈裟着た大男は、いったい何やってんだ?」

 私が岸を見ると、白熊とかいう山伏風の大男はかんたんに見つかった。大男は、打ち寄せる波にも負けじと足を踏ん張って海の中に立ち、数珠をもみちぎって何事か叫んでいた。その勢いたるや、数珠を砕かんばかりだ。声もまた大きかった。大男が「召し返せ、召し返せ」と叫ぶ声が、私達のもとにとどいた。

 船に乗れなかったからといって、おかしな真似をするものだ。このときばかりは私も小男も気があったのか、二人して笑った。

「船頭さん、山伏とか修験とかを笑っちゃいかんよ」

 不安顔でいるのは、丘次郎だけだった。私は大男を見るでもなく見つつ、船を漕ぎすすめていた。

「召し返せ」と叫ぶ声は、まだまだ続いていた。白熊は何を思ったか、着ていた袈裟を脱ぎ放ち、腕を一杯に伸ばして掲げた。海に投げ入れようとでもいう構えだった。

 大男が頭上で袈裟をふりまわすと大風が吹いた。船がひときわ高く持ち上がり、まもなくずしんと勢いよく落ちた。波は猛々しく、舟をひっくり返す、いや、もみちぎらんばかりだ。丘次郎はうずくまって船べりにしがみついていたし、私もたまらず膝をついた。

 私は気づいた。波も風も、舟をもと来た岸へ返すように動いている、と。不気味なことに、海は荒れて白波が立っているなか、空は青々としている。

 横合いからの波が舟を裏返すより先に、私は舟が真っ向から波に突っ込むように仕向けたかった。

 私は櫂をあやつる。逆巻く潮、水塊の重み。私は負けじと腕をふるう。舳先が波に向きあう。青い水を砕く。真っ白な飛沫が私の全身を濡らす。目と口の中がひりつき、全身に怖気が走る。

 それでも、舳先で波を受け止めていれば、ひっくり返らずにすむ。胸をなでおろしたとたんに、波と風の向きが変わった。海が、それともまさか山伏が、私の努力をあざ笑っているのだろうか。

「このへんはいつもこうなの?」

 小男の声が、海と格闘する私に不意打ちをかけた。

「お客さん、陰陽師だって言ってましたよね」

 私は話しながらも櫂を操ったが、もはや舟は私の意をくんでくれない。

「物覚えがいいね」

「このままじゃ大変です」

「というと?」

「ひっくり返っちまいます」

「それだけ?」

「船ごとバラバラになるかも」

「鰐がいるならバラバラだね」

「なんとかしてくださいよ」

 私が頼み込むと、小男はニヤリと笑った。

「タダってわけにはいかないよ」

 私は思わず舌打ちをした。

「騙りの陰陽師じゃないでしょうね」

「心外な。インチキはあの白熊だよ。海が荒れ始めたのをいいことに、それらしい仕草をしてるだけさ。ほら」と、小男が元の渡し場を指差した。岸では、客たちが大男を崇めるかのように、平身低頭していた。

「ならやってくださいよ」

 私が預かった船賃を突き返すと、小男はにやつきながら受け取り、懐にしまい込んだ。

 舟は揺れに揺れ、私も丘次郎も船べりを指が白くなるくらいに握りしめて座り込むほどだった。そんななか、小男ひとりが立ち上がった。いくぶん危なっかしい腰つきではあったが、小男が手で印を結んだり高い声や低い声で唸ったりするさまは、いかにも私が思い描く陰陽師らしかった。

「あっちとこっちで引っ張り合いになって舟がばらばらになったりしませんかね」丘次郎が震え声でいった。

「案ずるな。式神の術を見せてしんぜよう」

 小男はそう言い返すと、懐から紙を取り出し、矢立から筆を抜きはなち、なにごとか書きつけようとした。

 そのとき、ひときわおおきな三角の波が船底に潜り込み、私達をぐいと持ち上げ、次の瞬間にはどうと落とした。

 たまらず小男はよろめき、短く悲鳴を上げ、紙と筆を取りおとした。小男の懐からは、なにかの包みが飛びだした。私が返してやった船賃だ。じゃぼんと、音を立てて包みは海に落ち、あっというまに見えない深みへ沈んでいった。

「あああぁ」

 小男は情けない声を上げ、しゃがみ込んだ。あとは包みを落としたあたりをじっとながめるばかり。もはや印も唸りもなく、ただの小男だった。

3

 風が私の体と舟をなぶる。船はもといた岸へと吹き戻されている。

 カッカという笑い声が響いてきた。声がしたほうを見ると、岸辺で山伏が腹の底から笑っていた。

 私は船の中を見渡した。丘次郎がなにごとか唱えている。念仏だろうか?丘次郎が口を開いたそばから大風がふきとばしていくから、何をいっているのかは聞き取れない。念仏だろうか。丘次郎の顔を見れば、何を願っているのかは分かる。

 大風が荒れ狂って、目の前にいるお客の声すら聞き取れないほどなのに、岸辺にいる大男の哄笑はいやというほど聞こえてくる。大男は風に向かいあっているはずなのに、笑い声は私の耳にしっかと届く。まったく道理が通らない、あやしのことだ。

 突風は大男の袈裟をはためかせる。荒波もまた大男の大根みたいな両足におしよせる。にもかかわらず、山伏はよろめきもせず、すっくと立って両手で念珠をもみちぎって大音声でなにごとか唱え続けている。

 波しぶきが顔に降りかかり、目鼻をひりつかせる。ときには青い水の塊が船の中に入りこむ。私達だけを苦しめる波と風は、舟を岸へ岸へと押しやっていく。このまま岸辺へ乗り上げるのか、なけなしの商売道具たる舟は壊れてしまうのか。もし舟が無事でも、私が足やら腕やら折ればそれまでだ。丘次郎はすすり泣きを始めた。私と似たようなことを考えたのかもしれない。

 風向きがにわかに変わった。波と風が、沖のほうへ船を押し流していく。

「まことにあっぱれよ」

 小男の叫び声が、私の耳に飛び込んできた。首を動かすと、小男が舟の中で一番座り心地のいい場所におさまっているのが見えた。船賃を落としてうなだれていたはずが、いつのまに立ち直ったらしい。

「たしかに晴れてはいますがね」

 なによりもおかしなことは、さきほどから海は大荒れだというのに、空には雲ひとつなく、お天道様が痛いくらいに照っていることだ。嵐なら空は鉛色になり、雨粒がところかまわずうちつけるものだが、いま空は真っ青だ。

「あの大男、あらゆる山で修行していたと語っていてな。熊野、御嶽、白山、大山、鰐淵、それ以外にもあちこち行ったとかで、この有様をみるに本当だったらしい」

「そういうあんたは?」と、丘次郎が問うた。丘次郎は小男の叫びにつられたらしく、すすり泣くのをやめて、張りのある声を出している。

「賀茂の流れの三代目さ。二条のあたりでな。夜ごとに銀盤に目を凝らし、暦法を司る修行をした。お天道様相手の商売をしているあんたたちに、私の苦労を分かってくれとはいわないがね」

「だんなはそうおっしゃってるって、それだけでしょう?」おもわず私も口をはさんだ。

「裏付けがないってんなら、あの大男の修行自慢にだって裏付けはないぜ」

 小太郎は首をぐいとのけぞらせ、私を見上げて言った。

「この海の荒れっぷりが裏付けさ。あんたも言ってたろ」

 丘次郎が小男に指を突きつけていったとたんに船が揺れた。おかげで丘次郎はよろけて、指を敷板にうちつけることとなった。突き指していてもおかしくない勢いだった。

 丘次郎が悪態を吐き散らし、小男がにやついているあいだにも、私はどうにかこうにかして船がひっくり返らないようにしていた。

 またしても風と波の向きがかわった。舟は元きた渡し場のほうへ吹き流されていく。

「このインチキ陰陽師め。このままじゃおれら、殺される」

「失敬な。私があやつの呪法から船を守ったのを忘れたか?」


「なんだって?」丘次郎が伸び切った指をさすりながら叫んだ。

「陰陽を使ったから舟が浮いてるのだ」

「あんたさっき、大男の修行自慢に裏付けがないとか言ってたじゃないか」

「海が荒れてるのが裏付けと言ったのは丘次郎殿では?」

 そうこうしているうちに、岸が近づいてきた。いまや群れなす人々の顔の見分けがつくくらいのところにまで戻ってきていた。

 大男はといえば、さきほどまで両手でもっていた数珠を片手に持ち替えた。その数珠を握りしめた片手でもって大きく二度、宙を薙ぎ払った。袈裟がはためく音は稲妻のようにも聞こえた。ほんの数刻、数珠が光ったような気さえした。

 猛烈な颶風が私に向かって押し寄せた。体が軽くなった。宙に浮かび上がったのだと気づいたときにはもう、どさっと音をたてて地面に落ちていた。

 私は岸辺に倒れ伏したまま、あたりを見回した。後ろの方に大男の姿が、右手にはおわんを伏せたように逆さになった舟が見えた。左手には、走って逃げ出す丘次郎の背中が見えた。船賃をもらいそこねた。働き損だ。

「真っ暗だあ。出してくれえ」

 ひっくり返った舟の中から、小太郎のくぐもった悲鳴がもれてきた。

 そうだ。私は舟を起こしてやらねばならない。小男が真っ暗のせまいところでジタバタしているのを想像するのが愉快だったことは認めよう。口八丁手八丁だけで世を渡ってきたような奴が報いを受けているさまを見て、唇を歪まさずにいられようか。

 だが、舟を元通りにしなければ、私は商売ができない。一人の客に長々とかまっていればいるほど、食事はひもじくなる。

 私の舟は、一人で起こすにはいくらか不安のある大きさだ。変に力を加えると板の継ぎ目が開く。

 客引きをするときのように、渡し場の客たちを眺めてみた。誰か手を貸してくれないものかと思ったが、誰も近づいては来ない。山伏が恐ろしいのか、ずぶぬれになった私のさまがひどすぎるのか。その両方かもしれない。

 私はこわごわと山伏のほうを見た。向こうもこちらを見返してきた。お互い、動かずに見つめ合うだけだった。

 ふと私は、もしかして大男の袈裟は水に濡れずにいるのではと思ったが、袈裟の裾はぬれそぼって重たげな様子だった。大男は悪天候に乗じて、もっともらしいふるまいをしただけなのだろうか。

「おおい、助けてくれ、なあ」

 小太郎は、舟を叩きながら叫びつづけている。舟を起こす必要があるのはたしかだ。それでも私は、いましばらく小男をいたぶってやりたかった。私はしずくが垂れる服の裾を絞ったり、力を入れすぎて凝り固まった肩をほぐしたり、舟を起こすのを先延ばしにしつづけた。

「おぬし、なかなか肝が座っとる。陰陽師の怒りが怖くないのか?」

 そんな私に山伏が声をかけてきた。歯を見せて笑っているし、目は三日月だ。私が黙っていると、大男は手真似で舟をひっくり返そうと合図してきた。

「たしかに面白い見世物じゃが、舟を叩き壊されても困ろう?」

 山伏の言うことは道理だ。古い船だから、叩き続ければガタがでる。

 私はうなずいて、そこを持ってくれ、合図をしたら持ち上げてくれと頼んだ。私と山伏で合力すれば、舟を起こすのは赤子の手をひねるようなものだった。

「ぎゃあ」とうめき声がした。

 視線を下げると、小男が両手で顔を覆っていた。突然の日差しが眩しかったらしい。そんなのは放っておいて、私は舟を沈ませるほどの痛みや欠けのないことをたしかめた。無事が分かったので、私と大男は二人して舟を水辺へ戻した。

「対岸まで、頼むぞ」

 ことの始まりと同じように、大男はなにひとつ差し出さずに言った。私に断れようか?

「あんただけの船じゃないぞ。私だって向こう岸に用がある」

 私はさっさと出航しようと思ったのに、小男が口を挟んできた。

「船賃」

 私は舟の中にたって見下ろしながら言った。

「さっき払った」

「あれは数に入りません」

「私は賀茂の陰陽師だぞ。怖くないのか」

「白波のほうが怖うございます」

 小男は押し黙って、足元の砂をやたらとにじったが、私達めがけて砂をかける度胸はないようだった。

「おぬし、人を見る目があるなあ」

 大男は痛快そうに笑い、私の背中を痛いくらいに叩いた。

「渡守稼業が長いもんですから」

「はじめからその目を使っとればよかったのにのお」

 今度は私が押し黙る番だった。

 取引はまとまった。私は大男一人だけをのせて、ただで舟を出した。もう日が昇っているのに、海は朝凪のときのように穏やかになっていた。

4

 私はなるべく客と話をするようにしている。海が穏やかで客がくつろいでいるときはもちろん、海が荒れていて客が肝を冷やしているときはなおさらだ。

「向こう岸の松林は、私の爺さんの代から松林だったそうです」

 仕事上のならいというのはおそろしいものだ。ついさっきまで私は死にかけていたのに、いまは何事もなかったかのように客を口説きはじめていた。べつに山伏の機嫌をとっているのではないと、言えればいいのだが、実際のところはご機嫌取りだ。もしも大男が、あるいは海原が、再び舟をひっくり返したら、私は今度こそ鰐の餌食だ。船頭という仕事をつづけたいなら、客をなるべく上機嫌にしておくものだ。

「蕭蕭と風にざわめくさまを眺めたいものだ」大男は言った。

 どうやら私は、風という言葉を聞いたとたんに顔をこわばらせたらしい。大男は愉快そうにクツクツと笑って手を振ってきた。

「悪かったな。濡れ鼠にして。このままお天道様がおぬしをあぶったら、衣が塩まみれになるだろう」

「そしたら塩屋になります」

「はじめっから塩屋でもよかろう」

「よくいわれます。なにせ私の名は塩次しおつぐですから。塩には縁があるんです」

 山伏は大きくうなずいた。どうやら、私は贔屓の客を作ることに成功したらしい。うまい話ができる船頭ほど、常連客を作りやすい。たとえ一回きりの縁でもいい。客に名前を教えておけば、いつか芽が出る。甲楽城の渡しに塩次ありという評判が立てば、私の得になる。新しい客が、他の船頭ではなく、塩次の舟を求めてやってくるからだ。

 なかには私のような船頭に難癖をつけるやつもいる。下心だ、人心をたぶらかすろくでもない輩だと、陰口を叩く奴らだ。だが、どちらがましだろうか。人を舟から放り出しておいて「悪かったな」で済ませる輩と、客を喜ばせこそすれ傷つけはしないお喋りをする船頭と。

「お客さん、つかぬことを伺いますが、さっきのは三宝とかその手のものだったのですか?」

「なぜそんな事を聞く?」

「喋ってると調子が出るんです」

「山にこもってみればいい。答えが分かるぞ」

「あいにく船頭なものですから」

「白山ならすぐだぞ」

「舟は山には登れません」

「歩くに決まってるだろう。近いぞ」

「遠いですよ」

「たかが四十里だぞ」

 私は長いこと船頭をしていて気づいたことがある。国から国へ歩いて回る者たちの一里は、私のようなものたちの一里より短いということだ。

「あちこち行脚されているようですが、なにか珍しいものはありましたか」

「もちろん」

 大男は気を良くしたらしく、山でのあれこれの出来事について語ってくれた。草木も生えない岩山のてっぺんでの鵺退治だとか、陸地が生じてからこのかた一度も日の目を見たことのない洞穴で土蜘蛛の后を成敗しただとか、骨が折れそうな峠にある小屋のなかで旅人に眠り薬を振る舞っては身ぐるみを剥ぐ怪しの者の頭を潰しただとか。どの話でも最後には、大男が怪しのもののねぐらから、砂金や翡翠、竜涎香はもちろんのこと、金鎖と螺鈿で拵えた太刀や、玉髄から彫り出した仁王やらをぶんどるのだった。

 私は櫂の調子にあわせて相槌を打ち続けた。話は眉唾ものだが、聞くだけなら害はない。私にとっては得である。「あるお客さんから聞いたんですがね」と、他の客に聞かせるネタが増えるからだ。

「どうする?」不意に大男がたずねた。

 私は一瞬、固まった。

「舟が向こう岸についたら、おぬしはどうするんじゃ」

 大男は声をおとして言った。おかげで、私はほっと胸をなでおろした。山で修行をしていると、人は世間のことを知らなくなるのだろうか。それとも、この大男は人を驚かせるのが楽しくて仕方ないのだろうか。この男とは対岸で別れてそれっきりにしたい。塩次の名だけを広めてもらえれば、それで十分だ。

「向こう岸でお客さんを乗せて、来た道を引き返します」

 何気ない調子で切り返すのは難しかった。あやうく「新しいお客さん」といいそうだった。

「そうかそうか、それにしてもいい松林だ」

 ありがたいことに、対岸の渡しは間近だった。

 私が舟を岸につけると、山伏は懐に手を突っ込んだ。

「ほれ」と、山伏が突き出したのは絹の巾着だ。

 私の口から、驚きと感謝の言葉がいっぺんに飛び出した。

「礼を言う前に中身を改めよ」

 大男は苦笑しながら巾着を開いた。陽の光が中のものを照らした。さっきまで大男が話していた手柄話を、信じたくなるようなものが入っていた。船頭の仕事を放り出して、どこかの寺の田畑を任せてもらうことだってできそうだった。中身のうち一分だけでも、なにかと楽しみが得られそうだった。

「ありがとうございます」

 私は両手を体の前に出した。手を大皿にするか、小鉢にするか、それが問題だった。十指をすべて相手にみせる大皿の形を作ったら、山伏は私を欲張りだと責めて海に放り込むかもしれない。私は鰐の餌にはなりたくなかったから、手を組んで小鉢を作った。

 山伏は無表情で巾着の口を閉じた。

 私は慌てて手をすぼめた。器は、器なのかどうかわからないくらいの大きさになった。

 山伏は私の目を覗き込んでニヤリと笑った。次の瞬間、私の手に重いものが落ちた。

 目を落とすと、絹の巾着がまるごと、私の手にあった。

 信じられなかった。私は感謝の言葉を口にしたつもりだが、まともな言葉になっていたか怪しいものだ。

 私達の間に沈黙が流れた。

「なにかお探しですか?」

 岸についたというのに、大男は舟から降りようとしない。

「早く舟を出せ」

 私には意味がわからなかった。

「いいから出せ」

「もう御用がお済みで?」

「これから済ませるのだ」

 私は思わず顔をしかめた。まさかこの山伏、海に向けて出すものを出すつもりではあるまいか。

「早く出せ、船賃を渡したじゃろ」

 私は悟った。言われるがままにするほかないと。私は舟を操り、もと来た道を戻った。舟が岸に近いうちは、あれこれと質問をするべきではないと分かっていた。

 塩が肌を痛くするのをこらえて、私はしばらくのあいだ舟を漕ぎ勧めた。足がつかないことが確実な深さまできたところで、私は聞いてみた。

「いったい向こう岸に何の御用で?」

「あの似非陰陽師の惨めな面を笑ってやりたくなった」

「さようでございますか」

 山伏にしては、随分と俗な楽しみをお持ちだが、口には出さないでおいた。巾着を取り上げられては、たまったものではない。私はただ仕事用の笑いをうかべて、うなずいた。

 私が首を下を向けたそのときだ。勢いよく水をはねかす音が耳に飛び込んできて、真っ白な手が船べりに掴みかかるのが見えた。冷たい水が二の腕にかかり、私はすくみあがった。悲鳴もあげたにちがいない。

 海面に見覚えのある顔があった。似非陰陽師だ。

「仕返しか?」固まっている私にかまわず、山伏が尋ねた。

「いや、落とした船賃を探している」

 とまあ、こんなことが、この渡しで起こったのですよ。坊や、まだ飛び出さないでくれよ。貝で足を切るといけない。もうすぐ岸に着くから。おふたりとも、あとちょっとの辛抱ですよ。

 え?なぜ、たいそう儲けたはずの私が、ぼろを着て船頭やってるのかって?例の巾着のことなら、落としちまったんですよ。あの似非陰陽師がはねかした水しぶきにすくみあがった拍子にね。

本短編は宇治拾遺物語3巻4「山伏、舟祈り返す事」と、落語「巌流島」にアイデアを得たものです。両作品を考案した方々と今日まで伝えてきた方々に、末筆ながら感謝いたします。

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