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【読書感想文】フリッツ・ライバー「凄涼の岸」は凄く涼しく激しく熱い

 ファファード&グレイマウザーの「凄涼の岸」を読み返していたら、グッと来る場面があった。背筋がぞっとするような寒々しい邦題、作中に漂うタナトス、死のにおいとは裏腹に、胸が熱くなる場面がある。

文庫本10頁でもアツい

 1940年発表の本作は、文庫本見開きで約10頁ながらも読み応え抜群だ。

 ファファード&グレイマウザーとはなんぞやと、いう説明をざっくりすると、雪山育ちの大男と都会者の小男が、怪しげなヤマに首を突っ込んでは、主として剣術と悪運で、時として(電子レンジを叩いて直すように)原理を知らないまま魔法をいじくりまわすことでもって何とか切り抜けると、いう軽妙洒脱なファンタジー小説のシリーズである。

 シリーズの生みの親の名はフリッツ・ライバー。「凄涼の岸」はシリーズ第二巻『死神と二剣士』に収録されていて、バディものが好きという人はこの第二巻から読むのもおすすめ。

『〜二剣士』というタイトルの書籍こそ、ファファード&グレイマウザーシリーズを収める書籍である。邦訳5冊のうち5巻目を除いて短編〜中編である。一話一話ほぼ独立してるので読みやすい(長編である5巻目も読みやすい)。2021年現在、amazonでの中古書の入手は容易い。

(注)以下に出てくるページ数は2000年代に出た定訳版のもので(筆者は旧版未読のため、ご容赦ください)、書誌情報はページ末にまとめてます。また、本記事には、以下作品の結末部分を含むネタバレがあります。未読の方は一読したあとでお読みになることをおすすめします。

「別の声」に注目

 準備として、凄涼の岸でファファードとグレイマウザーが、漆黒の丸石と大小の白骨を見出した直後の場面を再確認する。

 どこからともなく、抑揚のない声がひびいてきた。かぼそいが明瞭なその声は、命令口調でこういった。「戦士には、戦士の死を」(中略)そして、囁きにも似た別の声が、彼の内部から発してこう告げた。「やつはいつも過去の経験をくりかえす。これまではそれがやつに味方してきたのだ」
 と、マウザーは、眼前にある光景がまったくの無生命ではないことに気づいた(『死神と二剣士』p177)

 さて、「別の声」のセリフ「やつはいつも過去の経験をくりかえす。これまではそれがやつに味方してきたのだ」とは、どのような意味なのか?このセリフは反語とも解釈できる。これまでは味方だった、しかし、今度は味方しないと、いうように。

 ひとつ疑問がある。「やつ」とは誰か?

仮説その1:ファファードもしくはグレイマウザー、または、ファファードとグレイマウザーのこと(以下F&GMと略)

 すると、「別の声」の言葉はこう解釈できる。F&GMはいつも過去の経験をくりかえす。これまでは過去の経験がF&GMに味方してきた。けれども、今回は味方しない。

 では、過去の経験とはなにか?

 F&GMがともに肩を並べて戦ってきたこと、言い換えれば相棒を見捨てずに戦ってきたことではないか。なぜ上記のように類推できるのかといえば、この後にF&GMが協力して敵と戦うからである。

 この後は、ダイジェストにしてしまえば、F&GMが4匹の怪物を向こうに回して、2対4の負け戦を強いられるなか、グレイマウザーが独り撤退して敵の根本を叩くというものだ。

 想像力をたくましくすれば、「別の声」は以下のような思惑を持っていたのだと推測できる。決して相棒を見捨てないというF&GMの美徳(もしくは相棒より先に逃げ出さないという意地)が、F&GMの命取りになるという皮肉な場面を作り出そうと、いう思惑を。

「別の声」と「声」

 とはいえ、「やつ」とは誰か?という問いに別の解釈もできそうだ。というのは、F&GMの死を望む「声」の持ち主の中に、(ジキル&ハイドのように)別の存在すなわち「別の声」がいるという解釈だ。

仮説その2:「やつ」とは「声」のこと。

 この場合、過去の経験とはなにを示すのか?

 もしかすると「別の声」はF&GMに味方する存在であり、「別の声」は「声」に対して、今度こそは凄涼の岸という罠が機能しないぞと、脅したのかもしれない。

 ただし、「別の声」が喋り終えたあとも、マウザーは怪物の誕生を「ぼんやり見まもった」り、「麻痺した心」でいたりと、通常ならざる状態である(p178『死神と二剣士』)。

 このように、上記のグレイマウザーの状態からすると、仮に「別の声」がF&GMの味方だとしても、F&GMを罠から解き放つほどの力を持たなかったようである。

 結局のところ「やつ」とは誰か?という問題について、残念ながら筆者は明確な答えを出せない。

どこが胸アツなのか

 さて、凄涼の岸を舞台にしたF&GMの大活劇のなにが胸アツかといえば、グレイマウザーがファファードを助けるために、自分の生命を対価として差し出していることだ。マウザーに自己犠牲精神があったということは、以下の一文から読み取れる。

 そのあと、彼は鉤爪のとどめの一撃を待ちうけた。(『死神と二剣士』p180)

 「彼」とはグレイマウザーのことで、「その」とは、マウザーが怪物たちに背中を向けて怪物の根本を切りつけたことだ。

 本記事の筆者は、21世紀にもなって、自己犠牲という価値観を褒めそやしたくはないが、自己犠牲はバディものの盛り上げ方の一つではあるかなと思う。少なくとも「凄涼の岸」は、窮地に陥った主人公二人が一緒に肩を並べて死ぬという、思考停止と自己陶酔からは逃れている。

 このように「凄涼の岸」は陰鬱な雰囲気をたたえつつも、相棒愛のたぎる作品と読むことも出来る。

笑いもあるよ

 とはいうものの、胸熱なシーンは同時に、笑えるシーンでもある。

 まず、冒頭に引用した「戦士には、戦士の死を」と、いうセリフに再び注目したい。次に、グレイマウザーは(とりあえず)魔法を使えるらしいことを思い出したい。

ファファードはいった。「おぬしがおのれの卑しい魔法をおれに試みるのは、下劣な裏切りの最たるものだぞ」(フリッツ・ライバー著 浅倉久志訳「魔道士の仕掛け(『霧の中の二剣士』p189)

 ちょっと作品の外側に考えを引き戻すと、上記の記述から、1936年には、マウザーに魔法の心得があるという設定が出来ていたと考えられる。

 なぜなら「魔道士の仕掛け」を、作者ライバーは1936年に書き上げていたからだ―発表こそ1947年だったが。一方で「凄涼の岸」は1940年の発表だ(『死神と二剣士』の「解説」による)。

 つまり「凄涼の岸」の執筆時に、作者ライバーの頭の中には、マウザーは魔法に縁があるという設定があったはずである。

 にもかかわらず「声」は「戦士には、戦士の死を」というように、ファファードとグレイマウザーの両方を(と、文脈から判断してもいいとは思う)戦士扱いしている。

「声」の素性について具体的な描写はないものの、何であれ「声」がグレイマウザーを魔法使いと扱わないところに、思わずほほえみがうかぶ。

 以上の点から、筆者は「凄涼の岸」を、クールかつホットなヒロイックファンタジーと思っている。

そのほか

 ファンサイトScroll of Lankhmarを通して知ったのだが、下記のブログは、本作についてほかにも興味深い問いを述べている。

 たとえば、結末近くで、マウザーが切りつけたのは何だったのか?つまり「彼は魔法使いを殺したのか?酒場に現れたのは魔術師の複製だったのか?それとも魔法使いに結びついた何らかの存在だったのか?」と、いうような問いの他に、敵の魔法使いの生態について推測している。

【加筆箇所】本作が一番最初に日本語訳された?

 筆者なりの推論を先に書くと「凄涼の岸」(原題:The bleak shore)こそ、一番最初に日本語訳されたF&GMのようだ。

 きっと、誰かが気づいて既に書いてるから、改めて書くのはおこがましいことだろうと、おもったものの、文庫巻末の訳者あとがきやファンサイトをいくらみても、「凄涼の岸」が一番最初に翻訳されたF&GMだ、なんてことはかいてない。本記事の筆者の勘違いかもしれない。いずれにせよ書誌をまとめてくれた先達のみなさまに感謝です。おかげで楽しく深読みできます。

 とりあえず既存の書誌を年表形式にと、いうことでファンサイトや訳者あとがき、ECサイトを情報源に「凄涼の岸」の収録状況をまとめた。

1940, 雑誌, Unknown, 1940年11月号
1957, 短編集, Two Sought Adventure, 1957, Gnome Press
1970, 短編集, Swords Against Death, 1970, Ace books, Amazonによると初版は1970年1月付で、少なくとも81年と86年に再版あり
1970, 雑誌, ミステリマガジン, 1970年1月号, 早川書房, 鏡明訳, 掲載時の邦題は「凄涼の岸辺」, pp142-159あいだに広告を含む, ◯
1978, 短編集, 死神と二剣士, 1978, 東京創元社, 大谷圭二訳, (浅倉久志), 刷によりカバー絵が異なるらしいが未確認, 同シリーズ1巻目『魔の都の二剣士』291頁に底本はAce Booksのペーパーバック版とある, ◯
2003, アンソロジー, 不死鳥の剣, 2003, 河出書房新社, 浅倉久志訳, ◯
2004, 短編集, 死神と二剣士, 2004, 東京創元社, ◯
2014, 短編集, Swords Against Death, 2014, Open Road Media Sci-Fi & Fantasy, 電子版のプレビューを見た限り本文だけで解説は無さそう

 右端に◯印があるのは、筆者の手元にあるもの。好きな作品に関する情報を発信する以上、下手なことを書いて作品に傷をつけたくなく、なるべく資料をチェックしてから書きたいな、と。

拝見したファンサイト一覧(いずれも2021/08/22アクセス)
https://ameqlist.com/sfl/leiber.htm
http://www.lares.dti.ne.jp/~hisadome/leiber.html#fafhrd

 熱心に雑誌やペーパーバックを集めては解説を書いたり、サイトを更新してくださる皆様のおかげで、21世紀になってからヒロイック・ファンタジーを知った者でも十分な楽しみを味わえるわけで、感謝と同時に資料(初出の洋雑誌、ペーパーバック)収集がいい加減な本記事でごめんなさい。

 さて、話を戻すとして、ameqlistさんによればThe Sunken Landが「沈める島」という邦題で、1970年9月に新人物往来社の『魔女の誕生』に収録されたらしい。

 そして、おなじくameqlistさんのリストを拝見した限り、ミステリマガジン1970年1月号に掲載の「凄涼の岸辺」より以前に、ファファード&グレイマウザーは翻訳されていない様子。

 筆者が、ミステリマガジン1970年1月号にあたったところ、「剣と魔法の国」(p142)という枠の中で掲載されていた。残念ながら、解説や紹介文、底本の情報は見当たらず、ただ邦訳と挿絵が一つあるだけだった。

 追加で、旧版の『死神と二剣士』(筆者の手元にあるのは1990年の第三版)も確認したものの、日本初邦訳作品はどれかと、いう話題は見当たらなかった。

 はじめにもどると、もしかすると”The bleak shore”「凄涼の岸」こそ初めて日本語訳されたF&GMものであり、ミステリマガジンこそF&GM日本初上陸の地なのかもしれない。もし間違ってたら責任は筆者に。

【加筆箇所】ミステリマガジン版と文庫版の差異

 あくまでも筆者の推測だが、ミステリマガジンに掲載された邦訳と、2004年の創元推理文庫版(1978年版と底本は共通のはず)では、底本が違うのかもしれない。上記で年表にしたように出版時期をみると、ミステリマガジンはAce Books版以前のものを底本にした可能性もある。

 知っている人は知っている話題なのかもしれないけど、筆者の目についた3箇所を挙げる。

1.夜、酒場、はじまりの場面:銀鰻亭の名前が出るのは、創元版だけ。

 歴史には記されていない土地ランクマーの首都、古き町ランクマーの酒場は(後略)
(鏡明訳「凄涼の岸辺」ミステリマガジン、1970年1月号、p142下段、強調は引用者による、以下同様)

<銀鰻亭>は(後略)
(浅倉久志訳「凄涼の岸」『死神と二剣士』東京創元社、2004、p163)

2.謎の男が「凄涼の岸」と三度目に口にしたあと、ミステリマガジン版では謎の男がなおも話し続ける。

「凄涼の岸」小男は繰り返す。「そして男たちは行かねばならぬ」
 そして酒場にいた男たちは(後略)
(ミステリマガジン版p144下段)

「<凄涼の岸>」と、男はくりかえした。
 と、酒場の客たちは(後略)
(創元推理文庫2004年版、p167)

3.別の声が出てくるのは創元推理文庫版だけ。

「戦士には、戦士の死を」
 マウザーはその声に聞き憶えがあった。(中略)
 そして自分の眼の前にあるものが(後略)
(ミステリマガジン版p157下段)

「戦士には、戦士の死を」
 マウザーはその声を知っていた。(中略)そして、囁きにも似た別の声が、彼の内部から発してこう告げた。「やつはいつも過去の経験をくりかえす。これまではそれがやつに味方してきたのだ」
 と、マウザーは、眼前にある風景が(後略)
(創元推理文庫2004年版、p177)

 以上のように、翻訳の差異もしくはミスによる脱落というよりは、改稿といったほうがよさそうな差分が、ミステリマガジン版と創元推理文庫版の間にある。

フリッツ・ライバー著 鏡明訳「凄涼の岸辺」(『ミステリマガジン』1970年1月号、早川書房)
フリッツ・ライバー著 浅倉久志訳「凄涼の岸」(『死神と二剣士』東京創元社、2004)
フリッツ・ライバー著 浅倉久志訳「魔道士の仕掛け」(『霧の中の二剣士』東京創元社、2005)




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