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ある意味の戦争

某アーティストの権利とか諸々の話が話題になっているけれど、数年前に私が人を信じることや人に期待することをやめた話をしたいなと思ったのでnoteを開きました。

人って本当に簡単に裏切るし、簡単に押し付けるから、素直でいればいるほど疲弊したりする。でも素直でいることで手を差し出してくれる人もいる。私はその時まで性善説を本気で信じていたし、そうやって生きてきても幸せだった。

性善説は嘘だ。信じている人には申し訳ないけど、人を傷つけたって殺したって何にも思わない人って本当にいる。それが私が生きてきた中では一番の衝撃だったし、人生を大きく変えた。

そもそも【善】とは何か。もちろん先述したような人たちにはその人たちなりの【善】があって、見方を変えれば性善説だって正しいかもしれない。でも、今このご時世にこの言葉を使うのに少し気が引けてしまうけど、【常識的】な【善】をそれとするなら、やはり性善説は成り立たない。

正義の間に戦争は起こるように、善行なんてものも曖昧だ。だから私は人に期待しないし簡単に人を信用しない。もうそれで疲弊するのは嫌だからだ。あの頃の私は若かったし、色々な人が助けてくれた。本当に周りに恵まれていたんだなと後に痛感するのだ。でも、こうやって変化をしたからこそ今生きていられる。あのまま生き続けたら私は多分どこかで死を選んでいただろうと思う。

私は散々人を傷つけてきた。けれど私は自分から踏み込んで人を傷つけるなんてことは、流石にいい大人なのでしない。全ては相手が私のラインを土足で踏み越えた時に起こる。私の感覚ではそうだけど、相手はそんなつもりが無かったなんてことも数多あるだろう。だから人間は面倒だ。あの頃の私はすごく素直で、人を信じて、幸せに生きていた。具体的に話すことはできないけれど、ある人たちの輪にいた頃何度も何度も嘘を吐かれ何度も何度も同じ裏切りを受けて全てをやめた。感情のバケツが一杯一杯だった。もう無理だ、このままじゃ私が死んでしまうと思い、丸一日無理に休みを作って心の全てを捨てた。あの日に私は一度死んだと思っている。

そこから変わることは意外と簡単だった。今、私は自らの正義の下に人を選別し、ラインを超えてくれば刃で傷つけるし、数少ない大切な物を守るために時には嘘をも吐く。こうしなければ、私の人生は成り立たない。それがひどく悲しいことのように思う時もあったが、今となってはそうでもない。素直に生きるべき相手を選ぶ目を手に入れた、という表現が正しいだろうか。

私は私と大切な人間を傷つける奴を許さない。全ての人間の正義を理解することは無理だ。たとえ相手にどんな正義があろうとも、私の正義と対立するのなら私は戦いたいと思う。そうやってあれから生きてきて、失った物も多くあれど、この一度の人生で得たかった物もたくさん得られた。

あの頃の私のままで生きていて、もし死なずにきていたらきっとまた違ったのだろうとは思うけれど、今の私は今の私で結構好きでいる。

全てを守れるほどの強さがあったら、と思う時もある。
そう簡単なことじゃない。ほとんど不可能だ。それも知っている。

最近唯一見ているドラマにあった台詞

「人生に失敗はあっても、失敗した人生なんてないんだよ。」

ああ、まさにその通りだと思った。そうやって生きていきたいと思った。そして私はそうやって今生きていると思った。グッときた。こういう感動をいくつも重ねて、大切なものを守りながら生きていきたい。


なんだかずいぶんと話が逸れてしまった気がするけど、一番何が言いたいかと言うと外野がとやかく言うのはただのノイズだってこと。本来のことなんて当人にしかわからないんだから、へえ、そうなんだねで終わり。そうやっていちいち片方の話を聞いて怒って泣いて生きてたら、余計に真実なんて見えてこない。でもまあそういう人の大半はそれだけで満足なんだろうけど。

この件についてはほんっとうに思うところがありすぎて色々考えていたら支離滅裂になってしまった感じしますね、、、(笑)


私は性善説を信じない。
守りたいものを守る為に戦って生きていく。

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